第一章 その1 "スタート失敗"
けたたましく鳴り響く不快な電子音が、俺を夢から引き摺り出した。
温かい、寝慣れた布団の中で、軽い寒気と激しい喪失感に襲われる。
…………なにかをおいてきてしまった。
……なにかをワスれてきてしまった。
何かを、忘れてしまった。
何かとても、とても大切な事を忘れてしまった気がする。
そんな遣る瀬の無い、正体不明の不快感が、寝起きの口内を、喉を、食道を、胃を、嘔吐感という確かなモノとなって掻き乱す。
気持ち悪い。
……が、しかし、とにかく眠い。
己の意思とは関係無く瞼が降下し、そのまま眼球にへばりついて剥がれてくれない。
今はもう一度、この温かな布団で意識を手放すことが出来るなら、他のことなんてどうでもいい。
……この気分の悪さも、眠ってしまえばきっと感じなくなる。
曖昧な意識の中、俺はこのはた迷惑な騒音の元凶を黙らせるべく腕を持ち上げ、ソレの上で完全脱力。支える力の無くなった俺の腕は重力に従って自由落下を始め、ソレの脳天へ————
————7時50分を示す白黒の液晶。その隣で55、56、57と、数字が次々と移り変わって行く。
俺は市内の自称進学校である公立高校に通っている。その距離は、家から自転車で半時間ほど。
そして誉れ高き我が校の校則では、八時三十分までに教室で着席していないと遅刻扱いになる。
「そこそこやべーな……」
……体調が悪い訳ではない。本気で急げば間に合わない時間でもない。
しかし、なんだか気分が良くない。
こんな日は、自主休学してしまうに限る。
ちょうど今学期はまだ無遅刻無欠席だ、一日くらい休んだって……あ、そういえば今日、あの数学の宿題、最終締切なんだった。
せっかく昨日の夜頑張って終わらせたのに、どうせなら提出しておきたかった。
……前の中間テスト、数学は赤点だったし。
はぁ、起きるか……。
貧血気味なので飛び起きることはしないが、できるだけ急いで起床、軽く朝食、身支度をすませて自転車を飛ばす。
————8時29分着。自分でも感嘆の声を洩らしてしまうほどのギリギリセーフだ。
そこから7時限もの授業、2時間ほどの部活。
物凄く仲が良いとは言えないが、そこそこに親しい部活仲間との、最近ハマっているスマホゲームについてや二週間後に迫っている期末テストへの不安を話しながらの帰り道。
そんな、いつもと変わらない日常。
退屈だが、大した不満がある訳でもない毎日。
このまま、いつもと何ら変わらぬ一日は終わりを迎え、明日からも同様に退屈な毎日が続いていく。
————試験結果に怯え、冬休み、進級して高校三年生、受験、大学生、就職、社会人、仕事、仕事、仕事。
ぼんやりと、ただひたすらに送っていく起伏に乏しい俺の人生は、きっと殆どの人にとっては有ろうが無かろうがどうだっていいモノ。
だが俺自身と、ごく僅かの人間にとって、無いより有る方がいいものとなれるのならば、それくらいで良いだろう。
と、思っていたのに。
どんな物語でも、何気ない日常が崩れ去るのはほんの一瞬。
部活仲間達と別れてから、突如それは俺の眼前に現れた。
————魔法陣。
そう、魔法陣。
ファンタジー世界設定のアニメやゲームでよく見る例のアレだ。
怪しげな薄紫色の光を放つ、円の中によく分からない文字や図形の入った魔法陣が、薄暗い街灯に照らされるアスファルトの地面から、少し浮いたような状態で俺の目の前に展開していた——
『いくらアニメやらゲームやらで慣れ親しんだものと言っても、実際に目の当たりにすると訳が違う。
喜びや希望など、そんなキラキラした感情はただの一つも生まれない。
恐怖。
ただひたすらに恐ろしかった』
——とでも思うべきなのだろう。
どう考えても、危険を孕んでいる異常が身に迫っている非常事態。恐れを感じて、逃げ出して当然な状況だ。いや、本来はそうすべきなのだ。
だが、俺の中には先程あげた喜び、希望といった感情が満ち溢れていた。
異常だ。明らかに異常だ。
…………いや、近頃ではこの異常が普通なのではないだろうか?
