追想の森
雨が降っていた。
次の日も、また次の日も。
銀の糸を張った蜘蛛の巣に透明な雫が散らばり、光を反射させる。
さながらそれは自然の作った緻密なモザイク画のようだ。
見つめる先は鬱蒼とした森。
虚ろな瞳はただじっと森を見据えている。
ただ黙って窓から森を見ているバイロンの表情は虚ろだった。
そんな彼の前に、控えめなノック音が響く。
だがバイロンはそれに何の反応も示さない。
ただ空虚な紫の瞳は窓に向けられたままだった。
「バイロン、入るよ」
遠慮がちな声がかかり、小柄な少年が姿を見せる。
仕立ての良い金糸銀糸で装飾された衣服の裾が視界に入る。続いてひょっこりとプラチナブロンドの頭が覗いた。辺りを窺うように滑り込んだ身体は細く、薄い緑の瞳にはやや怯えに似た色が混じっている。そして病的といっていい程、白すぎる肌は青ざめてすらいた。
少年の名はシリア。彼がここにいるバイロンに全幅の信頼を置いている事は、態度で分かる程明らかだ。
彼が教皇として立つ事になるにはもう少し後の話になる。
その声にバイロンは顔だけこちらを向いたが、視線が交わる事はなかった。
しかし、乾いた唇が幽かに動いたような気配がした。
少年はその唇から零れる音を聞き漏らさないよう、耳を研ぎ澄ませる。
「何?バイロン。何て言ったの?」
「フィリア……は?」
その名は女性の名だった。彼の大切な唯一の存在。
少年は思わず息を呑んだ。
事実を彼に伝える事は酷な事だと分かっていた。だけどそれを先送りにしても辛いだけだ。
長い沈黙の後、少年は意を決したように息を吸い込んだ。
「バイロン…、彼女は死んだよ」
………カノジョ ハ シンダヨ
バイロンの瞳が激しく凪いだ。
だけど少年は言葉を続ける。
「ねぇ、バイロン。フィリアがあんな事になって悲しいのは分かるけど、少しは元気出してよ。その喪服だってずっと着たまま着替えてもないし、髭もこんなに伸びちゃって…。こんなのバイロンらしくないよ」
「フィリア…。どうして………フィ…ア」
「バイロン!」
何かに取り憑かれたように彼女の名を繰り返すバイロンを少年はぶつかるように抱き込んだ。
「お願いだよ。お願いだから戻って来てっ!うっ……ゴホッ、ゲホッゲホッ」
少年はバイロンの胸の中で、苦しげに咳をした。また発作がぶり返したのだろう。
少年の身体は生まれつき弱く、そう長くは生きられないと医者に言われていた。
それなのに、今目の前の少年はこうしてバイロンを気遣ってくれている。
バイロンはそんな不甲斐ない自分を心の中で恥じた。
だから震える手を伸ばした。
そして無理矢理微笑む。
我ながら不器用だと思った。だが今の自分にはこれが精一杯だ。
「ありがとう。僕は大丈夫です。まだ生きていられます」
「バイロンっ!」
少年は苦しげに顰められた顔を期待に満ちたものに変え、こちらを見上げてくる。
それを見たバイロンは、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「ええ。貴方に元気を分けてもらいましたから。その代わり、貴方が苦しい時には僕が貴方をお助けします。必ず」
「ありがとう。バイロン。でも僕の苦しみはきっと誰も肩代わりする事は出来ないんだ」
「はい?」
「ううん。何でもない。忘れて。バイロン」
少年は花のような笑顔を見せる。だけどどこか淋しげな笑顔を。
彼にはまだ隠している事があるのだろう。
だけど、それをここで問いただす事は出来なかった。
それに今の自分にはそれを受け止められる程の心の余裕は残ってなかった。
「はい。分かりました。では、そろそろルビアの元へ戻りましょうか。ローマへの道のりは遠いですよ」
「うん」
少年は最後にバイロンが覗いていた窓を見上げてみた。
雨の降りしきる向こうは黒き森と呼ばれる魔の森が広がっている。
鬱蒼とした木々の向こう。
確かに「それ」はいる。
「さようなら、僕の「半身」。出来ればもう二度と会う事もないように……この痛みは全て僕が引き受けるから」
ざわわ…。
緑の葉擦れが響く。
まるで少年の言葉に呼応したかのように。