11 結婚の打診とただ一つ怖いもの
スカイラとのなんちゃってお買い物デートをした日から数日が経っても、わたしは夢の中にいるようなフワフワした心地でいた。
鼻歌を歌いながら、教えてもらった恋愛運アップの文様を、ドレスの胸元に刺繍していく。
長らくクローゼットに眠っていた淡い赤紫のドレスは、あの日から一番のお気に入りへと昇格した。
たぶんわたしのクローゼットの中身は、これから先、紫色に浸食されていくことと思われる。
「――よし! できた!」
この数日間、夢中になってチクチク刺してきた刺繍が完成した。花柄にも見える恋の文様が、ドレスを元よりも華やかに彩っている。上出来だ。
さっそく出来上がったドレスに着替えて、姿見鏡の前に立ってみる。
胸元の刺繍をよくよく確認して、髪の毛を結い上げてみたり、アクセサリーを合わせてみたりした。
「スカイラ様、また素敵だって言ってくれるかなぁ……」
あらゆるシチュエーションを妄想して、足をバタバタさせてもだえる。
早く披露しに行きたいけれど、次神殿に行くのは来週になってからだ。
来週の真ん中の日に、スカイラがお菓子を作ってきてくれるらしい。その約束の日にこのドレスを着て行こうと思う。
しばらく鏡の前で一人ファッションショーに勤しんでいると、誰かに玄関扉をドンドンと叩かれた。
体が即座に反応して、戦闘態勢に入る。
「おーい! アイシャ、いるんだろう? 開けてくれ!」
「あら、お父様!?」
扉の向こうにいたのは敵ではなくて、父だった。小窓から確認すると、門のあたりに使用人もいる。
この力作の刺繍のドレス……できることなら最初に披露する相手は父ではなくて、好きな人がよかった……
わたしの複雑な乙女心が、そう嘆いた。
家の中に招き入れると、父はずんぐりとした大きな体を、どすりとソファーへ預けた。
「久しぶりだな、アイシャ。いやぁ、思っていたより辺鄙な場所にあるなぁ、この家。やれやれ、まるでおもちゃのような小ささだ」
散々なことを言ってくれるが、この家に住むよう命じたのは父だろうに……そんなことを思ったけれど、口争いはしたくないので黙っておく。
「お父様、何かご用事ですか? ……まさか、お姉様の件で?」
わたしは数日前の、湖ダイブ事件を思い返す。あの後、姉はどうなったのだろう。わたしの反省寒中水泳を見て、怒りを治めてくれたのだろうか。
「なんだ? お前またリムリーンに何かしたのか!?」
「え、っと、お姉様から、何も聞いていないのですか?」
「あぁ。リムリーンの奴、数日前に学院で気を失って、それからまた部屋にこもってしまってな」
わぁ……お姉様、ごめんなさい……
わたしは顔をひくつかせて、心の中で平謝りをした。姉に反省の気持ちを伝えるどころか、心にダメージを与えてしまったようだ……
人が目の前で飛び降りる瞬間を見て、衝撃を受けてしまったのかもしれない。腰巾着の令嬢たちも、今頃もしかしたら同じように臥せっているかも。
父は冷や汗を流すわたしのことを、ジトリとした目で睨んだ。
けれど直ぐに空気を切り替え、別の話をし始めた。
「まぁ良い。ひとまず、今日の本題はそこじゃない」
「はぁ、では何用で?」
キョトンとするわたしに、父は鞄から一通の手紙を取り出した。金箔飾りの付いた綺麗な封筒だ。これはもしや――……
「喜べアイシャ! なんと、お前に結婚の打診がきたんだ!」
「…………はぁ!?」
一瞬の間を開けて、わたしは仰天した。
「なななっ!? わたしに!? 求婚者が!?」
「あぁ、そうだ! お相手はあの軍人一家の『アロンゾ・ビスト』氏だ」
「軍人!?」
動揺しすぎて震える手で封筒を開ける。手紙には本当に、わたしと縁を結びたい旨が書かれていた。
「お相手はお前に惚れ込んでいるらしいぞ。しかもその理由が、卒業パーティーでお前のやらかしを目撃したからだそうだ」
「なんで!?」
意味が分からない。男女二人を捻り倒すという酷いやらかしに、惚れ込む要素なんてあるのだろうか。
「相手はビスト家の五男坊だ。お前の見事な体術を見て惚れたんだと。ビスト家は武力で成り上がった家だから、戦神を崇敬しているんだとか」
「なるほど……」
戦神の信奉者の家か。こんなところに需要があるとは思わなかった。
というか、需要があっても困る。わたしの心はスカイラにあるのだ。他から求められても、申し訳ないが煩わしいだけである……
気持ちを落ち着かせるように深呼吸をして、わたしは渋い顔で、父へと言葉を返した。
