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ただの、ありふれた、普通の『御伽』  作者: くだりづき
第一章 始まり始まり
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第一章 その2 "かつてない恐怖"



 グチャり、バキりと、獣の顎がエシルの肉を裂き、潰し、骨を軋ませ、砕いたであろう音がする。純白のローブがみるみるうちに鮮血の深紅に染められていく。



 俺は、俺の人生で未だかつてないほどの狂気を、暴力を、残虐を、苦痛を、たった今、目の当たりにしていた。



「えぇ、あ、あぁ…」



 この頼りない、情けない、みっともない、醜い声の出どころは?

 問1にもならない愚問。

 俺の、みっともなく恐怖に震える喉から発せられたものだった。



 ——だって、いたいんだよ。


 直接的な痛みは無い、はず。

 肩に触れる。指に血は付かない。


 だが、じわりじわりとその範囲を広げていくエシルの赤を見ていると、身体中の筋肉が劇烈な虚脱感に襲われる。



 ——ダメだ。



 恐い。


 怖い。


 恐い、

 怖い、

 恐い怖い恐いこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。



 今度こそ、正真正銘ただひたすらの恐怖。



 一介の男子高校生でしかない俺にとって、それは優に許容量を超えていた。


 頭が、心が、現状を受け止めきれない。

 精神が、あやうい。



 ムリだ。いやだ、いやだいやだイヤだ。

 こわい、こわい。こんなにこわいモノに、立ち向かえるはずがない。

 ダメだ。俺なんかにはなんにも出来ない。出来るわけがない。

 お願いだ。やめてあげてくれ、やめて、やめて、やめてくれ……!


 ただただ立ち竦むしかなかった。

 無力で、脆弱で、臆病な俺には、なんの抵抗を起こす事も出来ない。


 気がつくと俺は地べたに座り込んでいた。腰を抜かし、失禁まではしていなかったものの、脚全体が小刻みに震えていてまったく制御が効かない。


 嫌だ、なんでだよ、いきなり、こわい、やめてくれ、無理だ、無理だ、いや、助けて、なんで俺が、死ぬ、あの子が、死んだら、次は俺、いやだ、いやだ、死、死にたくない、こわい、こわい、こわい、あ、こわい……



「っ……」



 ————なにかが、きこえた気がした。


 

 弱く、汚く、醜い感情が濁流となり、渦を巻き、全てを埋めつくさんとしていた最中さなか、その声はか細くも、強く気高く俺の耳に流れ込む。


 はと、エシルの方を見れば、その顔は苦痛に歪んでいた。しかし、口元が微かに動いている。



「に……げっ、て……」






 ——は?






 意味が、わからない。


 何を言ってるんだ、コイツは。

 なんで、逃げてなんだよ。普通、助けてだろ。

 なんで、そんなこと言えるだよ。


 疑問が懇々と湧いてくる。


 湧いたそれは溜まりに溜まった末に、



 ——やがて、苛立ちへと変わる。



 果たしてそれは、理解し難いことを言う彼への腹立たしさからか、はたまた彼の行動に疑問を感じてしまう自分への腹立たしさからかは分からない。

 ただ俺には、自分が出来ないことを平然とやってのける者に対して、怒りを感じてしまうきらいがある。



 格好つけやがって。偽善者ぶりやがって。見せびらかしやがって。



 どんなに優しい行動も、どんなに勇気ある行動も、俺にはそれが皮を被っているように見えてしまっていた。

 言うまでもなく、それは妬み僻みからくるもの。

 だから俺は、この感情が頭を支配してしまう度に、自分で自分を嫌いになる。



 ——だけど俺は、どこかで信じていたかったんだ。



 そんなに誠実な人間なんて本当はいない。そんなに勇敢な人間なんて現実には存在しない。



 だから俺は、俺の汚さは、決して異常ではない。



 それが普通なのだと、そう信じたかった。






 ————だが、今目の前にいるコイツがもし、ホンモノだったら?






