スドウ主任に叱られたい
十二月最初の金曜日。午後十時という遅い時間にもかかわらず、僕は会社のデスクにいた。
キーボードを叩いていた手を止める。それと同時に、深いため息をついた。ふと気づくと、フロアの照明はデスクのある島周辺だけが点灯している。
「やっと、終わったぁ……」
先週、僕がたずさわるプロジェクトでトラブルが発生した。原因は、自分のミス。この一週間、そのリカバリーと後処理に奔走し、たった今、そのすべてが完了したのだ。この期間で終えることができたのは、なんといっても「あの人」に応援してもらったおかげだろう。
凝り固まった肩を回しながら、右を向く。三つ先のデスクで、まだ懸命にキーボードを叩いているのが「あの人」だ。社内でトップの成績を誇り、誰からも頼りにされている「スドウ主任」。
しかし……
勢いよくノートPCを閉める音。そして間髪入れず、大きくて良く通る声が、二人きりのフロアに響き渡った。
「恵村ぁっ! 終わったのか?」
「は、はいぃっ!」僕は驚きとともに立ち上がる。「終わりましたっ!」
「なら、ぼさっとしてないで、さっさと帰る支度をしろ!」
「はいっ!」
PCの電源を落とし、鞄に荷物を詰め込む。すると、コツコツと靴音を響かせて主任がやってきた。僕を見下ろす鋭い視線に、射すくめられる。
主任は僕の肩を叩き、恐ろしい笑顔を見せた。
「飲みに行くぞ、恵村。付き合え!」スドウ主任は、そう言いながらストライプシャツと濃紺のレディーススーツの上にトレンチコートをはおる。
「ほら、行くぞ」
主任はそう言って、僕の右を通り過ぎた。コートがひるがえり、甘くゆったりとした空気がただよう。僕がうっとりとその香りを楽しんでいると、再び声がかかった。
「恵村! 早くしろっ!」
「はいっ! すみません!」
僕はフロアの照明を消し、コートと鞄を抱えて、スドウ主任を追いかける。
主任は、成績トップで誰からも頼りにされている。
しかし……彼女はものすごく、口がわるかった。
午後十一時を過ぎた。もうすぐ終電だ。それでも、スドウ主任はまだ飲み足りないらしい。
彼女は、僕のネクタイを首輪代わりにして引っ張りまわし、行きつけだという、大通りから一本入った、とあるバーの入口に僕を放り込んだ。
店内には、奥まで続く長いバーカウンターがあった。磨き抜かれたダークブラウンの木目が、光量を抑えたスポットライトで照らされ、向かって左側に七脚の椅子が用意されている。僕は、主任に後ろから押されて一番奥の席に、彼女はそのとなりに腰かけた。
ジャズが流れている。柔らかくて澄み渡るようなピアノが心地よい。静かな夜にふさわしい音楽だ。しかし、スドウ主任の口調には合わない。
「ほら、メニューだ。なんでも注文していいぞ」
カクテルなんて、まったくわからなかった。僕は目にとまった、ビールとジンジャーエールを割ったシャンディ・ガフを頼む。主任はメニューを見ずに、「マティーニ」とか「チェリーブランデー」とか、うろ覚えのキーワードをいくつか告げて、なんとか注文をねじ込んだ。
「今日は、あたしのおごりだから、心配するな!」
そう言って、ドヤ顔をする主任。そして、おもむろに僕の顔をじっと見つめて再び恐ろしい笑顔になった。
「その代わり、お説教だぞ」
「……了解です」
彼女が口角を吊り上げて、満足したようにひとつうなずく。
今日も電車で帰れなくなりそうだ。しかし、不思議と嫌な気持ちはない。いや、むしろ望んでいる。なぜなら、僕はスドウ主任に叱られたいのだ。
主任の言葉はグサグサと心に突き刺さる。とても痛い。だから、彼女を恐れて疎む人は多かった。しかし、意気地がない僕にとって、主任の口のわるさや強引さは憧れだった。これから彼女の言葉を独り占めできる。その状況に、期待と喜び、そして、ほんの少しの恐怖を覚えた。
二人の前に、注文したカクテルが届く。僕のグラスは一軒目とほとんど見た目が変わらない。しかし、苦みが和らぎ、ピリッとした風味が加わって飲みやすくなっていた。一方、スドウ主任のカクテルグラスは、赤色の液体で満たされていた。
彼女は、左手の親指と人差し指でグラスの脚をつまんで、そっと持ち上げ、果実のようにさわやかで透明感のある色を楽しむ。そして、そっとグラスのふちに口をつけた。口紅よりも赤いカクテルが口の中へ流れていくと、こくり、とかすかな音がして喉が上下する。
グラスを置き、左手の中指で口の端についたカクテルとグラスについた口紅を拭ったあと、スドウ主任は右ひじで頬杖をつき、気だるいまなざしで僕を見下した。
「なんだよ? しまりのない顔しやがって」
僕はあわてて彼女の口もとに惹かれていた意識を引き戻す。
「いえっ、なんでもありません」
いよいよ主任のお説教が始まる。僕は気を引き締めた。
「……おまえは、『あたし』にいろいろ助けてもらって、ようやく今日を迎えたんだよな?」
