物事を思い通りに進めるための悪魔の言葉
町を歩いていた。
買い物をした帰り道。夕飯の材料を籠にいっぱいに詰めて、足早に家へと向かっていた。
そこで、道の片隅に誰かがうずくまっているのが見えた。
この辺りの人は、ほとんど顔見知りで知っているが、その人は見たことが無かった。顔を膝にうずめて座り込んでいるため男なのか女なのか判別がつかなかったが、来ている服からして男だと思った。
夕暮れ時で、そろそろ夜がやってくる。この辺りで夜に外に出ているのは、少し危険だ。町の人の暗黙の了解を知らないとしたら、この人は大変な目に合うかも知れない。闇の世界と一番近い場所にあるこの町では、夜には悪魔が徘徊することがある。
そう考えた私は、彼に声を掛けることにした。
「あの、もうすぐ夜が来ます。外に居るのは危ないですよ。もしも他の町からいらしたのなら、どこか宿に泊まった方が……」
そこで、彼が顔を上げた。
その顔を見て、息をのむ。
「僕のこの顔では、誰も相手にしてはくれない」
しゃがれた声で言う男の顔には、大きな傷があり左目が潰れていた。さらに、右の輪郭が歪んでいてしわくちゃだった。
一言で言ってしまえば、醜い顔。
「それなら、私の家で一晩過ごされてはどうかしら。一緒に住んでいる彼には私からお願いするわ。どちらにしても、夜までこの辺りに居るのは危険だから……」
「貴女は、とてもいい人ですね。ぜひ、僕の恋人になって欲しいな」
「え……」
「冗談です」
よっこらせと言いながら立ち上がった男の背中は曲がっていた。身長も私と比べたら低い。
右足を悪くしているようで、少し引きずりながらだったが日が落ちる前には家に着くことができた。
扉を開ければおかえりという声が返ってくる。抱きついて、キスをして、さっきの男を紹介する。彼は、その姿に目を見張ったものの、すぐに驚きを消して挨拶をした。
「空いている部屋があるから、そこを使ってもらおう」
「案内するわ、こっちよ」
何も知らない夢の中の私は、男を連れて二階へとあがった。
次の日の朝ごはんは、いつもとは少し違っていた。
いつものように準備をして下に行くと、少し怒ったような彼がゴミ箱を見つめていた。その中には、昨日落として食べられなくなってしまったビーフストロガノフが入っている。
「どうして昨日のご飯、食べなかったんだい?」
「あ……。ごめんなさい。私、温めすぎてしまって。うっかり落としてひっくり返してしまったの」
「じゃあ、昨日のご飯は一体誰が作った?」
「わ、私よ?」
「ふーん」
彼に本当のことを言ってしまえばいいとも思う。知らない人形が私の夕飯をこぼしてダメにしてしまったって。
でも、それだけはしてはいけない気がする。何故かは分からないけれど、私の直感がそう告げていた。
ごめんなさい。
「ねぇ、最近変わったこと無かった?」
「変わったこと? いいえ、特に無いわ」
「本当に?」
「ほ、本当に」
「例えば……そうだな。見覚えのない何かを見かけたとか」
「何かって?」
ヒヤリと背中を冷たい何かが駆け抜けた。
本当は知っているの?
私が人形と話しているの、見られていたの?
刺さるような視線が私を観察しているのが分かる。こんな彼は見たことなくて、少し怖い。
「うーん、小さな人形……とか」
「……」
ハッキリと、顔が青ざめたのが分かった。
冷や汗なんて、長いこと掻いていなかったのに握った手がやけにべた付く。
何か言わないと怪しまれる。
そう思うのに、声が出なかった。
空気が重たい。
嘘つきと思われているのかも知れない。人形のことは、とっくにバレているんだ。そうでなければ、小さな人形がこの家に来たことなんて、当てられるはずない。
分かっていて聞かれているのなら、嘘を突き通しても仕方がないと思った。
「見たんだね?」
確認をする彼の言葉に小さく頷いた。
それを見て、彼は大きくため息をついた。
呆れられた?
それとも、嫌われた?
嘘をついていたこと、怒ってる?
