覚えているはずなのに思い出せない、日常のちょっとしたこと
「お、今日はチキンか」
「そうよ、チキンのトマト煮が食べたいなぁって思って」
「そりゃ、楽しみだ」
「作るの好きでしょ?」
「え、僕が作るの?」
「そ。材料は全部買ってあるからね!」
仕方ないなぁと言いながらも、嬉しそうに材料を出す彼。
彼のご飯は美味しい。何を作らせてもまず外れることがないのだ。対する私は料理は苦手。特に、いつ味付けをするとか鍋に入れるタイミングとか、全然分からない。本当は彼だって、私が作るなんて思ってなかったに違いない。
「材料を切ったりするくらいならするよ?」
「じゃあ、玉ねぎは僕が切っちゃうから、そのあとから切ってもらおうかな」
「分かったわ」
ご飯を作るのは楽しい。二人なら、尚更だ。
玉ねぎをさっさと切った彼は、フライパンで炒めはじめている。私はまずチキンから切っていく。
「指、切らないでね?」
「もう、昨日は私が作ったじゃない!」
「うん、それでお皿割ってたよね」
「そうだった? 覚えてないなぁー」
そ知らぬフリをして包丁を使う。
楽しい時間。
彼といれば、何だって楽しくなる。一緒にやれば、終わった後の達成感も二倍だ。だから、料理も掃除も洗濯も、運動するのだって好き。
そもそも身体を動かすのが好きな私は、家に閉じこもっているのも苦手。それに彼は付き合って、一緒にやってくれる。
赤ワインで乾杯をして、出来上がった料理を楽しく食べる。こんなに楽しい時間を、どうして私は忘れてしまうのだろう。
また食べたい、あの料理。
誰かも分からない彼と一緒に……。
目を開けようとすると、目じりがパリパリとして開きにくかった。指で擦って固まった目やにを取り除く。
「今日も泣いてた」
「また貴方ね」
いきなり声を掛けられるのも、大分慣れてきた。人形は昨日と同じ様に私のベッドの傍らに座っていた。
「どんな夢だった?」
「……覚えていないの」
答える必要なんてないのに、言ってしまった。聞いて欲しかったのかも知れない。
「夢を見ていたのかさえ分からないわ」
「そうか……」
身体を起こして支度をする。人形はもう何も言ってこなかった。部屋を出るときに振り返ってベッドを確認すると、その姿はなくなっていた。
服を着替えて彼と一緒に朝食を食べて。
あっという間に彼が家を出る時間。
「いいかい、決して外に出ようとしてはいけないよ?」
「分かっているわ。出ようなんて、考えたこともないもの」
「それじゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
「あぁ、そうだ。言い忘れるところだった」
扉に手を掛けた彼が、突然振り返った。
「今日は少し遅くなりそうなんだ。お皿に盛り付けて夕飯は準備してあるから、冷蔵庫から出して暖めて食べてね」
「分かったわ、ありがとう」
それじゃあと言って、彼は行ってしまった。
たまに帰りが遅くなることがある。そういうときにも彼は夕飯の準備までしてくれて、私が困らないようにと気遣ってくれる。
少し寂しいと思わないことも無いけれど、明日の朝にはまた会えるのだから我侭は言っていられない。
「今日は何を読もうかなぁ」
わざと自分を元気づけるために、明るく呟いて本の部屋に向かった。
気がつけば、いつも夕飯を食べている時間を過ぎていた。それが分かると、とたんにお腹が空いてくる。読んでいた本は、あと少しで読み終わる。寝る前の楽しみに取っておいて、まずはご飯を食べよう。
ダイニングに行き、冷蔵庫からお皿を出した。
今日はビーフストロガノフだ!
彼のご飯は何でも美味しい。空腹感が強まるのを感じながら、お皿をオーブンレンジに入れた。時間を設定して、温まるのを待つ。
ピーという音が鳴って、扉を開けると美味しそうな匂いがしてきた。
「そのご飯、美味しい?」
「えぇ」
彼の作るご飯は何だって絶品だ。
「いつも同じでも?」
「同じじゃないわ」
即答した。いつも同じなわけないじゃない。そうよ、昨日は確か違うメニューだったもの。そう思うのに、言葉が続かなかった。
……昨日のお夕飯、何だったかしら?
どうしてだろう、全く思い出せない。
お皿を持ったまま立ち尽くした私に、突然人形がぶつかってきた。
「きゃっ!」
人形が自分で動いたことだとか、宙に浮いて飛んできたとか、そんなことよりも、彼の作ってくれた料理を落としてしまったことのほうが私には衝撃だった。
「ちょっと、何するの!」
折角彼が私のために作ってくれたのに! お皿の中身は全て床に出てしまった。これでは流石に食べることができない。
「心配ないよ。僕が作ってあげる」
「人形の貴方が?」
人形が作れるわけ無いじゃない、とはいえなかった。
人形は、いつものようにどこかに座って話しかけているのではなかったから。宙に浮いて、私と同じ目線で言う。
これが魔法?
実際に見ていても信じられない。
どこかにタネがあるのだろうと、見えない糸を無意識に探してしまう。
「そう。人形の僕が。でも、僕が作ったとは言ってはいけない」
「じゃあ……」
「君が作ったことにすればいい」
でも、と続けようとしたけれど彼は強引に
「三十分くらい本でも読んで待っててよ」
と言った。
空腹のまま寝るのも嫌で、三十分読み終わっていなかった本を読んで待つことにした。
そして三十分後。
テーブルの上には、チキンのトマト煮が乗っていた。
いい香りが鼻を擽って、忘れかけていた空腹感が蘇ってきた。
「召し上がれ」
「……いただきます」
スプーンで簡単に崩れるチキンと濃厚なトマトのソースをすくって、口に運んだ。
「美味しい」
「良かった」
「美味しいのに……」
何故だか涙が出てきた。美味しいし、何も泣く要素なんてない。
彼の作ってくれたご飯のことをまだ気にしているのか。
いや、違う。
初めて食べたはずなのに、何故だか懐かしい味がするのだ。ずっとずっと、私はこれを食べたがっていたんじゃないのか?
「どうして……」
「泣くほど美味しかったんだね。大丈夫だよ。気にしなくても、その時は必ず来るから」
人形の言うことは良く分からなかったけれど、それから私は無言で食べ続けた。