暁の吸血鬼
「司教さま。どこに行かれるのですか。あんまりうろうろされると私が……」
朝食を済ませ、屋敷の離れを出たバイロンはアンリを伴って外に出た。
途中、大きな水車が邪魔をしてバイロンの声もよく聞こえない。自然とアンリの声も大きくなっていく。
「最初の犠牲者が出た牧師館に行きます。確か教会の礼拝堂で礼拝に来ていた娘さんが倒れていたのが始まりだったと伺っています」
「確かにそうだけど……、まさか牧師さまを疑ってるんじゃ…」
二人は歩きながら川沿いにある小さな教会を目指した。
その間も二人は野良仕事中の村人たちに奇異の目で見られていた。どうやら昨日ヴァチカンから彼が派遣されて来た事は、村中の知るところとなっているようだ。アンリは気が気ではなかった。
「牧師さま…ですか。早計ですね。私は何度も言っているじゃありませんか。ただお話を聞きたいと。……あ、どうやらここがそうですね」
教会は村長の屋敷からさほど離れていない。
大きな植え込みが無ければもっと早く着いただろう。
バイロンはどんどん突き進む。アンリは逆に重い足取りで付いて行った。
コンコン
「こんにちは。私、教皇庁より遣わされた者です。牧師殿に少々お話を伺いたく参りました」
その声に、ややして重い木製の扉がゆっくりと開いた。
そこから濃紺の衣を纏った妙齢のシスターが顔を覗かせる。
シスターはバイロンの姿というより、彼の纏う聖職衣の黒十字の紋を見て一瞬狼狽の表情を浮かべた。だがそれもほんの一瞬の事。次の瞬間には慈愛に満ちた微笑みを浮かべて二人を招き入れた。
「こ…これは司教さま。お話は村長さまより伺っております。さぁ、どうぞ中でお待ち下さい。ただいまアーサー牧師を呼んで参ります」
そう言うとシスターは長い衣の裾を摘んで、礼拝堂の奥に入って行った。
バイロンはそれを注意深く見ていた。
一方アンリはそれに気付く事もなく、礼拝堂の長いすに腰を下ろした。
「さて…。牧師は果たして本当の事を話して下さいますかね」
バイロンは礼拝堂の右手にあるパイプオルガンの鍵盤に触れてみた。鍵盤に落ちるステンドグラスの美麗な光は美しく、荘厳だった。
「本当の事も何も…、牧師さまは何も疑わしい事はしてないぞ」
どうもバイロンはここの牧師を疑っているような気がすると、アンリはそう思っていた。
するとバイロンは急に労るような視線をアンリに投げかけた。
「貴女は純真無垢ですね。何て清らかなんだ」
「馬鹿にしているのか?」
「まさか。本心ですよ」
「むー……」
何となく馬鹿にされたようで悔しい。アンリは憎々しげに司教の後ろ姿を睨んだ。
そんな折り、奥の部屋から先程のシスターが出てきた。
「お待たせして済みません。司教さま、アーサー牧師がお会いになるそうです。こちらへ」
「そうですか。それはご協力感謝します。ではアンリ、行きましょうか」
すると急にシスターの顔色が曇る。
「あの…彼女も一緒にですか?」
シスターはアンリの同行までは考えてなかったようだ。
「ええ。勿論です。彼女は私の下女として村長さまが遣わして下さったのです。何か彼女がいては不都合でも?」
バイロンは一見柔和な印象を受けるが、一度眼鏡を下へずらすと、冬の湖に薄く張った氷のように冷たい瞳に変わる。
それは見えない圧力がかかったように全身に広がっていく。
事実シスターは一歩後ろへ下がった。その顔は青ざめてすらいる。
「い…いいえ。どうぞお二人ともお入り下さい。牧師は中です」
バイロンとアンリは俯くシスターの横を通り抜けた。
すると細い通路の先に鉄の扉が目に入る。キリストの装飾が施された重厚な扉をバイロンはノックもせずに開いた。
ギギギ…
