未知への招待
急な行動でえづきそうになりながらも、深呼吸を繰り返して、自身の肉体を落ち着かせる。
……あとは、横で俺同様に倒れている親父を助けて、春恵の安否を確認しよう。
そう考えていた――そのときだった。
突如、店の前にこの付近では場違いともいえるリムジンが停車した。
困惑する俺の前に、リムジンから一人の女性が降りてきた。
俺のような潰れかけのラーメン屋で育った子供でも分かるような、高級な着物を身につけながら、粛々とこちらへと歩いてくる女性は、さながら淑女然とした雰囲気に満ちていた。
おそらくは三十代くらいか?
美人の部類に入る顔立ちに、母性ともいえる微笑みを携えていたが……その瞳は怪しげな輝きを纏いながら揺らめき、こちらを静かに見据えていた。
正体不明の相手に戸惑う俺に構うことなく、女性がさも何でもない事のように口を開く。
「“トリニティ因子”の発現を感知したので急いで来てみましたが……どうやら、私達の到着が少しばかり遅かったようですね?けれでも、こうして貴方が無事だったようで、何よりです」
そう店内を見渡しながら、平然とそう口にする着物の女性。
そんな彼女に対して、瞬時に俺は反発を覚えながら、相手へと言葉を投げかける。
「“トリニティ因子”……!?いきなり人様の家に来て、何訳の分からない事を言ってんだアンタ!!それに何よりって……!!アンタには、この店の至るところに張り付けられた“差し押さえ”って文字が見えていないのか!?」
客観的に見れば、俺の言っていることなど八つ当たり以外の何物でもないだろう。
そんな俺の言葉に対しても、女性は平然とした様子で答える。
「フフフッ……ここは貴方の家であるのと同時に、ラーメン屋さんなんだから、客人が入店する事を喜ぶ事はあっても、いきなり怒鳴りつけることの方が筋違いではありませんか?」
言われてみれば、確かにそりゃそうだ。
ここ最近ロクに商売をしていなかったとはいえ、確かに今のは客商売に関わる人間としてみれば、俺の方に明らかに非があると言わざるをえないだろう。
さっきまで店で暴れまわった奴がいたからって、新しく来た人にその事を当たり散らすのはまさに筋違いだろう。
そうしてようやく頭が冷えた俺は、眼前の女性に頭を下げて謝罪する。
「あ、それは……いえ、本当にすいませんでした」
「フフッ……まぁ、私はこのラーメン屋に来たお客さんではないのですが」
……何だろう、謝った瞬間に盛大に梯子を外された気がしないでもない。
肩透かしをした俺に対して、着物の女性が上品に手で口元を隠しながら、笑みとともに再度口を開く。
「失礼いたしました。貴方の反応が可愛らしかったので、思わず若い方とのやり取りというものを愉しんでしまいましたの。……それでは、名残惜しいですが本題と入りましょう」
そう言いながら、女性はこれまでとは打って変わって、スゥ……と真面目な顔つきへと変わる。
「特務機関:『糺』所属、魔導研究顧問の玖磨臥崎 ゆかりと申します。……機会があったら、二人だけでじっ……くりと愉しみましょうね?」
そのように、途中の部分から唇をすぼめながら、こちらを誘惑するような声音で耳元に囁いてくるゆかりさん。
貞淑さとは裏腹な、妖艶なる大人の色香。
……そう判断して良いはずなのに。
俺はそのように囁いてきた彼女の瞳から、先程同様の怪しげな揺らぎの色を感じていた。
あの瞳からは色欲とかそういったものを感じない。
アレはまるで……。
そんな俺の思考を、自身に魅力に当てられたものと判断したのだろうか。
彼女は形ばかりの妖艶さを口元に浮かべながら、話を続ける。
「差し押さえられたこのお店を取り戻す方法、貴方の身に発現した“トリニティ因子”とは何なのか?……そして、この世界レベルの異変の原因と解決法。その全ての情報が『糺』にある」
だから、とゆかりさんは俺へと告げる。
「私とともにいらっしゃい?野村 正剛君。――貴方には、私とともに全てを知る“資格”があるのよ?」
既に、俺の名前まで知っているのか……!?
そして、全てを知る資格?……それは、この手の甲に浮かんだ模様が関係しているのだろうか。
駄目だ、俺の方は何も知らないのに、彼女だけが圧倒的に情報を持っており、どちらが主導権を握っているかは誰の目から見ても明らかだ。
こういった状況下でどういう交渉術をするのが正解なのかは、俺には分からない。
だが、彼女が口にした情報はまさに今の俺が知りたい事・知らなければならない事であり、何より、今はそれ以上に一刻も早く、親父の救助や春恵の安否確認など優先しなければならない。
こんな状態で、今の俺が冷静かつ的確な判断をくだす事はほぼ不可能に等しかった。
俺はこの玖磨臥崎 ゆかりという相手に自身の生殺与奪の権を握らせるが事になるのかもしれない。
それでも――と相手にすがるように、家族の安全だけは保障させてから、彼女が言う特務機関:『糺』の本部へと、共に行くことを了承した……。