それでは、最近の(少しオタク気味の)『普通』の『高校生』は、目の前に魔法陣が現れたとき、どのような行動をとるだろう?
もちろん、飛び込むはずである!
————!
——。
——
—
——声が聞こえた。
それいがいのことはなにもワカらない。
かんじない、うけいれられない。
……だがその、男のものかも女のものかも分からない、今にも霞んで消えてしまいそうな細く弱い声だけはしかと感じ取ることができた。
『オワラセテ』と——
…
……
……。
………!
「……て……さい」
「お…て…ださい」
……女の子の声がする。
やわらかく、心地良い音程だ。
色で表すとしたら空色、いや、透明が最適か……
「ここで寝ていてはダメです、起きてください!」
「えっ、はい!」
突然の声に俺は思わず跳ね起きてしまった。瞬間目の前が真っ白になり、脳へ軽い圧迫感のようなものを感じる。思わず瞼を閉じ、眉間に皺を寄せ額に手を当てた。
「あ、ごめんなさい! だいじょうぶ、ですか?」
揺れている頭に先程の声が波紋、浸透する。
「あ、はい。ちょっと貧血気味で、急に起きると目眩が…」
………。
……マジかよ。
俺が言葉を交わしていたのは、女の子だった。
綺麗な黒髪は結ばれることなく垂れており、後髪は肩まで、前髪は鼻に届きそうなほど。
その長過ぎる前髪の隙間から、あまりにも美しい翡翠色を灯した双眸が、心配そうにこちらを見つめていた。
見たところ俺より2、3歳年下か。百五十センチほどの小さな体に不相応の大きな白いローブのような、よくアニメの魔法使いが着ているフード付きのマント的なものに身を包んでいる。
だが、今の俺の興味はそのファンタジーな装いには無い。
……ただ、ひたすらに、超可愛い。
まだ幼さは残るが、美貌と呼ぶに相応しいその容貌は、俺が今までに出会った女性と画面越しに見知った女性を合わせた内においても、紛うことなく最高であると言える。
スゲぇ、マジかよ。こんな美少女が実在するなんて——
「あ、あの、そんなに見つめられると……」
「え。あ、ああ! す、すいません! え、えーっと——」
じっと、女の子の顔を凝視してしまっていた気恥ずかしさを取り繕うように、何か話そうとしたが上手く言葉が出てこない。
えーっと、なんだ。
まず俺は今、どういう状況なんだ?
どうして俺は地べたで寝ていたんだ、しかも超かわいい女の子の前で?
というかまず、ここは何処なんだ?
辺りを見渡す限り、どうやら何処かの森か林、いや、山の中のようだが……
「えっと、まずはこんにちは、藤田小太郎さん。ボクの名前はエシルです。あなたをこの世界に召喚したのはボクです」
その超絶美少女、もといエシルが、ガラスのような透き通る声で言った言葉の意味が、俺にはすぐに理解できなかった。
召喚? この世界? 僕?