「初めまして牧師。私はバイロン・R・ダリスです。この村を脅かすある事件について二〜三、お話を聴かせていただいても宜しいでしょうか?」
扉の先は狭く黴臭かった。
実際はもっと広いのかもしれないが、なにぶん書物が多くてそれが部屋の半分以上を占領していた。その本棚と沢山の木箱の山の先に一人の青年が物憂げに座っていた。
彼が牧師なのだろうか。
ずいぶんと若い男のようだ。
蝋細工のように白い肌に透けるように細い金髪。その髪は長く、腰の辺りで緩くまとめてある。
彼はバイロンたちに気付くと、読みかけの書物から目を離し、こちらを真っ直ぐに見てきた。
二人の視線が一瞬絡み合う。
アンリはバイロンのアメジストの瞳と牧師の真っ青な瞳が、一瞬敵意を持った獣のように光ったのを感じた。
しかし次の瞬間には牧師は柔らかで友好的な笑みを浮かべた。
「初めまして、バイロン卿。牧師のアーサーです。ようこそ。トールへ。歓迎しますよ」
甘い低音でアーサーはバイロンに白い手を差し伸べる。
バイロンはにこやかにそれを受けた。
「おや。アンリさんも一緒でしたか。では、菓子も用意しましょうね」
先程見せたあの視線など無かったように、アーサーは人好きのする笑顔を浮かべて部屋の隅にある小さな竈に火を入れた。
バイロンはただ黙ってその様子を見ていた。
それはよく話す彼にしては珍しい沈黙だった。
「牧師さま、こちらの司教さまはこの村で最初の犠牲となったハイネの詳しい話をお聞きしたいそうです」
椅子を勧められた二人の前に、こんがり焼き上がったアプリコットパイが置かれる。それは牧師の手作りで、器用な彼は何でも卒なくこなす。牧師はそれらを作ってはよく村の子供たちに配っていた。
アンリも牧師の焼く菓子は好きだった。
聖気を糧とする自分にとっては何の足しにもならないと分かっていても、味覚は普通にあるのだ。それを美味しいと感じる心は確かにあった。
それを見ていたバイロンは、アンリの牧師を見る視線にある一定の温度がある事に早くも気付いていた。
「そうなんですか。ただ僕は第一発見者といってもそれ程詳しい事情は知らないのです。犠牲者のハイネという少女もこの村の者ではない事ですし…」
力になれなくて申し訳ないといった辛い顔でアーサーは俯いた。
そこに後ろめたい成分は少しも含まれてはいなかった。
「ほら、牧師さまに聞いたって何もないですよ。さぁ、もう行きましょう」
アンリがやけに自信たっぷりで胸を張る。
だが、バイロンの方はそうではない。彼はますます興味を持ったように眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「死体発見時の状況はどうでしたか?詳しくとは言いません。おおまかな事で結構ですよ」
すると牧師は当時を思い出すように、細い顎を手で摘んでみせる。
「そうですね…。霧が…そう。赤い霧が出ていました。そんな奇妙な夜は初めてだったのでよく覚えています。そこで不安になって村の様子を見に行ったのです。村は幸い何も異変はありませんでした。そして最後に礼拝堂を見ていこうと思い、扉を開けたら……」
牧師はそこで口を閉ざした。
辛そうに手を口元に寄せる。
まるでその当時の事を思い出したかのように、白皙の美貌には恐怖の翳りが見て取れた。
「そこにハイネという少女が倒れていたという事ですね?」
バイロンは牧師の言葉を引き継いだ。
牧師は黙ってうなずく。
「彼女は仰向けに倒れていました。その細い首筋には獣か何かの咬み痕がありました。ちょうど青く浮いた太い血管に…」
牧師は自分の首筋に手を当てた。
「それは血液を抜かれていたのですか?」
牧師は更にうなずく。
「ええ。それもかなりの量です。遺体の周りには血液は一滴も付着していなかった事から、やはり人間の血液を啜る魔物だと言われています」
