バイロンの過去
「あの…、ここって幽霊とかは出ませんよね?」
廃墟を前にアンリは、消え入りそうな声でバイロンに問いかけた。
「おや?いつも勇ましいアンリが、実は幽霊が苦手でしたか」
「ち…違います。別にそんなの怖くなんてありません」
バイロンはからかうように笑っている。
先ほどよりも大分落ち着いたようで、表面的にはいつものバイロンだった。
それでアンリの方も緊張が幾分解けた。
「では、入りましょう」
バイロンが扉に手を掛けた。
キィ…
鈍い音を立てて扉が開く。
「わぁ……」
そこはアンリが夢に見た屋敷そのものだった。
白い壁には幾つもの小さな窓が規則的に並び、精緻な硝子細工のシャンデリアが天井を優しく彩っている。そして、中央にある、滑らかな曲線を描く階段は二階へと続いていた。
大理石の床に敷かれた天鵞絨の絨毯は、長い年月ですっかり湿っていたが、一級品だった事が伺える。
どれもがすばらしい調度品であふれていたが、それらはすっかり風化して雨ざらしになっていた。
壁や窓に空いた穴からは、今でもすきま風が漏れていた。
「ここですよ」
バイロンは広間に続く扉を押し開いた。
キィ……。
アンリは目の前に広がった景色に釘付けになった。
「わぁ……。これ、夢で見たままです。この窓からの景色も同じだ」
つい広い部屋を走ってしまう。
すっかり風化して、退色した窓の桟に触れ、アンリは夢との相違を確認していった。
それは間違い探しをしているような気分にさせた。
「不思議ですね。この屋敷の中はほとんど夢で見たものと同じです」
するとバイロンは首を振った。
「それは不思議な事ではありませんよ。アンリ」
バイロンはゆっくりとした足取りでアンリの目の前に立つ。
窓から漏れる月明かりに、彼の端正な面差しに微細な陰を作る。
「バイロン?」
「貴方は私の古い記憶を見たのです」
彼はアンリの横を通り過ぎて、窓辺に寄った。
そして、何かを懐かしむように、硝子を失った窓の桟に触れる。
「あの夢にはバイロン、貴方もいた。では、あれは貴方の過去?でもどうしてそれを私が……」
「貴方に見せたかったのではないですか?私の至らなかった過去の姿を……」
そう呟いたバイロンの横顔には、深い悲しみがあった。
「それは、一体誰が…?」
アンリはやっとの思いで声を出す。
「暁の吸血鬼……。私がヴァチカンより受けた密命の首謀者」
「はっ……」
次の瞬間、アンリは全身を雷で貫かれたような衝撃を受けた。
そして、震える声で尋ねる。
「まさか、それがレイナを襲った犯人ですか?ならば、その犯人はバイロンと知り合いという事になります」
バイロンは何も答えなかった。
だが、アンリはそれを肯定と受け取る。
「いいですか、アンリ。良く聞いて。暁の吸血鬼、アレクセイは私の義兄です」
「義兄……?」
アンリの顔から表情が消えた。
「厳密にはまだ契りは交わしてなかったので正確には違いますが、私は今でも彼を義兄だと思っています」
バイロンはこちらを振り返った。その顔にはまだ寂しさが滲んでいるが、懐かしんでもいるようだ。
「私とアレク、そしてアレクの姉、フィリアは幼なじみでした。私たちはずっと一緒でした。私が父の都合でヴァチカンの寄宿舎に入れられるまでは」
「フィリア……?」
それは夢に出てきた名前だ。
「フィリアは私の婚約者でした。私が寄宿舎生活を終え、結婚式の当日にアレクに惨殺されました」
「そんな…どうして。酷い……」
「さぁ、どうしてなのでしょうね。ただ、私とフィリアは彼に祝福してもらえなかったようです」
バイロンはそっと、床に座り込んでしまったアンリに手を差し伸べる。
アンリは素直にその手を取って立ち上がる。
……今でも彼女を愛しているから、今でも忘れられないから、その黒衣を纏っているの?戦闘用エーテルコートとは言っていたが、本当は喪服のつもりなんだ……
どうしてか胸が痛かった。
自分の踏み込める領域ではない彼の秘められた過去を知った事の痛みなのか。
「祝福されない?そうだね。バイロン。お前たちは結ばれても幸せにはなれなかったんだから」
「!」
屋敷の中、それもバイロンたちの他に人の気配がある。
それも不意にだ。
すぐにアンリは反応して上を仰いだ。
「バイロン、上です」
アンリの声と同時に天井のシャンデリアが大きな音を立てて落下した。
バイロンはメルを抱え、アンリは瞬時に魔物、地獄の番犬ケルベロスに転化して、見えない敵に向けて炎を吐いた。
「ふふふふ。アンリさん。いつ見ても鮮やかな転化だね。その力が何なのかも知らないのに」
落下したシャンデリアの向こうに淡雪のような金髪の青年が降り立った。
天使のように透き通るような容貌。
「アーサー牧師さまっ!」
彼はアンリを見ると、甘い笑みを浮かべた。
「君を迎えに来たよ。魔物の御姫さま」