覚醒の兆し
あれほどだらしなくて、ここ最近は全く良いところのなかった親父。
そんな駄目人間の典型だった親父が、俺達を逃がすために己の身も顧みずに、ただ逃げるように声を上げる。
俺はその光景を前にしながら、どうする事も出来ずに「う、あ……」とうわごとのように繰り返しながら、その場に立ちすくむ事しか出来ていなかった。
「何やってんだ、正剛!!早くこの場から逃げ――!!」
「うるさいですねぇ……少し静かにしてくれませんか?」
再度、親父の頬にスープがしみ込んだアツアツのこんにゃくが押し付けられる。
そのあまりの熱さに耐え切れず、親父はまたも苦悶の呻きを上げていた。
ここは一刻も早く、親父が言う通り階段を駆け上がって自室に引きこもった春恵を連れ出して、この場から離脱しなければならない。
そのはずなのに……俺は、全くこの場から動けない。
――ここで俺が逃げ出してしまったら、アイツ等にこんにゃくを押し付けられた親父の顔が火傷を負ってしまうかもしれない……!!
俺の中には、恐怖よりもそういった怒りの感情が爆発的に脳裏を支配していた。
そして気がつくと俺の口からは、考えるよりも先に言葉が出ていた。
「……ふざけんなよ、親父。……俺は、ずっと現実から逃げ続けてきたアンタの事を軽蔑してきたんだ。なのに、ここに来て何自分だけ格好つけてるんだ?それで俺達をほったらかしにしていた事が全部チャラになるとか思ってんじゃねぇぞ……」
「正剛……」
床に組み伏せられながらも、神妙な顔つきで俺のことを見つめる親父と、周囲でニヤつきながらこちらににじり寄ろうとするイビル・コンニャクの手下達。
そんな大人達全てを睨みつけながら、俺は腹の底から絞り出すように自身の意思を告げる――!!
「俺は、親父とは違う!!辛い事があったからって、簡単に逃げたりなんかしない!……こんな災厄が出現するよりもとっくの昔に、ぶっ壊れていた家庭かもしれないけど、それでも俺は家族を守ると決意したんだ!――だから春恵も!親父も!……絶対に見捨てたりなんかしないッ!!」
「正剛、お前……」
親父が何か言おうとしているが、言葉にならなかったらしい。
それでもじっとこちらを見据えながら、俺に対して強く頷きを返す。
それまで黙ってやり取りを見聞きしていたイビル・コンニャクの手下達は、まるでつまらないとでも言わんばかりの表情を浮かべながら、こちらへと嘲りの視線を向ける。
「クッサイお涙頂戴を見せつけやがって……!!こうなったら、腸内まとめてそんな空気をクリーンにしちゃる!!」
「コラー!!過剰な親子の絆アピール禁止!!――じゃないと、コレステロールと一緒に抑制しちゃうぞ♡」
そのような恐ろしい恫喝を口にしながら、男達がこんにゃくからは程遠いゴツゴツした拳を鳴らしながら、ジリジリ……と俺の方へと迫る男達。
ここまで近づかれた以上、階段を駆け上がろうにもすぐに追いつかれる事は確実であり、逃げる事は到底不可能。
かといって奴等に立ち向かおうとしたところで、俺は武術の心得どころかロクに喧嘩なんてしたこともなく、おまけに相手の方が四人と数も多いので、どう見ても勝ち目があるとは思えない。
何より、こうしている間にも現在進行形で親父が人質状態である以上、迂闊な事をすれば即座に何らかの報復をされるに違いない。
――だが、それでも。
『俺はお前等なんかに屈しない』という意思を込めて、迫りくるイビル・コンニャクの手下達を睨みつけていた――まさに、そのときだった。
「ッ!?な、なんだぁッ!?」
男の内の一人が、そのような驚愕の声を上げる。
見れば、他の仲間達も親父も――そして、おそらく当の俺自身も呆気に取られた表情を浮かべていたに違いない。
何故なら、突如俺の右手の甲が眩い光を放ち始めていたのだ――!!