怒鳴られるかもしれないと思わず目を瞑ったけれど、彼は私の頭にそっと大きな手を乗せて優しく撫でた。
「そっか。大丈夫? 怖いことされなかった?」
「え……」
驚いて目を開くと、心配している彼と目が合った。
「それは多分、悪い悪魔だ」
「悪魔?」
「うん」
彼は顎に手をやって、何やら考えている。
「あの、黙っていてごめんなさい」
「いや、僕も気がつかなくてごめんね」
「悪魔って、何?」
「ここからずっと遠くに悪魔の国があるらしい。そこの悪魔は人間と同じように普通に生活をしているんだけど、最近人間の世界で悪さをする奴が増えてきているみたいなんだ」
「悪さって、どんな?」
「騙したり、怖がらせたり、怒らせたり。悪魔は人間の負の感情が好きだから、それをわざと刺激して遊ぶんだ」
じゃああの人形も私のことを騙そうとしていたの?
そんな風には見えなかったのに。
「君が見た人形、次に見かけたら僕に教えてね。退治するから」
「分かった」
あの人形が悪魔だったなんて、信じられなかった。
確かにいつも突然出てくるから、その度に驚かされていたけれど悪いことを企んでいるようには見えなかったのに。
納得いかない表情の私をクスリと笑って、彼は席についた。
「お腹空いちゃったね。ご飯を食べよう」
確かに、話をしていたらかいつもより少し遅くなっている。空腹だから気持ちが追いつかないんだ。
私も席について、彼に続いていただきますと挨拶をした。ハムエッグを口に入れる。
「あら?」
「ん? どうしたんだい?」
「あ、ううん。何でもないわ」
「そう?」
「えぇ。今日もご飯美味しい」
「そう言って貰えると、安心するよ」
嘘だった。
いつもはあんなに美味しいご飯が、何故か今日はあまり美味しくない。ちょっと味が薄いのだろうか。何かが違うけれど、明確にはいえない。
そんな微妙な違いだ。
でも、こんなことは初めてだった。頑張ってフォークとナイフを使って食べ続ける。
あの人形――いや、悪魔の仕業かもしれない。
悪魔の作ったものなんて食べたから、少し味覚がおかしくなっているんだ。
そう無理矢理納得しておく。
これ以上、彼に心配をかけてはいけない。ただそれだけを思って口を動かした。
「いいかい。決して外に出てはいけないよ?」
「えぇ、分かっているわ。出ようなんて考えたこともないもの」
「悪魔が出ても、話に耳を貸してはいけないよ。そうすれば、君に危険はないはずだから」
そう言い残して、彼は出かけていった。
悪魔の話以外は、いつもと変わらないやり取りだったのに。私の気持ちはいつもと違っていた。
どうして?
どうして外に出てはいけないの?
この家で生活をしていて初めて、不思議に思った。それをすぐさま頭の中から打ち消す。
これも悪魔の仕業?
私、おかしくなってしまったの?
混乱して、不安が大きくなった。彼が仕事に出てしまったからかもしれない。
悪魔のことを知らないから、不安なのだ。昨日初めて悪魔の存在を知らされて……。
そういえば、悪魔が本当にいるという話をされても、私はあんまり驚いていなかった。
どうして?
あの人形が悪魔だったってことのほうがショックだったから?
だんだんと、何を考えているのかさえ分からなくなってきた。
一度、落ち着こう。
そうだ、悪魔に関する本を読んでもっと彼らに関する知識を身につければ、こんなに不安になることもないはず。
昨日彼が買ってきてくれた戯曲を読むつもりだったけれど。
私は本を求めて二階に向かった。
本棚が並ぶ大きな部屋は、実はいまだに隅から隅まで見ることができていない。初めは本棚の右上から順に読んでいたのだが、途中で飽きてしまってランダムに選ぶようになった。
悪魔に関する本、あるとすればまだ見ていない本棚のはず。そう思って部屋の奥へと進んでいく。
背表紙を眺めて悪魔という単語を探した。
けれど、中々見つからない。
悪魔が出てくるファンタジーは沢山あったのに、悪魔に関する書籍はどうやら置いていないようだ。
少しでも悪魔の世界について分かりたいと思ったのに、残念だ。
諦めて違う本を探そうと思ったとき。
「何かしら、これ」
くもの巣を取り除いて、埃を払った未攻略の本棚に薄い本とは違うものが入っていることに気づいた。数冊を一気に出してみる。
それは、古びたノートだった。一冊目の一ページ目を開くと、いつもとは違う言語で文字が殴り書きされていた。
学んだ覚えの無い文字。それなのに、何故か私には内容が理解できる。
誰かの日記のようだ。
学校でテストが帰ってきた。成績は全て満点。あんなの簡単だった。間違えるほうの気が知れない。なのに、みんな僕のことを褒めてもくれない。先生も、機械的に紙を渡しただけ。友達は、いないからテストの見せ合いなんて出来なかった。お父さんもお母さんも、頭はいいのにねぇって。みんな、僕の顔を見るのが怖いんだ。醜い顔。どうして僕は醜いの?
