異常事態
俺の背後から聞こえてきた、この場にあまりにも不釣り合いな女性の声。
何奴、と訊ねる必要すらない。
……俺はすでに、この声の主を知っている――ッ!!
ゆえに俺は、現在ここで何が起こっているのか、背後の人物に向かって勢いよく振り向く。
「……なんで、アナタがここにいるんですか!?――ゆかりさんッ!!」
そんな俺の叫びに対して、当の本人が「フフッ……」と、これまで同様に俺へと微笑みかける。
「どうやら、その様子だと冷奴、と答える必要はないようですね、正剛君?」
俺の前に姿を現した人物――それは、特務機関“糺”の魔導研究顧問である玖磨臥崎 ゆかりさん、その人だった。
変わった性格ながらも、“赤き教典”という魔導書を読み解くほどの優秀な人ではあるゆかりさんだが、今は“糺”の本部にいるはず。
それがどうしてここに……?
というか、どうやって異形が犇めく危険極まりないこの巨大ひな壇の最上段にまで来る事が出来たんだ?
そんな諸々の意図を含んだ俺の質問に対して、なんの答えにもなっていない発言をしながら、ゆかりさんが微笑みとともにこちらに向かって自身の口内をみせつけるかのように大きく開く。
軽く警戒する俺だったが、ゆかりさんはそんな俺に構うことなく、自身の口内で舌をチロチロチロ!と左右に動かし続ける。
妖艶、というよりも単なる奇行としか言いようがないゆかりさんの振る舞いを前にして、俺がその意図を測りかねていた――まさに、そのときだった。
……ザザ、ザザァ……ッ
そんな音が通信機から聞こえてくる。
それと同時に、これまでと同じオペレーターのものと思われる声が聞こえてきたが――何か様子がおかしい。
相手は息も絶え絶えといった様子で、こちらへと呼びかけてくる……。
「応答、願います……こちら“糺”本部……!至急、応答願い、ます……!!」
……突然の菊池の気絶と“内裏雛”としての能力の喪失、全く意図が読めないゆかりさんの登場。
そのうえ、ここに来ての様子がおかしい本部からの呼びかけ――。
何が起こっているのか分からなくても、俺の中で嫌な予感が加速度的に跳ね上がっていく……!!
心臓がドッ、ドッ、と早鐘を打つ中、俺は半ば捲し立てるようにオペレーターに問いかける。
「なぁ!一体何が起こってるんだ!?……菊池がいきなり気絶したうえに、“内裏雛”としての能力を失うし、おまけになんでか知らないがゆかりさんがここにいるし――全然、訳が分からねぇよ!!」
怒り、というよりも、立て続けに起こる異常事態への困惑から、そのように取り乱しながら叫ぶ俺。
そんな俺にさらに追い打ちをかけるかの如く、オペレーターの女性が思いもよらない衝撃的な現実を告げる――!!
「――現在この“糺”本部は、“赤き教典”を勝手に持ち出したうえに、その権能を行使した玖磨臥崎 顧問によってほぼ壊滅状態!……玖磨臥崎顧問は、魔導書に記されていた転移魔術を用いてそのまま逃走、顧問の襲撃によって、天祐堂総司令も……ッ!!」
ザザッ……!とノイズが入ったかと思うと、そのまま通信が途絶える。
信じられない情報を聞いて愕然としながらも、俺は視線を菊池から眼前で佇んでいるゆかりさんの方へと向ける。
俺が見つめる先――そこにいたのは、これまでと同様ににこやかな笑みを浮かべたゆかりさんと、そんな彼女の右手の甲の上で、怪しき輝きを放ちながらページを開いている分厚い書物だった。
血を吸いあげた真紅ともいえる鮮烈な色合いの表紙と、禍々しくも見る者の目を惹きつけてやまない妖気に満ちた、まさに“魔導書”としか言いようのない代物。
この光景を目の当たりにした事で、俺は嫌でもオペレーターの女性の報告が否定することのない事実なのだと理解させられてしまっていた。
……いや、だからこそ分からない事がある。
俺は声を震わせながら、やっとの想いでゆかりさんに向かって口を開く。
「なんでだ、ゆかりさん?……なんで、こんな事をしたんだよ?“赤き教典”にしたって、ただ『解読が出来るだけ』なんてもんじゃないし、それどころか、その能力で“糺”の本部を無茶苦茶にするなんて、いくら何でもおかしいだろ……!!」
それになにより、と俺は自身の腕の中で抱きかかえた存在の重さと温かさを感じながら、ゆかりさんに向かって叫ぶ。
「――菊池は!アンタの事を本当に尊敬していたんだぞ!?……なのに、そんな相手の意識を奪うような事が、どうしてそんな平然と出来るんだよッ!!」
この作戦を開始する前、菊池と二人きりになったときのやり取りを思い出す。
『この話はね、本当は誰にも言うつもりはなかったんだ。……ただ、“トリニティ因子”に覚醒めたものの能力が使えなかった私を助けにきてくれたゆかりさんがね、初対面なのに自分の辛い過去をたくさん、しかもそれをあっけらかんと話し始めるものだから、私も自分の事を他の人に打ち明けるつもりになれたんだ』
『野村君もなの?本当に素敵だよね~、ゆかりさん!たくさん大変な目に遭ったけど、それでもめげずに頑張り続けた結果、この“糺”っていう組織の偉い人にまでなってるもん。本当に“理想の女性像!”っていう感じで憧れちゃうな~……まぁ、確かに距離感は少しおかしいところがあるけど』
そうだ、俺も菊池も間違いなく、自身の実力で昇りつめながらも、ユーモアを持っていたゆかりさんを好ましく思っていたんだ。
……だからこそ、分からない。
今や明確に俺達に危害を加えようとしているこの状況になっても、俺はゆかりさんからこれまで同様に全く“悪意”と呼ばれるものを感じなかった。
――だからこそ、その真意が分からない事が、ただひたすらに恐ろしい。
そんな怒りとも怯えともつかない感情がない交ぜになっていた俺がどんな顔をしていたのかも分からない有り様だったが、まるで俺を安堵させるかのように、ゆかりさんが優しく語り掛けてきた。
「フフフッ……そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、正剛君?――なんせ私がこれから行おうとしているのは、『みんなを幸せにする』ための行為なのですから……!!」
そう言うや否や、“赤き教典”がゆかりさんの前でパラパラとページを開きながら、ゆっくりと浮上していく。
それと同時に、ゆかりさんの右手の甲には菊池にあったはずの、“内裏雛”のトリニティ因子を意味する紋章が浮かび上がっていた――。