「せっかくのお話ですが、わたしの結婚関係のお話は、十八歳の成人の歳になってから――」
「何を真面目腐ってるんだ。年齢なんぞを守ってる奴なんて、聖職者ぐらいだろうに!」
ですよね~。と、わたしは生気の抜けた目で宙を見た。ちなみに、姉リムリーンが婚約を結んだのは、十四歳の頃だった。
「良い家の娘ほど、若い年齢で婚約を結ぶものだ。お前はなかなか相手が決まらなかったが、ようやく良い相手が見つかったな。アロンゾ・ビスト氏は、なかなかの美男子だそうだぞ」
ハッハッハ、と父は大きく笑った。
推しを超える男前なんて、この世界にいるわけないんですが? と、早口で詰め寄ってやりたかったけれど、グッと堪える。
「それで、挨拶と視察を兼ねて、郊外にあるビスト家の領地を訪問することになったから、お前も同行するように」
「……いつです?」
「来週の真ん中あたりに出発する予定だ」
「ぬああああ――――っ」
わたしは崩れ落ち、頭を抱えて叫んだ。スカイラとの約束と被ってしまった……
父はギョッとした顔で、死にそうな声で呻くわたしを見ていた。
■
わたしは週の頭に、神殿へと足を運んだ。
もちろんスカイラに会うためだ。お菓子の約束の日にはまだ早いけれど、もう明後日には郊外のビスト家に行かなければいけないので、その旨を伝えにきた。
いつもの面談室で、スカイラと机を挟んで対面する。
刺繍を入れた赤紫色のドレスを着てきたけれど、気持ちは浮かないままだった。縁談の顔合わせが憂鬱で仕方なくて、ずっと心に膜が張ったように、感情がぼやっとしている。
スカイラとお喋りをしたら、この沈んだ気持ちも晴れてくれるだろうか。
「スカイラ様、こんにちは」
「こんにちは、アイシャさん。約束した日より少々早いご来訪ですが、何かありましたか?」
「ええと……」
わたしは喋ろうとしていた言葉を、とっさに飲み込んでしまった。
『結婚の打診がきて、予定が入ってしまったので』と話すつもりだったのに、スカイラを前にしたら、なんだか喋る気が萎んでしまった。
不自然に間が空いてしまったのを取り繕うように、わたしは明るい声音で別の話題をねじ込んだ。
「……見てください、ドレスに恋の文様を刺繍してみました!」
「とてもお上手です。華やかで素敵ですね」
念願の褒め言葉をもらったけれど、心に膜が張っている今の状態では、照れてもだえるような事態にはならなかった。とても嬉しいのは確かだけれど。
わたしは机に頬杖をついて、はぁ、とため息を吐く。
「……この刺繍でわたしの恋、良い方向に進むと良いんですけどねぇ……」
「浮かない顔をしていますね。恋愛事に悩んでいらっしゃるのですか?」
スカイラが顎に手を当て、ふむ、と真剣な顔をした。
恋愛事の悩み、と言えば、まぁその通りだ。わたしには好きな人がいるのに、アロンゾ・ビストに惚れ込まれてしまった、という、もつれた恋の悩み。
もし、縁切りのおまじないがあるのならば、申し訳ないが、アロンゾとの縁談に使いたいところである。
「う~ん……恋愛関係の悩み、といえば、そうなんですが」
「それならば、私よりも神殿の清掃員の女性に相談されるとよろしいかと」
クルクルパーマのおばちゃんだ……!
まさかスカイラから彼女の情報が出てくるとは思わなくて、わたしは軽くむせた。彼女には、既にいつもお世話になっている。
「こ、今度……相談してみます」
「えぇ、是非」
話題が一つ終わると、面談室に静けさが満ちた。高い位置にある窓から陽が差し込んで、スカイラの白い神官服を照らしている。
わたしは頬杖をやめて、姿勢を直してまた話し始めた。
「……実は明後日から、郊外に出ることになりまして」
「あぁ、何かご予定が入ったのですね」
「はい……スカイラさんのお菓子、食べたかったのに」
……――拗ねた声音でグチグチとお菓子の話をして、この日の面談は仕舞いとなった。
結局、わたしはスカイラに縁談の話はしなかった。話をする勇気が出なかったのだ。
だって、もし話して、「おめでとうございます」なんて喜ばれてしまったら、悲しくて仕方なくなってしまう。
彼の心の中に、ほんのひと欠片もわたしへの想いなんてないのだ、ということを、真正面から突きつけられるのが、わたしは怖いのだ。
痴漢も変質者も暴漢も、これっぽっちも怖くないのに。スカイラの心の中を想像することだけは、怖くて仕方がない。
身体は無駄に強いのに、どうして心は、こんなに弱いのだろう。
世の中の片思い中の乙女たちは、皆こういう怖さを抱えているのだろうか。教えてください、クルクルパーマのおばちゃん……




