終わり行く日常
――世界の終わりが近い。
そんな間の抜けた事を言ったのは、一体誰だったのだろうか。
なんでも、この三月三日という日を境に突如、異世界からの魔王とやらが出現したり、人の管理を離れたブラック企業が暴走を始めたとかで、テレビやネットのニュースでは天変地異の前触れ!などと盛大な騒ぎになっていた。
もちろんそれはこの俺:野村 正剛の周囲も例外ではなく、家の外では怒声や悲鳴が響き渡っているのだが……俺の実家であるこのラーメン屋:“麺吉の極意”は例外だった。
なんせ今の時刻は、正午を少し過ぎたくらいであり、飲食店にとって最も書き入れ時であるにも関わらず、この店内には客が人っ子一人おらず、閑古鳥が鳴く有様であった。
――社会全体がこんな状況になっている以上、みんなラーメンを食べている場合じゃない?
いいや、違うな。
何故なら、この店はこの三月三日を迎えるよりもとっくの昔に、ほぼ客足が途絶えていたからだ。
その証左と言わんばかりに、この店の店長にして俺の父である野村 麺吉は、厨房にも入らずに、奥の部屋で自身が録画したニチアサ番組を観ながら、年甲斐もなく楽しそうに声を上げていた。
「がんばえー!!モルキュアー!……人類は、救いようのない悪ッ!!」
昼間っからロクに働こうともせずに、何度目になるかも分からない今週分のアニメを見てはしゃぐ実の父親の声を聞きながら、俺は耳を塞いだ状態でうずくまる。
昔はあんな人間なんかじゃなかった。
“こだわりに煩い頑固なラーメン屋の店長”として、バリバリ働いていた頃は、幼心に(俺も親父みたいなカッコいいラーメン屋になるんだ!)と、瞳を輝かせていた。
だが、過去のある出来事をきっかけにこの店の客足は途絶え、すっかり何の意欲も熱意もなくなった親父は昼間から酒を飲みながら居間で女児向けアニメや変身ヒーローの録画を何度もリピートするようになってしまった。
そんな親父に愛想を尽かした母親は、ホスト狂いにハマった挙句に何の置手紙もなく借金だけを残して三年前に蒸発。
そんな中でも健気に残った家族を励まそうとしていた一歳下の妹である春恵も何があったのか、一年前に自室に引きこもるようになって以降、全く姿を見ていない。
「……そんで俺は、生きていかなきゃならないため高校にも行かずに、中学卒業してすぐに働くことになったのでした、とさ……」
あんな糞親父の事なんてどうでもいい。
ただ、春恵を見捨てる訳にはいかなかったから、俺は妹の分まで働いて家に金を入れなくてはならない。
そのため、今の俺に高校なんて行く暇や学費なんてあるはずもなく、俺は何度も親父のかつての親戚に頼み込んだ結果、ほぼお情けのような形ながらも、明日からリサイクルショップで働かせてもらう事になっていた。
「……世界がどうこう言う前に、俺の家族はとっくに終わってるっつーの」
あぁ……でも、こんな店が今更どうなっても構わないが、俺が働くはずのリサイクルショップが破壊とかされていたら困るな。
いや、でもそこが暴動とかでなくなったりすれば「まぁ、そういう事情なら仕方ないよね~」みたいな感じで、なんかの法律とかで合法的にしばらく俺は働かなくても許されるようにならないかな?
……などと考えていた、まさにその時だった。
「ッ!?オイ、何だお前達!!勝手に人の店で一体何を……!?――ウワ~~~!?早く、助けに来てくれ!!正剛!春恵~~~!!」
親父のみっともない悲鳴が、下の階から大音声で響き渡る。
……親父のものだけではない声も聞こえる辺り、客ではない何者かが無理やりこの店に入ってきたのだろうか?
とはいえ、何が起こっているのか分からないが、春恵が自室から出てくるのを期待するのは望み薄だと判断した俺は、重い腰を上げてのそのそと下の階に降りていく事にした……。
「うぐぐ……!!そ、それだけは、やめてくれ~~~ッ!!」
声のする食堂の方に行くと、そこでは三人がかりの男によって、うつぶせの状態で床に組み伏せられた親父の姿があった。
男達は一見すると服装も年齢もバラバラながらも、そこいらにいる通行人といって差し支えない存在のはずだったが……何故か、彼らの強い弾力を彷彿とさせる健康的な肌の張り具合が異様に気になって仕方なかった。
健康と美容に優れた雰囲気を放っているにも関わらず、何故彼らはそれとは対極的ともいえる“狂気”のようなものを一様に瞳に浮かべながら、昼間からアニメ鑑賞ではしゃいでいる冴えない中年親父を組み敷いているのか?
