全てを忘れれば幸せになれるわけではなくて、必要なのは今誰といるか
「この顔は醜い」
「そんなことは……」
初対面の人にそんなことを言われても返答に困る。言いよどんだ私に、その人は表情をゆがめた。笑ったのかも知れない。
「いいんだ。この顔は、僕から全てを奪っていく。とうとう居場所すらなくなって、この魔法界にきたんだ。初めに会ったのが君のような人でよかった」
「ここの人は、みんなそうですよ。あの場所にいたら危ないもの。私でなくても誰かが声をかけました」
部屋に案内すると、彼はありがとうと言った。
「日が暮れると危ないと言っていたのは、何かが来るのかい?」
「えぇ。ここは、もっとも悪魔と近い場所といわれています。魔法界に来た悪魔はまず初めにこの地に下りる、と。だから、夜は扉を閉めて、悪魔よけをした家の中に閉じこもるんです。そうでないと、私たちでは悪魔に勝つことはできないから」
「そうなんですか」
「でも、ここ何年も悪魔が通ったっていう話は聞かないんですけどね」
悪魔については私も良く知らない。だから詳しく聞かれても分からないことだらけだ。ただ一つ。悪魔に魔法で勝つことはできないということしか知らない。
「貴女みたいな人に出会えてよかった」
「え?」
「是非、僕と一緒に来てください」
「何を……」
「セリー? セリシア!」
扉の外から私を呼ぶ声が聞こえる。
「アル? どうしたの?」
「今すぐ部屋から出るんだ! そいつは……悪魔だ」
思わず、悪魔といわれたその男を私は凝視した。
「ばれてしまったか」
「悪魔……」
「大丈夫、貴女を悪いようにはしない」
優しく静かにその悪魔は言う。
「どうするつもり?」
「僕の恋人になって欲しいんだ」
「いやよ!」
「そうやって、僕の醜さからみんなが遠ざかっていく」
違う。貴方の醜さなんて関係ない。私が好きなのはアルベルトだけだ。
そう言おうとしたが、声が出なかった。
身体が震える。立っているのがやっとだ。
悪魔を家に入れてしまった。ここから逃れることはできるのだろうか。
「どのみち、君は僕と一緒に来るしかないよ。君の恋人、殺されたくないだろ?」
「……卑怯だわ」
「悪魔だからね」
「私は彼を愛してる」
「だから、君は僕と来る。そうだろう?」
外からは私を呼ぶ声がする。ドアノブをガチャガチャとして、開かないのだろう。彼はこの部屋に入ることが出来ない。
「私はどうなるの?」
「君は眠る。そして、僕の作った世界で一緒に暮らすんだ」
あぁ、まるでこの間話していた悪魔の話みたい。その悪魔に気に入られた娘は、二度と目を覚ますことは無いのでしょう?
全く気がつかなかった。本当の話だったとしても、まさかこんな形で出会い、罠に掛かるなんて……思ってもみなかった。
でも今は、この悪魔に捕まるしか助かる方法はない。
「アル」
「セリシア! 早く出てこい!」
「あの約束、覚えてる?」
あの約束。
《もしもその悪魔のせいで君が寝てしまったら、僕は起こす方法を探しながらずっと傍に居るだろうな》
あの言葉があれば。
「何を……」
「待ってるから」
「やめろ、セリー!」
叫ぶ声が聞こえる。
でも、私にはこれしか選択肢がない。悪魔とまともに戦って勝てる魔法使いなんて、聞いたことがないから。
黙って私は醜い悪魔の手を取った。一筋の涙が私の頬を流れていく。
「待ってるから……」
もう一度呟いて、私の意識は途絶えた。
「……」
目を開いた。頬には熱い涙が乾かずに残っている。
今まで忘れ続けていた夢を、今日は覚えていた。
そして全て思い出した。ここがどういう場所で、どうしてここに連れてこられ、そして自分が誰であるのか。
窓のない部屋。外の風景など、もうずっと見ていないことにも気がつけなかった。
「おはよう」
あの悪魔(人形)――いや、ただの人形が話しかけてきた。
「おはよう」
「今日も泣いてた、大丈夫?」
目元をぬぐって、何度も頷いた。
この声だ。
ずっと待ってた。来てくれるのを信じてた。
「アル?」
「……思い出した?」
「えぇ、やっと思い出せた」
「こんな姿だけど、遅くなってごめん」
「いいえ、絶対に来てくれるって信じてた」
「言っただろう、僕はいつだって君を愛してるって」
そう、今なら思い出せる。
毎晩夢に出ては、私に愛してると言ってくれていた。
ようやく帰ることができる。
「もうここに居る必要は無い。私は帰りたい」
私たちの本当の家へ。
ここは、悪魔の城なのだ。全く信じていなかった、西の果ての物語。その悪魔があの男だった。
悪魔についての本なんて、あの部屋にあるはずないんだ。だって、持ち主自身が悪魔だったのだから。
帰るにはどうしたらいい?