……何故だろう、頭が働かない。
平常時の頭の回転を『ぐるぐる』と表するのなら、現在はもっと粘着質に『ねるねる』といった、そんな感じの違和感がある。
「えっと、こんにちは。俺の名前は藤田小太郎です。あの、すいません、なかなか状況が理解できなくて……」
とりあえず、今考え得る限り精一杯の返答。だが、どうにも間の抜けた感じになってしまった。
「恐らく、召喚時の影響だと思います。召喚する際には一度肉体と精神を切り離してから転送するので、再び融合した直後には多少の違和感が発生するであろうと言われていましたから。ですが、召喚に失敗していなければ、安静にしておけば落ち着くはずです。小太郎さん、これを飲んで一度ゆっくり深呼吸をして見てください」
エシルは俺の焦燥など気にも留めていないように微笑み、落ち着いた口調でつらつらと話しながら、無色透明の液体が入った木製のコップをどこからともなく取り出し、俺に手渡した。
俺はその、エシルから受け取った水であろうものの臭いが無臭である事を確認したのち、それを一口喉へ通し、言われた通りに深い呼吸を繰り返す。
水の冷たさが俺の頭中に纏わり付いていた何かを払い、大きく吐き出す息と共にその何かが体外へ排出されるような感覚。
その感覚が意識を、微睡みの中から引き上げてくれる。
……あれ?なんか、後から考えると、さっきとても物騒な事が聞こえた気もするが。まあいいとしよう。いや、全然良くないけど。今は気にしても仕方がないと、無理矢理自分を抑えることにしてしまう。
それより、今は状況分析だ。
さて、俺は高校からの帰り道、魔法陣に飛び込んだ。
その結果、気がつけばここで寝ていたことになる。現に今、俺の座っている地面には俺が飛び込んだ魔法陣とおそらく同じものがうっすらと光っている。空が明るいせいか、向こうの世界で目にしたときより見え辛くなっているが……
ん? 空が、明るい?
「すいません、俺ってどのくらいの間寝ていたんですか?」
「正確には分かりませんが、2分くらいだと思います」
え、2分?
かなりの長時間眠っていた気もするが。
「こちらの世界の時間とそちらの世界の時間とでは、こちらの世界の方がちょうど半日遅れています。ですから現在のこちらの時間は午前8時くらいです」
なるほど。ということは、俺はもう一度朝から1日をやり直すのか。
あ、そういえば、
「そういえば、さっき自分のことを『僕』って言ってましたけど、エシル、さんは女の子じゃないんですか?」
「あ、はい。ボ、ボクは男ですよ…。あとボクは貴方より二つ年下なので、敬語はやめてくださいね」
マジか、こんな可愛い顔と声なのに男なのか。
いや、言われてみれば男の子に見えないこともない、か?
いやいや、言われてみてもやはり見えないのだが。
見た目からして俺より年下だとは思っていたが……
いや、違うだろ。
——異世界に来た。
あの異世界だ!
ラノベやでアニメでよくある、健全な男子高校生なら誰しも一度は夢見たことのある異世界だ!
「異世界召喚きたぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁ!!! うっしゃああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!」
「ふええぇっ!?」
なんの前触れもなく発された俺の咆哮に、エシルは心底驚いたのか、素っ頓狂な声をあげた。彼女——彼の中で俺の株が大暴落したことはほぼ確実だろう。
しかし、そんなこと今はどうでもいい。
今はただ、『異世界に来ることのができた』という事実を、ただただ噛み締めていたかった。
……約十分後。
「今度こそ、落ち着きましたか?」
叫んだり、ガッツポーズをしたり、小躍りしたりと、狂喜と言える行為を一通りしまくった俺とエシルの距離は、俺が目覚めたときよりほんのり大きくなっていた。この場合は心の、とかではなく物理的に。
「はい、落ち着きました。ごめんなさい、急に大声を出してしまって……」
やっぱりどうでも良くはなかった。
さすがに美少女から避けられると辛いものがある。俺はどうにか取り繕うため、成せる限り紳士的に立ち振る舞う。
するとまたエシルは少し苦笑しながら、
「いいえ、少し驚きましたが大丈夫です。というよりも、目が覚めたら突然違う世界にいた、なんて気が動転してしまうのも当たり前です」
と、距離を詰めてくれた。
別に気が動転でしていた訳ではなく、むしろ喜んでいたとは言いづらい……。
バツの悪さから、俺はぽりぽりと頰の面皰跡を掻く。
——ゥゥウォオオオオオオウゥゥ!!