俺にはさっぱり分からない。
そんな風に戸惑っている間にも、厨房の方から奴等の仲間と思しきもう一人の男が、湯気を立てたどんぶりと箸を両手に、中身をこぼさないようにゆっくりと歩きながら姿を現した。
やがて男は、どんぶりを左手に、箸を右手に持ちながら、しゃがみこんで親父へと静かに語り掛けていく。
「クククッ、店長らしき男よ。……その不摂生に醜くたるんだ身体つきと、昼間っから働きもせずに怠惰に過ごす生活習慣から、貴様は健康意識に満ちた我等とは到底相いれぬ手合いに違いないが――それでも、貴様が作ったこのラーメンスープの味だけは、貴様の人生における数少ない“本物”と言える存在に違いない!どうだ?このスープを用いて、我等が偉大なる王に仕える気はないか?」
……偉大なる王?
一瞬何の事か分からなかったが、コイツ等の特徴と言動、そして今日起きた出来事関連の情報から考えるに、コイツ等の“王”とやらはまさか……!?
俺が自分の考えを整理するよりも早く、親父がかみつく勢いで――かつての“こだわりに煩い頑固なラーメン屋の店長”を思わせる気迫で、眼前の相手を怒鳴りつける!!
「バカいってんじゃねぇッ!!例え、どんなに客が入らなかったとしても、俺は毎日豚骨スープ一筋で作ってきたんだ!!――そんな俺のラーメンに、そんなものを入れたら、味が崩れちまうだろうがッ!?」
だが、そんな親父の気迫に動じることなく、嬉々とした様子で男はどんぶりの中に箸を入れる。
「フフフ……♡飲食を扱う人間が、食わず嫌いとは笑えない冗談ですぞ!――現在、混迷の渦の只中にある世の中だからこそ、『ヘルシーとガッツリの調和』というそんな二律背反とした混沌をも可能とする新たな時代の指標が、人々から求められているのです……!!」
チャポン。
そう音を立てながら、アツアツの豚骨スープの中から姿を現したのは、三角形の形をプルプルと震わせたまさに“悪魔の舌”と呼ばれる食材である“こんにゃく”だった。
――やはり、コイツ等は現在巷を騒がせている異世界の魔王:イビル・コンニャクの手先に成り下がった連中か!!
そんな俺の驚きに構うことなく、俺に背を向けたまま魔王の手先である男が言葉を続ける。
「イビル・コンニャク様の支配下のもと、貴様は大衆にこの“こんにゃく入りラーメン”を提供し、高カロリーな料理を好む意識の低い大衆達へ、無意識化に健康と美容の意識を根付かせるのです!!……ハァ、ハァ。見えるぞ……腸内同様に、清浄に生まれ変わっていくこの世界の姿が――!!」
こんにゃく入りラーメンを持った男だけでなく、奴同様に親父を押さえつけている男達も熱に浮かされたように呆けた表情を浮かべる。
対する親父は、どこまでも怒気をにじませながら決死の形相で声を張り上げる。
「いつまでふざけた事言ってんだ、テメェ等!!……例え、今がどんだけ閑古鳥が鳴いていようとも、俺は店に来たお客さん達には、カロリーやらコレステロール、翌朝の体重計なんか気にせずに、ガッツリと上手い豚骨ラーメンを味わって欲しいと魂を込めながら、毎日豚骨スープを作ってんだ!!――そんな俺のラーメン道に、おでん感覚でこんにゃくをぶち込んでんじゃねぇ!!……入れていいのは、煮卵までだぁッ!!!!」
……鬼気迫る親父の言葉だったが、聞いているうちに「むしろ、こんにゃくを入れても良いんじゃないか?」という気持ちにさせられていく。
だが、そんな俺の考えは浅はか以外の何物でもないのだと言わんばかりに、眼前で恐ろしい光景が繰り広げられようとしていた。
「クククッ……!!何やら御大層な事を仰っていましたが、こうしておしゃべりに興じている間に、そのアナタが魂を込めて作った豚骨スープとやらは、すっかりこんにゃくに沁み込んでしまったようですよ?」
「ッ!?な、あ、うぁ……そんな……!?」
「……観念なさいませ。相反する油ギッシュな存在すら内包し、ヘルシーに浄化する。それが大いなるイビル・コンニャクの思し召し。――ゆえに、そのアナタの絶望すらも!!“こんにゃく”という存在は、優しく受け止めてくださるのです……!!」
そう口にしながら男は、豚骨スープがじっくり沁み込んだこんにゃくを箸で掴み、それを組み敷かれたままの親父の口元へと運んでいく――!!
「や、やめろ……!!俺は、絶対に!こんにゃくラーメンなんて食わねぇぞ~~~!!」
「さぁ……気持ちを楽にして、全てを委ねるのです……!!」
「~~~~~~~~~~~ッ!!グアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」
顔をそむけた親父の左頬に、スープが沁み込んだアツアツのこんにゃくが押し付けられる。
そんな絶望的な状況下で、ようやく階段から降りてきた俺に気づいた親父が、額から脂汗を流しながらこちらに向かって必死に叫ぶ。
「正剛!!コイツ等の狙いは、このラーメン屋の店長である俺だけだ!!……お前は、早く春恵を連れて、ここから逃げろッ!!」