「貴方はどうやってここに?」
「ここは奴が魔法で作った空間の中だ。長いこと完璧に隠されていたここに、綻びができた。そこに、僕が意識を飛ばしている。つまり、生身の僕はまだ君の隣で寝ている」
「じゃあ、扉の外に出れば案外簡単に出られるかも知れないのね」
「どうだろう。僕がここに居ると気づかれたら、きっとすぐに追い出されるだろうけど。逆に君に関しては厳重に出られないように仕掛けられているかもしれない」
悪魔と魔法使いでは、圧倒的にこちらが不利だ。
悪魔のほうが歴史が長い。技術も力も向こうのほうが上。
だから、真っ向勝負はやってはいけない。
相手のテリトリーならば、尚更だ。
「とにかく、外に出なくちゃ」
ここから出ればきっと、私は目を覚ますことができる。時間はいつもより少し早い。
あの悪魔は朝ごはんを準備している頃だ。
気づかれることなく抜け出せるかもしれない。
朝ごはんを何食わぬ顔で一緒に食べて、出かけるのを待つという手もあったけれど、これ以上ここに居たくなかった。
記憶を消されて悪魔を好きだと思い込まされるなんて誰が予想できる? それなら、無理やり従わされるほうがマシだった。
特に準備もせずに、ベッドから出た私は階段を駆け下りて扉へと向かう。
木製の、大きな扉。
そこについている金色のドアノブに手をかけた。
冷やりとしたそれは、けれどびくともしない。
「……開かない」
「どうしたんだい?」
身体が硬直した。背筋を冷たいものが走る。
毎日、絶対にあけないと約束し続けた扉を、私は今開けようとした。
開かないのは当然だ。彼は私が逃げないように、出てはいけないと言い続けたわけではない。私の洗脳が解けていないことを確認するために、あのやり取りを繰り返していたのだと、今この瞬間に理解した。
私がドアノブに触れると、それが彼にわかるように魔法が掛けられていたのだろう。まんまと引っかかってしまった。始めからこの扉は彼にしか開けられないのだ。
「まさか、外に出ようと思ったとか?」
「……っ!」
振り向いて見た彼の姿は、いつもの彼とは違っていた。いや、彼の姿を覚えていなかったことに気づいた。どんな姿をしていたのか、全く思い出せない。
目の前にいる彼は、猫背で顔に傷があり、右目が潰れていて皺だらけ、左の輪郭が歪んでいて醜い。そう、私は彼を見たことがある。
「ずっと、私に魔法を掛け続けていたの?」
「魔法? 何のことだい?」
「全部思い出したの。私は貴方を家に泊めて、それで罠にかかった」
「罠に掛けたなんて、人聞きが悪い。僕が君のことを気に入ったから、一緒にいられればと思っただけだ」
「私の意見を無視して?」
「君も、僕と居て幸せだったろう?」
洗脳されていた状態で、幸せも何もない。
「貴方と幸せなんて、ありえない」
「酷いなぁ。でも、君はここから逃げることはできない。君たち魔法使いに、悪魔を倒すことはできないだろう?」
「っぐ……」
片手で首を絞められて、苦しい。
「君のことが好きだ。優しい君。何の見返りもなく、他人のことを心配できる君。ずっと僕と居れば、何も不自由はない。どうして僕を選ばない? 僕が醜いから? 醜いだけで、何もかもが僕を遠ざけるのか?」
その言葉を、私は知っていた。
あの日記に書かれていた言葉だ。
やっぱりあれは、この悪魔のものだったんだ。
今なら分かる。あの日記は古代文字だった。今ではほとんど使われていないその言語を、あんなにも普通に使っていた。きっとこの悪魔は、気が遠くなるほどの長い時間、虐げられていたのだろう。その醜さゆえに。