居心地の悪いの静寂の中に、それは突如響き渡った。
獣の雄叫びだ。
発生源として、俺の知見の中で最も似通っているのはオオカミであった。
だが、俺が何かの映画で聞いた覚えのあるあの吠え声とは、少し違う。
もっと低く、強く、不気味な音。
視線を巡らせて見れば、遠いその咆哮により、エシルの頰を僅かに染め上げていた朱が、みるみるうちに引いていくのが分かった。
「すいません、少し場所を変えましょう。ゲーム好きの小太郎さんなら分かると思いますが、ここは森の中です。安全地帯とは言えません。とりあえず、移動しながら話しましょう」
そしてエシルはこちらに向き直り、先程とは打って変わった、明らかな焦りがみられる口調でそう言う。
「分かり、ました。でもどこに移動するんです、か?」
……思わず敬語になってしまいながら、俺は彼女に問う。
周囲を軽く見渡すが、視界は全て樹々に囲まれており、とても安全地帯など無いように見えるのだが。
「僕がお世話になっている師匠の家です。ここから少し、東へ歩いた先にあります。その家の周辺は師匠の張った結界に守られているので安全です」
「な、なるほど。分かっ、分かりました」
また敬語になってしまった上に吃ってしまった。
「では、行きましょう。立てますか?」
「あ、はい。あ、ありがとうございます」
一頻り喜び回った事で少し疲弊し、倒木に腰掛けていた俺は、エシルが差し伸べてくれた手を借りて立ち上がろうとした。
しかし、それはとても綺麗で、細く、柔らかく、とても男子のものとは思えないような、まさに華奢な手だった。
思わず、体重をかけることを、握ることさえ、躊躇ってしまうほどに。
結局俺は手には触れているが、ほぼその支えに頼らず腰を上げた。
やはりエシルは女の子なのだろうか?
大きなローブに包まれているため体のラインは見えないが、顔の輪郭も、髪の質感も、声の響きも、幽かに甘いその香りも、やはり男子のそれとは違うように感じる。
だとしたら、どうしてそんな嘘を?
もしや、警戒されている? 俺に襲われでもしないように?
「どうしました? もしかして、まだ具合が悪いのですか?」
エシルが俺から受け取ったコップを、背負っている小さなリュックサックのようなものに入れながら聞いてくる。
「い、いや、大丈夫です! じゃあ、行きましょう!」
「歩きながらでも、何か聞きたいことがあれば聞いて下さいね。あと、先程も言いましたが、僕の方が年下なので、敬語は使わないで下さい」
「う、うん。じゃあ、分かっ、た」
再び吃りながらもようやく敬語が外れた俺の返答に、「ありがとうございます」とエシルはふわりと微笑んだ。
…………
淡々と、二人で森の中を歩いていく。
徐々にエシルの息遣いに疲れが現れてきた。俺も体力には少し自信があるが、そこそこ息は上がってきている。
それもそのはず。何せもう三十分近く、なんの舗装もされていない森の中を歩き続けているのだから。
なおその間、彼からは何の声掛けも無い。もちろんチキンの俺が、出会ってまだ数十分の他人に自ら話しかけることなど、出来ているはずもない。
しかし、いい加減この沈黙も辛くなってきた。
大体、黙っていたままでは何も分からない。RPGの基本は会話による情報収集なんだ。ここは、勇気を振り絞って、
「あ、あのー」
「は、はい!」
よーしひとまず第一声はクリア。思いがけず裏声が出る、などという失態は回避した。
「とりあえず、どうして俺がこの世界に喚ばれたのか聞いてもいい、かな?」
勢い付いた俺は現状一番の疑問を、自らの喉が発せられる最優の声を用いて問いかける。
「あ、はい。えっと、簡単に言うと、小太郎さんには魔王を倒して世界を救って頂きたいのです!」
おお、すごいベタだな。
「その、魔王?について、詳しく聞かせてもらえる?」
魔王という単語を真面目な会話で用いる事に少々の気恥ずかしさを覚えつつも、再び吃らずに言えたこの快感。
その俺の爽やかな問いかけに、エシルは一瞬表情を輝かせてくれる。が、それは本当に一瞬で、次の瞬間には元の落ち着いた表情に戻っていた。
そして、その静謐な雰囲気を纏い直した美少年(?)は、厳かに語り始める。