「血液を啜る魔物……ヴァンパイアですか?」
アンリがボソリと呟いた。
バイロンはお茶を啜りながら、彼女の方をそっと見た。
「ええ。そうなんですよ。市警は驚いた事にその線で触れを出したようですね。これでは30年前の「暁のヴァンパイア」の再来ではないですか」
牧師は軽い冗談で言ったのだろう。軽く笑い声をあげた。
「暁のヴァンパイア?それって何ですか?」
「アンリさんは聞いた事ありませんか?今から30年程前にローマ辺りで今と同じような手口で人々が襲われた事件を。まぁ、私達が生まれるずっと前の話ですからご存じないのも無理はありませんね。それで犯人は結局見つからずに事件は迷宮入り。ちょうど被害者の殺害時刻が皆明け方でしたので付いた通り名が暁の吸血鬼…というわけなんですよ」
「へぇ…。初めて知りました」
「ここは平和な村だからね。アンリさんの耳に入らないもの無理ないよ」
牧師の声は穏やかだった。
「……まぁ、大体の事情は掴めました。ありがとうございます。またいくつか質問が出来ましたらその時はよろしくお願いします」
「ええ。是非気軽にお訪ね下さい。アンリさんもいいですね?」
「えっ…は…はいっ。喜んで」
後はいくつか当たり障りのない事を質問してバイロンは席を立った。
牧師はそれを笑顔で見送る。
アンリたちが礼を言って教会を出ると、建物の影からシスターが二人の去る姿を暗い瞳で見つめていた。
「……………」
教会を出てすぐにバイロンはアンリを見て口を開く。
「アンリさんはああいった線の細い中性的な男性がお好みなんですか?」
「はぁ?何を突然っ。私はただ牧師さまを尊敬しているのであって…」
アンリは明らかに動揺していた。顔を真っ赤にして必死に否定している様子が滑稽な程に。
「ふふふ。恋する乙女は可愛いですね。でもライバルは手強そうですよ?」
そう言ってバイロンは後ろを振り返る。
そこには先程までいた教会がある。
「何言ってるんだか……」
アンリのつぶやきにバイロンは応えない。
もし尋ねたとしても答えを言ってくれる事はないだろう。
それが今では何となく分かっていた。
教会へと続く小道から二人が去っていくのを、やや離れた納屋から窺う人影があった。一人は長身で髪の長い青年。もう一人は肉付きの良い老年の男。
二人は密談を交わすように対峙している。
「どうです?今日の動きとしてはまだ大した収穫を得た様子はありませんが……」
「そうだね……。でも油断は禁物だよ。過信するんじゃない。彼はあれでいて思慮深い」
「しかし本当に彼の訪問が我々の計画に大きな支障を与えるんですかね」
老年の男が半信半疑で呟く。
「油断してはなりません。彼は「悪魔」を狩りに教皇庁より遣わされた番犬です。貴方はあの娘を使ってこの村を守らねばなりません。その責務は重いですよ?わかりますね」
金糸の縁取りの施された袖から伸びる白い手が老年の男の肩に置かれる。
逆光でその顔は殆ど見えない。
だが、長い金色の髪の間から爛々と光る瞳は血のような紅だった。
「分かった。本当にあの娘を使えば村は助かるんですね?」
「ええ。神に誓って……」
老年の男の前で長身の青年が空に十字を切る。
「さぁ、もうお行きなさい。貴方にはこれからやる事が沢山あるのだからね」
そう言われて老年の男は、長身の青年に深々と礼をして納屋を出て行った。
後に残された長身の青年は長い前髪を掻き上げ、うっとりと微笑んだ。
「バイロン……。また逢えたね。あれから少しは強くなったのかな?フィリアを守れるくらいには…」
暗闇の中、血に飢えた紅の瞳が光り、いつの間にか手にしていた黄金の髑髏に青年は愛しげに口付けた。