ずっとずっと、誰かを求めて。それでも孤独に生きてきたに違いない。
そうして結局悪魔たちに追い出されて、魔法使いの町で私と出会ったのだ。
責めることはできない。けれど、このやり方は間違っているのだ。
「悪魔は、自分の名前を呼ばれて命令されると、従わなければならない規則がある。それは、下級であろうと上級であろうと関係ないよ」
いつの間にか、人形のアルベルトがいた。宙に浮いて、私の傍にいる。
きっと、悪魔に関して色々と調べてくれたんだ。
でも、彼の名前なんて……。
「彼女にちょっかいを出した人形は、君か」
「アル!」
醜い悪魔によって吹き飛ばされた人形が、壁にぶつかり落ちる。
「なるほど。よく僕に見つからないように忍び込んだね」
感心したように言って、悪魔は私に続けた。
「人形を見つけたら僕に教えてくれる約束だったのに、破ったのかい? あいつは悪魔だよって言ったのに、信じてくれなかった?」
違う。
信じようと思ったが、それ以上に混乱する要素が多すぎたんだ。
反論しようとしたが、近づく悪魔に気圧されて言葉が出なかった。もう、手を伸ばせば届く場所にいる。
「不自由のない生活と優しい恋人、何も不満は無かったはずなのに、何故君は逃げようとするんだい? 本当の僕が醜いから? それなら今度はもっと君の好みの顔になろう。あの人形、いやあの魔法使いか、居場所は今も変わってないだろう? このまま殺してしまった方が君も僕の傍に居やすいかな」
「違う。顔とか、そうじゃない。私が好きなのはアルだけだから」
だから、貴方の傍にはいられない。
そうか、と呟くと彼は私の首を締め上げた。
「どちらか選ばせてあげるよ。今ここで僕との生活をとるか、死ぬか」
そんなの、どちらも選ぶわけにはいかない。
「私を……ここから、出して」
「そんな選択肢、与えてないはずだけどなぁ」
「オルファン!」
「え……」
空間が、ぐにゃりと曲がった。
自分が立っている場所が消えて、消滅する。残ったのは、真っ暗な場所に私と悪魔だけが存在する空間。首から手を離されて、軽く咳き込んだ。
「なんで……僕の名前を……僕は一度も名乗ってないのに……」
「っ、貴方の日記を読んだわ」
その表紙に律儀に書かれていた名前を思い出す。
「日記……あれは、別のところに隠してあったはずだ」
「でも、本の部屋で見つけたの。醜さから才能があるのをねたまれて、どんどん卑屈になっていったのね」
「うるさい! そうさ、僕は何でもできた。誰よりも勉強が出来たし魔法だって使えた!」
「なのに、貴方は孤独だった」
「あぁ、この顔のせいで親にも疎まれて。誰も僕を相手にしようとしてくれない。君だけだ。生まれて初めて君は僕を見てくれた」
「だから私を監禁したの?」
少し語気を強くして聞いた。それに彼は項垂れて答える。
「……初めは、ほんの少しの間のつもりだった。ほんの少し一緒に居られればって」
「百年以上をほんの少しとは、私たちは言わないわ」
「誰かと一緒にいることなんてなかったから。楽しかったんだ、毎日が。たとえそれが偽りでも。僕を見てくれる人がいて、僕はその人を全力で守って……。でも、最近になってまた寂しくなってきた」
その寂しさが、魔力の弱まりにつながったのだろう。
そうでなかったら、私は今も操られたままだ。
「それは、私が本当の貴方を見ていなかったから。貴方も本当の私ではなくて、貴方の理想の私を見ているだけだった」