「は、はい。話は少し長くなりますが、ご了承ください。
……十年ほど前のことです。この世界の大陸図中心に位置していた『パンゲア』という大国が突如、たった一人の名も知れない男によって、半日足らずで滅ぼされました。その国の軍力は、この世界の中でも1、2を争うほどだったにも拘らず、です。
そしてその男は、パンゲアを自身の支配下に置き、国民の約半数をただただ無惨に殺害しました。残りの半分は散り散りになりながらも、どうにか他の国へ逃れることが出来ました」
そこでエシルは、一瞬言葉を詰まらせた。ふと彼女の顔を見ると、少しだけ眉を顰めているように見られたが、伸びた前髪で隠されてよくは見えなかった。
薄い唇を小さな舌舐めて湿らせたのちに、また語り出す。
「そして現在、その男は自らを『魔王』と名乗り、城を築き、国土を支配しています。ところが不思議なことに、魔王はパンゲアを支配してから他の国へは手を出そうとしませんでした。
しかし、魔王がパンゲアを支配下に置いてから、世界の至る所で魔物の数が急増しました。原因は全くの不明ですが、時期的にほぼ魔王の仕業であると言えるでしょう。ですから一般人は魔物の襲われないよう、壁に囲まれた街での生活を強いられています……」
ここでまた一息置いてから、
「小太郎さん、お願いします! どうか、どうか魔王を倒して、人々が安心して暮らせる世の中を取り戻してください!」
エシルが足を止めて俺に向き直り、勢い良く深々と頭を下げる。遅れてブカブカのフードが後を追い、彼の小さな頭を覆った。
なるほど、目的も、話の内容も、だいぶとベタだが面白そうだ。全くゲームのようじゃないか。こんな時をどれほど夢見たことか。
……しかし、
「そのために呼ばれたっていうなら、俺は喜んで力になるよ。でも今の話を聞いてると、俺なんかに何が出来るんだって感じがするんだけど……。一人で国一つ滅ぼした化け物相手とかじゃ、到底勝てる気がしないよ……。もしかして俺、この世界に呼ばれたときに凄い力とか手に入れてたりする?」
彼の真摯な懇願に、なんとも情けない俺の問い返し。
だが、異世界召喚モノは大きく二つに分かれる。
一つは、召喚時にその世界を変えるほどの大きな力、要するにチート級の能力を得ている状態から始まるもの。
そしてもう一つは、
「凄い力、といったものはまだ無いと思います。そして、どのようにして魔王を倒せばいいのかは、まだ誰にも分かっていません」
特に何の力も与えられていない、平凡なステータス状態から始まり成り上がっていくものだ。
「そ、そうなのか……」
俺のはどうやら、苦労の多いであろう後者の方らしい……。
思わず視線を、足元に生えるタンポポ的な黄色い花へと落とす。
「でも、全く方法が無い、という訳ではないんですよ!」
「え? やっぱり何か攻略法はあるの?」
言いながら顔を上げた。
——その瞬間、俺はエシルに危機が迫っていることを察知した。
大型犬をさらに一回り大きくしたような巨体を持つ、灰色のオオカミ。
ソレが眼球を紅色に輝かせながら、こちらへ向かって疾走してきていた。
速い。
ソレは、四本ある強靭そうな脚の機能を存分に発揮し、踏みしだかんばかり木の根を蹴り地の土を蹴り上げる。みるみるうちに、距離が縮まっていく。
……だが、まだ行動を起こすのに必要な距離は、時間は、十二分にあった。
よって、
彼に迫る脅威を、彼に知らせることができた、
彼に迫る脅威を、肩代わりすることができた、
彼に迫る脅威を、どうにか排除することもできた、
……かもしれない。
——俺にもっと、勇気があったのなら。
すべてに対し、俺は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
故に、あらかじめ予測されていたことが、現実と化す。
飛び散る、赤。
頰に付いた、生温かい何か。
——俺の目の前で、その狼のような獣がエシルの左腕に喰らい付いていた。
また続きを読んでいただけると恐縮です。
もし、感想を頂けるのならさらに恐縮です。
●2018/06/23 加筆・修正致しました。
●2018/08/15 同上