朝の風景
あれから一夜明け、村は今朝から晴天だった。
「おはようございます。アンリ」
耳元で囁くような甘いテノールが聞こえる。その声にうつぶせで眠っていたアンリは眠い目を擦って辺りを見回す。
「おはようって……、えっ!もう朝?ってか何で司教さまがここに?」
窓からはきつい陽光が直接差し込み、それが起き抜けの網膜を強烈に焼いた。
無理に目を開けると、隣にはすっかり着替えも済ませたバイロンがニコニコ顔でこちらを覗き込んでいた。
「何でって貴女は私の下女ではないですか」
「……司教さま。私に何かしなかったでしょうね?」
むくりとベッドから起き上がると、アンリは着衣の乱れを丹念に確認した。首のリボンタイを外した以外は別段異変はないようだ。
それを見てバイロンは小さな息を漏らす。
「何かするのは貴女じゃないですか?」
そう言って彼はアンリの方に顔を寄せる。ふわりと司教から立ち上る甘い匂い。極上の聖気が放つ芳香だ。
思わずアンリの喉がゴクリと鳴る。
しかしバイロンはそれだけで何もしてこない。
つまり食事をするなら今度はアンリの方から求めろと言外に言っているのだ。
冗談ではない。
アンリはベッドから勢いよく飛び降りようとした。……が、やはり思うように身体に力が入らない。
「くそっ、森なら意識して摂らなくても空気のように摂取出来るのに…」
「ほら。食事するなら早くして下さい。ずっと貴女を待っていたのですよ」
「くそっ。背に腹は代えられないのか」
「いつまで待たせるつもりですか?」
ちゅっ
自分で誘っておきながらバイロンは結局自らアンリの唇を掠め取っていった。
そこから流れ込むのは相変わらず極上の聖気だった。
半分陶酔したような顔でアンリはそれを吸収した。
今まで力が入らなかった身体の隅々に力が漲る。
「うっ……」
「ごちそうさまでした〜」
「この色情司教めっ」
「おやおや、それはどういう意味ですか?もう一度最初からじっくりと教えて差し上げましょうかね」
「な…何をだよ」
じりじりとバイロンはアンリとの距離を詰めていく。
緊張で脂汗を浮かべる鼻の頭をバイロンは、ちょんと突いた。
「もう、知ってるくせに。アンリはおませさんですね」
「なっ……何がだっ!」
「あははは。そろそろ下に降りましょう。私は朝食を摂ります」
「馬鹿……」
バイロンに投げ損なった枕を抱きかかえ、アンリは牙を剥いて唸った。
本当にとんでもない聖職者である。
「ああ、司教さま。おはようございます。昨夜は良く眠れましたか?」
階下へ降りるとパンの焼ける香ばしい匂いと村長夫人のふんわりとした笑顔に出迎えられた。
「ええ。朝までぐっすりと。よく働いてくれる下女がおりましたから」
そう言ってバイロンは食卓に付いた。
それを聞いて婦人はアンリを少し疑わしい目で見たが、アンリはそれを無言でやり過ごした。
食卓には焼きたてのパンの他にもこの村で採れた野菜を使ったスープや、木苺のジャムなどが
並んでいて、それらがとても良い匂いを放っていた。
婦人はバイロンの前に置いたカップに温かいハーブティーを注ぐ。
たちまち花の芳しい香りが湯気と一緒に立ち上る。
その香りを味わうようにしてバイロンはカップに口を付ける。
「うん…。やはり美味しい」
「そうですか?これは主人もとても気に入っている茶葉なんですよ。司教さまに気に入って頂いて嬉しいです」
しばらくそんな他愛のない事を話していたが、不意に婦人の表情が堅くなる。
「あの…それで今日はどうされるのですか?司教さま」
婦人がバイロンの顔色を窺うようにしてかがみ込む。
だがバイロンは穏やかな表情でカップをソーサーに戻す。
「そんなに構えないで下さい。私は別に皆さんを尋問する気はありませんよ。ただ事件当時の皆さんの様子を少し尋ねるだけです」
「それが尋問ってやつだろ」
横でそれを聞いていたアンリが憮然とした顔でぼそりと漏らす。
「アンリさんは私を分かってないですね。貴女は私を悪の手先か何かのように誤解していませんか?」
「誤解じやなくて事実だろ。違うのか?」
「アンリっ、お前司教さまに向かって何て口を叩くんだいっ!」
その時、二人のやりとりをただ聞かされていた婦人が我に返ったようにアンリを叱った。アンリの方も婦人の前だった事をすっかり忘れていた。
「あっ、奥様どうも失礼しましたっ」
「私はいいから司教さまに謝りなっ」
「あははは。別にいいんですよ。気にしないで下さい。ねぇ、アンリ」
バイロンはしれっとした態度でそれを収める。
「ちっ…聖気を纏った悪魔め」
「何か言いましたか?黒き森の守護者さん」
「…………」
嫌味を言ったつもりが逆にやり返されてしまった。
アンリは悔しそうに歯ぎしりをした。