5
「今日も頑張ったわね」
「うん、もう25メートル泳げるよ」
吐く息が白くなるころには、私はもう以前と変わらない早さで泳げるようになった。
先生たちも上手だねーって言ってくれて、もう少ししたら大会に出ないかなんてお世辞を言ってくれる。
「凄いわね」
「だって私、もうすぐお姉ちゃんだもん」
「そうね…」
お母さんは私と繋いでない方の手で大きくなってきたお腹を撫でる。
弟が産まれるのは2月20日。凄く、凄く楽しみだ。
また優生に会えるんだ。何度も何度も泣いて、けど声も笑顔も思い出せない、ただ愛しいとだけ思う弟。
最初に、何を言おう。
頬が緩む。この気持ちは何だろう。
ずっと、顔を忘れても私は弟のために生きてきた。
もう弟のようなことがないように泳げるようになった。プールの監視員のバイトもした。
弟が好き。
好きだと思う。
漠然と求めていて、でもそれが純粋な好意なのか罪悪感からなのかは分からない。
弟を思う。
本当はどうすればいいのかなんて分かってないけど、ただ私は水の側にいるようにしてた。
恋をしたことがない私には、弟の存在は大きい。
忘れた弟。家に部屋もない弟。
けど、弟が海に沈む瞬間を覚えている。
バカみたいに立ちつくす私に手をのばしながら、沖に流れる弟を覚えている。
その指先が沈んでから、走ったことを覚えている。
引き上げられた弟の体の、冷たさを覚えている。
私の人生において、3年しか干渉しなかったのに、私の全てに影響した弟。
好きかと聞かれるなら勿論好きだけど
愛してるかと聞かれると分からない。
私が本当は何を考えていて何をしたいのか、私には全然分からない。
今はただ、弟に会いたい。
ずっと生きて元気でいて欲しい。
もし、あのまま生きてたら私はどうしたんだろう。高校3年生の春、18になって死ぬその瞬間まで、私は進路を決めてなかった。
何となく進学しようとは思ってたけど、どの方面かは決めてない。まぁ、関係ないや。どうせ18歳になったら死ぬんだし。
弟さえ助けたら、今までみたいに生きていこう。
「悠里ちゃん?」
「ん? なに? お母さん」
「……ううん、何でもないわ」
「そう?」
何だかお母さんはちょっとぼんやりして私を見てるのか分からないような表情で、不安になる。
どうしたんだろう。特にお母さんが困ることはしてない。
どころか、自分でいうのも何だけどいい子のつもりだ。ていうか、まぁ中身はもう20だし。
それとも妊娠でやっぱり辛いのかな?
「お母さん、私の送り迎え大丈夫? 赤ちゃん重くない?」
「大丈夫よ。それに悠里ちゃんを一人なんてとんでもないわ」
「……ねぇお母さん、私、いい子でしょ?」
「ええ、勿論。毎日お手伝いしてくれるし、本でお勉強してるしね」
「じゃあ大丈夫だよ。私、一人でも大丈夫。お母さんは苦しいなら病院行きなよ。家でゆっくりしたっていいよ」
「……ありがとう。でも大丈夫。苦しいわけじゃないの。それに」
「?」
「悠里ちゃんは同じ年代の子供よりずっとはっきり話せるししっかりしてるけど、まだ2歳なのよ?」
…分かってるけど、でも誕生日からもう4ヶ月くらいだから、公園の子供たちも発音はともかく会話はできるんだから、普通でしょ。
「うん」
「だから、もっと甘えていいのよ」
「…?」
私、甘えてるよね?
いっつも手を繋いでもらってるしよく頭撫でてもらってるし。
抱っことか…恥ずかしいけど、してもらってるし。
「…うん、お母さん大好きだよ」
よく分からないけど、私はそう言った。
お母さんはえ?と言う顔をしたけど、すぐににっこり笑って
「お母さんも、悠里ちゃんが好きよ」
と言った。