 俺は…………



「……くっ、そ、がぁぁぁああああああああ!!!!!」



 脳が答えを導き出す前に、俺は怒声で思考を搔き消しつつ、己の持てる力の全てを込めてその獣を蹴飛ばしていた。

 まさに会心の一撃。獣とエシルと、俺のものかもしれない深紅がしぶく。赤く染まる右足が痛い。

 だが蹴り上げた俺の足先は、運良くそのモンスターの鼻先に当たったようだ。ヤツは痛みに耐えかね蹲っている。逃げるのなら、今しかない。


 確かエシルは、東へ向かうと言っていた。そして、今は午前八時頃だ、とも。


 ならば——


 俺はエシルを背に担ぎ、全速力で影が伸びているのとは逆の方向へ向かって走り出した。


 盛り上がる木の根なんて、シャツを引っ掛ける枝なんて、頰を裂く細長い葉なんて関係無い。ただただひたすらに、上がりきらない日の有る方向、東へ向けて駆ける。


 我ながら自分の頭の回転スピードを褒めてやりたいくらいだ。

 しかし、人をおぶりながら走った経験など殆ど無いため、早くも体力に限界が来る。



 脚が重い。太腿、脹脛を形成する筋繊維の一本一本が悲鳴を上げている。

 息が辛い。痺れる末端部に酸素を行き渡らせるべく、肺が痛みによって空気の必要性を訴えてくる。


 とにかく、苦しい。


 ダメだ、このままじゃ追いつかれ——



「……いや、大丈夫だ」



 浮かびかけたマイナス思考を、絞り出した声でどうにか抑えつける。

 そうだ、アイツも怯んでいた、しばらくは追ってこられないはず。



 だから落ち着け。焦るな俺。震えるな俺の足。お願いだから——




「ヴォォォォァァァァァァァァァァァ!」




 ——無情にも、凄まじい咆哮がすぐ背後で轟く。



 反射的に振り向いてしまった。後ろに、迫っていた。

 いつでも飛びかかる準備はできている、とでも言わんばかりの勁烈な再度の咆哮が、文字通りビリビリと、痛みを伴うほどに頰の皮膚を震わせる。


 なんでだよクソが!


 俺は足の回転を急停止し、背中のエシルを庇うように反転。追っ手と対峙する。

 獣の前足が土を蹴り、鋭利な爪が俺の胸に。綺麗に生え揃った、鋭い無数の牙が俺の首へと向けられた。



 ——ダメだ、やっぱり何もできない。避けようにも逃げようにも、あの紅の脅威を目の当たりにしてしまっては、もう足がすくんで動いてくれない。



 でも、でもせめて、一矢報いてやる。


 どうせ死んでしまうのなら、ここで終わるのなら、


 ………………………………死にたくない。


 刺し違えてでも、どうしようも無くても、このバケモノをブッ殺す!!!