やがて、その輝きが徐々に収まっていったかと思うと、甲の部分には何かの模様らしきものが浮かび上がっていた。
「これは、一体……?」
手の甲に浮かんでいたのは、平安時代の偉い人みたいな衣服をまとった男性を模したようなマークだった。
何故、俺の手にいきなりこんなものが出てきたのかは分からないが……俺は、時期もあってかポツリと心に浮かんだその名前を口にしていた。
「これはもしかして……ひな祭りとかでよくある、“お内裏様”って奴なのか……?」
仮にそうだったとしても、この模様にどんな効果があるのかは分からない。
だが、不思議なことに――この模様を見た俺は、自身の奥底から闘志が漲ってくるのを感じていた。
そして、そんな感情の赴くまま、右手を握りしめた俺は再度男達に向き合い、静かに対峙する。
突如、自身達の眼前で起きた異変と俺の様子から只事ならぬ雰囲気を感じた男達が、数歩、後ずさりながらも何とか気力を振り絞るかのように――まさに、『弱い犬ほど良く吠える』ということわざを思わせる様相で、俺へと吠えたててきた。
「ふ、ふん!手の甲が光って、変な模様が出てきたからってそれがどうしたってんだ!?――こっちにゃ、偉大なる“イビル・コンニャク”様の加護があるんだぞ!!」
「そうだ、そうだ――!!おまけにこっちは、テメェの親父を人質に取ってるんだ!!下手な真似をすんじゃねー!!分かったら、大いなる食物繊維の流れに身を委ねてから、こんにゃくと和解せよッ!!」
好き勝手な事をそれぞれ口にするが、今の俺はそんなものになど動じない。
スゥ……と静かに奴等を見据えながら、右手の甲を自身の眼前に力強く掲げる。
「……お前等のつまらない話とやらは、それでおしまいか?お前等がどれほどの力を持っているのかは知らないが――この手に宿った光の意思が、お前等の悪意をこんにゃくごと握りつぶしてやるぜ……!!」
あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
仰向けになった俺は、朦朧とした意識のまま店の天井を見上げていた。
突然の異能の覚醒らしき出来事を通じて強気になっていた俺だったが、この手の甲の模様についてゲームのように何らかのチュートリアルがあったわけでもなく、どんな効果があるのかも、それをどうすれば使用出来るのかも分からない俺は、戸惑っている間に勢いよく迫ってきた男達によってタコ殴りにされる羽目となっていた。
奴等から受けた数発の暴力によって、意識を刈り取られた俺は当然の如くそのまま敗北し、その無様な証として口に入りきらないほどのこんにゃくを押し込まれてから、その姿をスマホで撮影されていた。
「てゆうか、お前の力とか関係なしに、こっちにゃ人質がいるって言ってたのに、話聞いてねぇのか?このクソガキ!!」
「何が『親父も!……絶対に見捨てたりなんかしないッ!!』だ、テメェ!速攻で自分の家族を見捨てるような真似をしてんじゃねぇぞ、ボケッ!!」
そう口にしながら、男達が俺の腹を勢いよく蹴り上げる。
カハッ、と吐きそうになるが、口には大量のこんにゃくが詰め込まれているため、それすら出来ずに呼吸困難になる。
奴等の会話や物音から判断するに、どうやら人質だった親父も連帯責任として俺同様に口に大量のこんにゃくを入れられた姿となっているうえに、この店にあるものはほぼ全てコイツ等『魔王:イビル・コンニャク軍』によって差し押さえされてしまったらしい。
……二階の自室で引きこもっていた春恵は、どうなってしまったのだろう。
無事だと良いのだが……。
そんな事をぼんやり考えている間に、男達の一人が愉快そうに床に転がった俺達に向かって、言葉を投げかけてきた。
「という訳で、この店はイビル・コンニャク様の支配下に入ったから、次俺等が来るまでに売り物になる“絶品!こんにゃくラーメン”を作れるようになっておけよ?お前等!」
そのように、「ギャハハッ!」と哄笑を上げながら、男達が店の入り口の方に向かって歩いていく。
どうやら、今日はこれでひとまずおわり……という事らしい。
奴等の気配が完全に消えてから、俺はゆっくりと口の中のこんにゃくに向かって、歯を突き立てる。
――もう、俺達の家族なんてとっくに終わっている。
その言葉で自分の感情を納得させようと、これまでの日々を過ごしていた。
そんな中で見つかったはずの、俺達を守ろうと必死になってくれた親父の姿や、俺の中で覚醒した未知の力といった希望の数々が、瞬時に他者によって蹂躙されていくという圧倒的な絶望……。
俺の人間としての尊厳は、完膚なきまでに奴等によって打ち砕かれていた。
それでも俺は、こんにゃくに沁み込ませきれないほどの涙を流しながら、洗浄されることのない強き怒りとともに誓う。
――この次は、俺がお前等の野望を噛み砕く番だ……!!
脳内が焼ききれそうになる熱とともに、一気に口内にあったこんにゃくを全て歯で粉砕し、原形がなくなるくらいに咀嚼してから、この屈辱ごと盛大に呑み込んでいく――!!