聖気を纏う者
「ここが離れの屋敷です。では何もなければ私はこれで…」
村長に言われてアンリが案内した離れは、村長の屋敷からやや離れた東側の建物だった。
白い外壁の屋敷はきちんと手入れがされており、清潔感があった。
中に入ると、内部もしっかりと掃除が行き届いており、すぐにここで生活が始められる程だった。
廊下にある大きな明かり取りの窓からは、暖かな陽光が差し込んでいる。
「いやぁ、中々立派ですねぇ…」
部屋のあちこちを見回った後、寝室に移動したバイロンはすぐにベッドに腰を下ろした。
それを見届けた後、アンリは部屋を速やかに出て行こうとする。
「おや。アンリ、どちらへ?」
アンリは不思議そうな顔でこちらを見た。
「えっ?もう用がないので帰ります。ではまた明日…」
「お待ちなさい。誰が帰っていいと言いましたか?」
ベッドに上半身を起こし、バイロンはこちらへアンリを手招きする。
「何ですか…」
「アンリ、別に二人だけの時は敬語にしなくてもいいですよ。それより、私が言いたいのは下女としての仕事はそれだけでいいのですか?という事です」
「は?でも私は料理も掃除も……」
そこまで言ってアンリは口ごもる。
しかしバイロンは首を振って微笑みを浮かべた。
「それは必要ありません。食事はあの村長の奥方が用意して下さるでしょうし、掃除も同様でしょう。私はそんな事を貴女に求めたりはしません」
「じゃあ、何ですか…?」
直感的に厭な予感がしたので、思わずアンリの腰が引けた。
するとバイロンは悪戯を思いついた少年のような表情を浮かべる。
「添い寝して下さい」
ゴン
アンリの鉄拳が枕に沈んだ。
本来はバイロンの頭に打ち込まれるものだったが、彼はそれを素早く交わしたのだ。
枕はその衝撃で破れ、ふわふわと中に入っていた羽が舞った。
「別にいいじゃないですか。添い寝くらい。私はこれでも司教ですよ?身も心も神に捧げた身。滅多な真似はしません」
「信用出来るか!この似非司教が」
がるるるっと牙を出してアンリが威嚇する。
「全く、頑なですね。お腹でも空きましたか?」
ギクッ
それは図星だった。
アンリは人間ではない。
黒き森の番人、または守護者などと呼ばれてはいるが、一部の者たちからは黒き森の悪魔と呼ばれている。
彼女はいくつもの異形の姿に転化出来る。彼女の出自については本人ですら定かではない。二十年程前より黒き森に現れ、村に害意のある獣を退治したのだ。それ以来ずっとこの村の者たちを守護している。
彼女は村には住んでいない。
アンリの住処は黒き森だ。
異形に転化すらしなければ村でも普通に生活出来ただろう。
だが問題はもっと別にある。
それは食事だ。
アンリの糧は人間の摂取する食物からは摂れない。
深い森に多く含まれる「聖気」と呼ばれるものを摂取するのだ。
「聖気」は人の多い場所等には含まれない。
だからアンリは森で生活するしかない。それはもう慣れた事なので今更淋しいとは思わない。そう…。今更。
それより今はそろそろアンリの食事時。アンリは空腹を感じていた。
「お前、どこまで知っている。とにかく分かっているなら止めないで欲しい」
部屋を出て行こうとするアンリの腕をバイロンが捕らえた。
アンリは驚いてそれを振り払おうとするが、逆に引き戻されてしまう。
ガクンと身体が傾いでアンリの束ねた長い髪が揺れる。
「私のは「森」なんかよりもずっと濃いですよ?」
言うが早いか、バイロンはアンリの小さな唇を自分の柔らかな唇で塞いだ。
「んっ…ふぁ……」
アンリは目を見開き、バイロンを突き飛ばそうと拳を固めたが、次の瞬間異変を感じた。
(これは聖気………?)
冷んやりとした彼の唇から甘美な聖気が流れ込んできた。
それはアンリが今まで味わった事のない純粋な聖気だった。
気付けばアンリの方が夢中で唇を合わせていた。
「意外に大胆ですね。少し驚きましたよ」
唇を離したバイロンは艶やかな目でアンリを見た。アメジストのような紫の瞳と視線がぶつかる。アンリは急に恥ずかしくなって目を背けた。
「お前、どうして聖気なんて持ってる?」
「さぁ。どうしてでしょう。それよりどうです。お腹は満たされましたか?」
「…………」
返す言葉もない。夢中で彼の唇を貪ったのは自分だ。
彼の言った通り、彼の聖気は今まで味わった事のない極上のものだった。
アンリは俯いてただ羞恥に耐えた。
「着替え、手伝ってください」
バイロンはそんなアンリに見てかすかに笑みを浮かべた。
そしてベッドから立ち上がり、黒十字の縫い取りの入った聖職衣を摘んだ。
仕方なくアンリも立ち上がり、その衣服に手を掛けた。
シュルリ…
長い衣が肩を滑り、床に落ちた。
華奢に見える外見とは違って逞しい肉体が露わになる。
無駄な肉は無く、その代わり肩や胸にはしっかりとした筋肉が付いていた。
しばらくアンリは見とれるように惚けていたが、彼の左肩に見慣れぬものを見つけた。
それは黒の縁取りに白い十字架の文様。
入れ墨なのだろうか?
「ああ、これですか?これは聖痕というんですよ」
「聖痕?」
聞き慣れない言葉だった。
アンリは聖職衣を手にしたまま首を傾げる。
バイロンは露わになった腕を白い手袋に包まれた手でそっと覆った。
「呪いみたいなものですよ」
そう言ったきり彼は薄手のガウンを纏うと何も語らなかった。
それは彼にとって踏み込んではいけない領域だったのかもしれない。
言いしれぬ何かを感じはしたが、今は満腹で久しぶりに満ち足りた気分だったのでアンリは深く考えない事にした。
こうして司教がやって来た一日目は終わった。