 コイツを、エシルを守りたい。




 唐突に召喚された異世界の理不尽と、無力な自分への憤りを叫びながら、振りかぶった俺の拳は、



「う、ああああああぁぁぁぁぁぁああぁぁ!!!! ……あ」




 ——俺の拳は、ソイツを捉えることが出来なかった。



 だが、ソイツの鋭い爪も、無数の牙も、俺やエシルを捉えてはいない。



 見えない『何か』に阻まれたのだ。



 獣は俺の眼前数センチのところで突如、何かにぶつかったように、きゃんと仔犬のように悲鳴を上げて仰け反った。


 何かが、確かに俺の目の前に存在していた。

 だが、見えない。少なくとも、俺の目には。


「…………け、結界、です」


 背中からエシルの弱々しい声が聞こえた。

 そうか、そういえばさっき、師匠の家の周りは結界で守られている、とか言っていたような。


 その後も獣は俺たちに飛びかかろうとしてくるが、やはり見えないガラスのような『何か』に阻まれてこちらには来れられないようだった。

 数度の試みが失敗に終わり、恨めしげにこちらをしばらく睨んだのち、獣はとぼとぼと何処かへ行ってしまった。


「っっ! はぁぁ〜〜。と、とりあえず、もう大丈夫って感じかな。助かったぁぁぁ!」


 脅威が去り、思わずその場へ座り込みながら、俺は溜息と共に安堵の声を漏らす。

 あとは、これがフラグになって結界が破られる、なんてオチにならないよう祈るくらいか。



 俺は、顔の前で未だに震える右手を開閉し、己のせいを実感する。



 ……本当に、冗談抜きで一度は死を覚悟した。



 まさか俺の人生でこのような瞬間が訪れるとは思いにもよらなかった。


 どうにか立ち上がろうと試みるが、脚には力が入らない。


「って大丈夫か⁈ エシル?」


 立てない理由が、安堵からくる脱力感の他にも、背中にあったようやく思い出す。


「は、はい……。一応……。でも、あまり大丈夫ではない、ので、このまま師匠の家まで運んでもらってもいい、ですか?」

「お、おう! 任せとけ」


 無駄に元気な声でエシルに返しつつ、カラ元気で震える脚を抑えつけ、どうにか立ち上がる。


「ありがとう、ございます……」


 肩越しに振り返ると、礼を言うエシルは額に玉のような汗を、瞳に小さな涙を浮かべながらも微笑んでいた。

 俺も彼に笑顔で返し、前を向いて足を運ぶ。



 はぁ……、どっと疲れが出るとはまさにこのことだな。



 色々な安堵感と達成感に包まれ、身体のダルさは半端では無い。身体の要所要所に力が入りづらい。

 だが、その倦怠感に包まれていても、エシルは軽かった。

 少なくとも、もうすぐ十一になる俺の弟よりは軽かった。なので運ぶことにさほど苦は感じないが、時折聞こえる苦しそうな息使いに、少し不安になる。




 ……ふと、不思議に思った。いや、思ってしまったと言うべきなのだろうか。



 俺は何故、こんな出会って間もない男の子の心配をしているのか、果てには命まで懸けたのだろうか?


 異世界に来て、浮き足立っていたから?

 自分は主人公だから死なないとでも思っていたのか?

 それとも、ただカッコつけたかっただけなのだろうか?


 ……答えは全て、否であろう、と思う。


 なにせ俺には勇気が無い。これは、元の世界において自他とも認められていた事実であるし、先ほどの愚行からも改めて実感した。

 肝心なところでも、そうでないところでも優柔不断。だから、どんなことにも踏み込めず、中途半端な十六年を送ってきた。


 故に、いくらハイになっていても、自惚れていても、調子に乗っていても、俺には命をかけるなんて大それたこと、到底できないはず、だった。


 しかし先程は、一歩間違えれば死んでいた。


 他人の、まだ知り合って一時間と経たない少年の命を、守るために。


 いや、半ばヤケクソなところもあったかもしれない。

 だがなぜなんだ? なんでそんな行動を?

 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ?


 ——そうだ。あのとき、エシルが俺に『逃げて』と言ったとき、自らの命すら顧みず俺が逃げることを願ったその行動に、俺は激しく疑問を抱くと同時に憤りを感じた。しかし、さらに同時に、守りたいと思ってしまった。


 では、それはなぜか。


 …………と、色々ぐるぐるしている内に、森の中にポツンと佇む一軒の家が見えてくる。できる限りの急ぎ足で近付いてみれば、その家の周囲十メートルほどを囲むように、樹々が円形の広場を成していた。


 見た感じはログハウスのようだ。

 丸太を組んだような外壁には所々に窓があり、深緑色の屋根から飛び出している赤レンガ造りの煙突は、もくもくと灰色の煙を吐き出している。


 やはり、いや、当然インターホンのようなものは無い。


 三段ほどの階段を登り、入り口であろう戸をノックしようとしたその瞬間、待ちかまえていたかのようにドアが内側へ開いた。



 ——直後、その家の主と目が合う。



 俺より十センチほど背の高い金髪碧眼の女性。ものすごい美人。

 可愛い系ではなく、妖艶な大人の女性といった雰囲気だった。


 しかし、俺が最も目を引かれてしまったのは、黒色のローブのようなゆったりとした服を着ていても分かるくらいに大きな胸、だった。

 よく見ると、そのローブはエシルが着ているものと色違いのようだ。


「結界が何かに反応したかと思えば、大変なことになっているな」


 冷たい印象を受ける声だった。

 その女性はさして驚きもせずに、血まみれのエシルを一瞥した後、「入れ」と一言だけ言い放つと、俺の返事を待たずしてさっさと家の奥へ行ってしまう。


 玄関らしい玄関は無い。靴は脱がない欧米スタイルのようだ。とりあえず開けられた入り口をくぐり、戸を閉じる。


 振り返ると、いつの間にかそこに居たエシルの師匠は、自らの弟子が負った傷をじっと見ていた。



 ——道端で死んだ小鳥でも、見ているかのように。



 嫌な、予感がした。

 俺も自分の左肩ごしに、エシルの左腕を見る。




 ……はずだった。




 しかしそこには、今ではその大半が真紅となってしまった白いローブと、彼の血で同じく朱に染まっている俺の肩しかなかった。


 何度見直しても見開いても瞬きをしても、そこにあるはずの、俺が確認しようとしたモノが無い。




 ————エシルの左腕は、正確には左肩の少し下あたりまでが、あの獣に食われて失われていた。


お読み下さりありがとうございます。

次回もよろしくお願い致します。


●2018/06/23 加筆・修正致しました。

●2018/08/15 同上

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