悲しい日記だった。
全てのベージで、自分の醜さを悲しんでいる。そして、全てを醜さのせいにしていた。
書いた本人は、どんな姿をしていたのだろうか。私はページをめくる。
学校で喧嘩になった。
隣の席の子が落としたチョークを拾っただけだったのに、触ったからって新しいのを買えだって。それを発端に色々関係ないことまで言われて、気がつけばクラス全員を敵に回してた。先生ですら、僕の味方につこうとはしない。
醜い僕はいつだって一人ぼっち。
この世界で、僕の周りはきれいなものばかり。僕だけが醜い。
僕に弟ができた。醜くない、普通の状態で生まれた弟。父さんと母さんは、弟に付きっきりだ。生まれたばかりの弟を僕も抱っこしたかったのに、お前はダメだと遠ざけられてしまった。醜いのが移るなんて、そんなことあるわけないじゃない。二人が起きている間は近づくことも出来なかったから、寝静まったところで赤ちゃん用のベッドに近づいた。そうっと入ったのに、僕の気配に気づいたみたいで、近づくと目を開けてしまった。まずいって思ったけど、特に泣くことはなくてまだ見ていても大丈夫みたいだった。小さくて皺の残る手に指を近づけた。父さんがやっているのを真似してみたかったんだ。なのに、その手はパチンと払われてしまった。赤ちゃんにすら避けられたような気持ちになって、思わず首根っこをつかんで力任せに吹き飛ばしてしまった。ちょうど、様子を見に来た父さんがキャッチして、弟が死ぬことはなかった。父さんは僕を冷たい目で睨みつけた。
何故僕を叱らないの?
僕、悪いことしたのに。
自分の弟を危うく殺そうとしたのに。
父さんも母さんも、何も言わない。
ただただ冷たい目で僕を見るだけだ。
誰も僕を見てはくれない。
弟は、僕よりも頭が悪い。成績は下から数えたほうが早かった。僕は教えてあげるといって見たけど、兄さんなんかに教えてもらわなくたって出来ると跳ね除けられてしまった。
弟は、僕が赤ん坊の頃に放り投げられたことをしっている。だからきっと、僕を憎んでいるに違いない。
弟に彼女が出来た。僕は好きな子と手をつないだことすらないのに。成績の悪い弟は品行も悪くて粗野だ。なのに、人が集まってくる。
どうして僕を選ばない? 僕が醜いから? 醜いだけで、何もかも僕から遠ざかるのか?
もう、この世界にはいたくない。
孤独な世界で邪険に扱われ続けるのはつらい。
僕はどうしたらいい?
日記はまだまだ続いていた。
淡々とつづられている日もあれば、単語しか書かれていない日もある。けれど、総じて己の醜さに対する嫌悪と諦めがにじんでいた。
私は改めてノートの表紙を見た。全てのノートに、同じように名前が入っている。
それら数冊を抱えて、私は自室に戻った。
悪魔の話なんて忘れて、夢中になって一字一句逃すことなく読み終えた。
これは、誰の日記?
普通に考えれば彼の……だけど、醜い?
彼は醜くなんてない。
弟が居ることも知らなかった。
ううん、違う。
何も知らない。
私は彼の、何も知らない。
違う、そんなことはどうでもいい。
私が好きなのは彼なんだもの。家族構成なんて、どうでもいいはず。
頭を左右に大きく振って、変な考えを振り払った。
下で扉が開く音がする。彼が帰ってきたんだ。
「お帰りなさい」
「ただいま。今日は悪魔に出くわさなかった?」
「えぇ、見ていないわ」
そういえば、見ていない。
日記に夢中になって、途中から忘れてしまっていた。結局悪魔に関することも分からずじまいだ。
「すぐに夕飯の準備をするから」
「えぇ」
シャツを巻くってキッチンへ向かうその姿を目で追った。醜くなんてない。彼が卑屈になる部分なんて、見つからない。
あの日記はむしろ、彼のお兄さんのものだったのではないかという気がしてくる。
お兄さんが醜くて、でも弟は確か粗野で頭が悪い人。
彼はそんなことない。
分からない。あの日記は誰のもの?