そう、私のことを知ろうともしなかったし、貴方のことを教えようともしなかった。
偽りだらけの関係が長く続くはずがない。それでも百年もできたのだから、大したものだ。
こんなところで関心しても仕方ないけれど。
「……っ!」
私は近づいて、彼を抱きしめた。
曲がった背中を優しく撫でて、静かに言う。
「悪魔の世界に帰れとは言わない。それでは、貴方はまた同じ目に合う。でも、きっと貴方を受け入れてくれる場所がある」
「……君の百年と少しを奪ってしまって、悪かった。楽しかったから、本当はこんなことしてもって思うこともあったけど……。本当に、楽しかったんだ。ごめんね」
彼が最後の一言を言い終わると、ぎりぎりのところで崩壊を免れていた世界が白くなった。遠くなる意識の中、最後に言ったありがとうは伝わっただろうか。
目を覚ますと、高い天井があった。鉛のような身体を動かして、顔を横に向けると傍らに良く知った彼が椅子に座っていた。
飛びつきたいのに、これ以上私の身体は動かない。
その人は、私が起きたことに気がついて瞳に涙を浮かべた。
「お、おはよ」
「……おはよう。もう一度言うけど、遅くなってごめん」
「ううん、ありがとう。また貴方に会えて、嬉しい」
私の、大事な恋人。
「ごめんね、起き上がれなくて」
「すぐに体力も戻るよ。君は百年以上眠り続けていたんだから」
動けなくて当然さ、と苦笑交じりに言われた。
「何か食べたいな」
「何でも準備するよ」
「じゃあ、チキンのトマト煮!」
「それはもう少し体力が戻ってからだな。まずは消化のいいものを作ろう」
張り切って立ち上がる彼の後ろ姿を見送った。
やっと戻ってくることができた。嬉しいのだが、どうにも喜びきれなかった。
あの醜い悪魔は、どうしたのだろう。
しばらく私は、あの悪魔と日記について考えていた。
数ヵ月後。
体力も戻って、漸く歩くことができるようになってきた。最近では朝の散歩に出ることが多い。
もちろん、彼も一緒についてきてくれる。
「私が寝てる間に、かなり変わってるかと思ったのに、あんまり変化がないわね」
「そりゃあそうさ。僕らの寿命は長いんだ。そう簡単に世界は変わらないよ」
「つまらないのー」
少しずつ行動範囲を広げて、以前との違いを見て回っているのだが大きな変化が見られない。違うことといえば、どこそこの家の家族が増えたとか、誰かが引っ越して違う人が暮らしているだとか、そんなことだ。
それでも何か変化を見つけたくて、キョロキョロしながら歩き続ける。
「あら?」
ふと、すぐそこで新聞を読んでいる人が目に入った。いや、正確には新聞に目がいった。
魔法界が発行している新聞の表紙、大きな見出しになっているのは一人の男性だった。
『新たな医療魔法体系のきっかけか!?』
読めたのはその大きな文字だけだったが、男性の顔に見覚えがある。
醜くはない。
けれど、確かに百年以上毎日見ていた顔だ。
もう二度と思い出すことが出来ないと思っていた顔。
「どうした?」
「……ううん、なんでもないの」
そういって、笑ってごまかした。
すがすがしい朝の空気を大きく吸って、空を見る。
帰ったら、たまには新聞を読んでみるのもいいかもしれない。
そんなことを思いながら。
―Fin.―
短い連載にお付き合いいただき、ありがとうございました^^
タイトル通りのお話過ぎて肩透かしを食らった方もいるかもしれませんが。。。
一人でも多くの方の心にひっかかるものができたなら、本望です。
チキンのトマト煮、食べたい。
ではまた、どこかで。