「はい……そうです」
「で? そういうときは、なんて言うんだっけ?」
「……あぁっ! ありがとうございますっ」
主任は、ちっと舌打ちをして、グラスをあおり、二口目を飲みこむ。
「そんなことも忘れるくらい、ぼんやりしてっからミスするんだよ。それから、必要以上に落ち込んだって、誰もかまってくれないぞ。……まぁ、そんなやつをからかって楽しめるのはあたしくらいだな。といっても、そのうち飽きてしまいそうだけど」
「うぅ……」僕は手を太ももにおいて頭を下げる。「すみません……」
次の瞬間、主任は一口分が残ったカクテルグラスを勢いよくカウンターに置いた! グラスが割れることはなかったが、赤色の液体が、彼女の機嫌を表すように激しく揺れる。
「この、ヘタレ! おまえにはプライドってやつがないのか? 先週の謝罪報告のときも、そうやってぐずぐずしてたよなぁ? おまえの言い分にも正当性はあったんだぞ。それを主張せず、相手の言うことすべてを受け入れやがって……。もしかして、いじめられたいっていう趣味か? そういうのも嫌いじゃないけどよ……」
今回のミス。その責任はすべて僕にある。それは間違いない。そんなやつが図々しく自分の意見を主張するなんてありえないことだ。今までもこれからも、僕にそんな権利はない。
主任の言葉に応えられず、握りしめた自分の両手を見つめていると、主任はさらに言葉を投げかけた。
「おまえの実力は、あたしがよぉく見ている。恵村は、もっとでかい仕事ができる。この程度で終わるやつじゃない。一度くらい自分の力と思いを、全部出し切ってみろよ。そうしたら……ご褒美をあげてもいいぞ」
「ご褒美……」いかがわしい妄想が勢いよく僕の脳裏を占拠する。しかし……それと同じ速度で、頭の中に現れた主任は霧散していった。
「買いかぶりすぎですよ……。僕の実力なんて、たかが知れてます。今回のミスは起こるべくして起こったんです。それに、僕が何かを主張するなんて……そんな権利はありません。主任みたいに輝いている人だから、思いを通すことができるんです。僕なんて……」
どんっ! と主任の左手がバーカウンターに振り下ろされる。そして静かな空間を引き裂くように主任の声が店内に響いた。
「いいかげんにしてよ!」
想像以上に鋭かった迫力に二の句が継げない。彼女の言葉が続いた。
「何をしゃべるのかと思えば、『僕なんて……』だぁ? おまえはそんなにダメなのか? その言葉は、恵村を評価した人すべてをバカにする言葉と同じだ!」
主任の顔をのぞき見ると、瞳にゆらゆらと揺れ光るものを見た、気がした。
「もっと、自分を信じてよ……」
彼女の消え入りそうな声を聞いたとき、僕はなぜか背筋がゾクゾクしはじめた。この感覚は何だろう。勇気と意欲がどんどん湧いてくる。何かしたい! 何でもできる! そんな言葉で心が満たされた。その中で、僕が一番に叶えたいことがあふれ出る。
「スドウ主任っ!」彼女の目をしっかり見つめて離さなかった。「あなたのことが、大好きです。おつきあいさせてくださいっ!」
自分史上最高に真剣な表情をしている、はずだ。勇気を振り絞ってからだを彼女に寄せる。
一拍遅れて、主任の顔一面が真っ赤になった。頬だけでなく、耳の先まで赤い。僕の視線から逃げるように、くりくりと彼女の目が泳ぐ。
「はあっ? おっ、おつきあい? おまえ……と? 突然何を言い出すんだよ!」
主任は自分の顔を両手で覆い隠す。こんなにどぎまぎしている彼女には初めて出会った。僕はさらにたたみかける。
「主任のことをもっと知りたいんです。つきあってくださいっ!」
「本気……か?」彼女が顔を隠したまま言った。「本気なんだな? 後悔、しないな?」
「本気です。後悔しません」
主任はゆっくりと顔から両手を離す。顔はまだ赤いままだった。よし、と何かを覚悟したかのように両手をカウンターにつき、僕を見据える。
「今度のプロジェクト、おまえを指名するから! あたしの下で、死ぬ気で働きなさい。恵村の力と思いのすべてを見せて。それで、あたしが納得できる結果を出せたら、つきあってやる。もし、出せなかったら……またお説教だからな!」
「はい!」
そう答えた僕は、カウンターの上で右手を滑らせ、主任の左手に触れる。右手の小指を、彼女の薬指と小指の間に差し入れ、互いの小指を絡ませた。
「僕のすべてを出し切ることを、誓います」
彼女が、顔色よりも薄いカクテルを飲み干すと、店内に流れていたジャズが、しっとりと匂い立つような曲に変わった。それに合わせて照明が少し暗くなる。
スドウ主任の右手が、僕のネクタイをつかむ。ぐいっと引っ張られると、彼女の熱っぽい顔が近づいた。つり上がった瞳、挑戦的な口もと……
期待と興奮が、芯まで届く。
そして彼女の唇が、僕のからだを震え上がらせた。