「日記を見たの」
そう言ったら、彼はどんな反応をするのだろう。
知りたい。
でも、知りたくない。
結局、何も聞けないまま夕飯が出来上がった。
今日のメニューは、ビーフストロガノフ。
いや、今日のメニューも、ビーフストロガノフ。
昨日もこれだった。食べられなかったけれど。
そして、なんとも言えない味だった。一言で言えば酷い。
味がしないどころか、灰を食べているような気分になる。お世辞でも美味しいとは言えない味。
どうして?
いつも美味しく食べていたじゃない。
食べようとスプーンにもう一度掬ったけれど、それ以上食べる気になれなかった。
分からないことが多すぎて、頭痛がしてきた。
「どうしたの? 美味しくなかった?」
「ごめんなさい。少し頭が痛くて……」
「大丈夫? 気づかなくてごめんね」
「いいえ。今日はもう休んでしまってもいいかしら」
「あぁ。熱はない?」
「えぇ。寝れば治ると思うから」
「そう。暖かくして寝るんだよ、お大事にね。おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋に戻って布団をかぶった。
こんなことは初めてだ。頭が痛くなったことなんてない。ご飯が美味しくなかったこともない。
「大丈夫?」
「……」
もう姿を見なくても分かる。悪魔(人形)が話しかけてきたのだ。
見つけたら彼に報告をするって約束だった。
でも、もう身体を動かしたくない。
それに今、何となく会いたくない。
会いたくないなんて思ったことないのに。
彼の作るご飯はとても美味しかったはずだ。
今日はたまたま同じメニューが出てきただけ。昨日私が食べられなかったから用意してくれたんだ、きっと。
そう思うのに、違和感を感じる。
「……どうして」
「君は今、混乱しているんだ」
その通りだ。私は今、混乱している。
「どうして、あんなに懐かしいんだろう」
思い返すと、涙が出そうになる。この人形が現れてから、私の生活は乱れてしまっている。
「チキンのトマト煮、美味しかった」
「ありがとう」
「彼のご飯がね、美味しくなかったの」
「そうか」
悪魔(人形)を相手に、何を言っているんだろう。
相談すべきは彼のはず。
だけど、私の口は止まらない。
「美味しいはずなのに。彼の作るご飯が美味しくないはず無いのに」
「大丈夫、もうすぐ分かるから」
「それに、外に出てはいけないのはどうしてかな、なんて考えてしまった」
「……」
「そんなこと、考えたこともなかったのに。何でだろう。違和感があるのに、それが分からないの……」
どうしたらいいのか、分からない。
スッキリしない思いだ、頭が痛い。昼間見つけた日記が、更に私を混乱させているのかも知れない。
「あなた、悪魔なんでしょう?」
「僕が?」
「そう彼が言っていたわ。次に見つけたら彼に教えるとも約束した」
「じゃあ、僕を彼に突き出してみる?」
「そうしなきゃいけないの。でも、したくないの」
「良かった」
表情の動かない悪魔(人形)からは、声でしか気持ちが伝わってこない。でも、少し喜んだのかも知れないと思った。
「日記を見つけたの」
「日記?」
「そう、誰のものか分からない日記。醜くて、卑屈で可哀想な少年の日記」
「……」
「普通に考えれば彼のものなの。でも、今の彼と全然イメージが違うし、兄弟が居るなんてことも知らない。貴方が出てきてから、違和感があることばかり。でも、その違和感の正体すら分からない」
頭が痛くなるほど悩んでいるのに、答えは出そうにない。
「大丈夫、もうすぐ思い出せるから」
「思い出す? そう言って、私のことを混乱させて楽しんでいるの?」
「違う。君はあいつに騙されているんだ」
「彼のこと、悪く言わないで。彼は、私の大事な人なんだから!」
「君がそんなことを言うなんてね」
「当たり前でしょう。彼は私の恋人よ?」
「じゃあ、あいつの名前知ってるの?」
「え……」
「ほら、言えない」
彼の名前?
確かに、聞いたことがない。それに……。
「今の君は、自分の名前すら分からないはずだ」
「私の……名前」
知らない。
私は、私が誰であるのか分からない。
「僕は君の名前を知っている。本来こんな場所に居るはずがないことも、元の家だって分かる。でも、それを教えてしまっても君にはピンと来ないはずだから」
ワタシハ、ダレ?
アナタハ、ダレ?
「私、どうしたらいい?」
「何もしなくていい。君はもうすぐ思い出せるから」
だから寝てしまえばいい。
そういわれて、意識が遠のいていくのが分かった。急速に意識が遠のいていく。
「おやすみ」
最後に言われたその言葉と声が、とても懐かしく感じた。