第3話 「あの故人」って誰よ?
「いくつかと言っても、ひとつしかないですね」
わたしの作ったメモに目を通しながら、所長は言った。
「思い当たった故人とは、一体どなたのことでしょう?」
ずばり事件の犯人となる悪霊だ。
開始早々に犯人判明とは、普通の探偵なら考えられないが、DBASでは十分起こり得る。あくまで、犯人の捜索よりも、犯人ー悪霊の討伐がメインだからだ。
依頼人のあかりさんは一度両手の拳を握り締めると、口を開いた。
「若木健介。弘と私とは高校のクラスメートで……」
「それで?」
所長が先を促すように相槌を打つ。
「初恋の人でした」
瞳には涙が浮かぶ。
「でも、今は帰らぬ人です。忘れるもんですかーーあれは、高校2年の夏、川原でのキャンプ中でした………」
外でゴーッと風が吹く。
事務所の窓がピシッと鳴った。
わたしは、あかりさんの涙声に耳をすまし、メモを書き付ける。
「キャンプには学校の友人達7、8人で行きました。良く晴れた、暑い夏のお昼時です。忘れもしません……照りつける日差し、うだるような湿度……ええ、忘れるはずがありません。頬を背を伝って落ちた汗の感覚まで、はっきり覚えています。焼ける肉の匂い、やかましいアブラゼミの合唱、心の底から楽しんでいる笑い声、そして………川の方からの悲鳴」
眼前に悲劇がよみがえる。
「川からの悲鳴ー『健介がいない!』という……空気が凍り付きました。血の気が引くように思いました。周りの音が、光景が、全て急に遠くなりました………あまりのショックに錯乱してしまった程です。結局、顔を見れたのは、数日後、警察を経由してでした……」
「なるほど」
所長は一旦頷いた。
が、すぐに質問をする。
「しかし、それだけでは、健介さんの行動に説明がつきません。続きはあるのですか?」
「はい……」
「そうですか。では、お願いします」
あかりさんは再び語り出した。
「弘が殺したのです」
「え!?」
所長が驚きの声を上げる。
わたしも一瞬、メモを忘れた。
「弘がそう言いました……少し前に。何でも、私と両想いにあった健介が憎かったと言っていました。初めは驚きましたよ。だって、夫が元カレを殺した張本人だったんですから。けれど、許しました」
「なぜです?」
「今、私を愛してくれれば、それでいいとー」
一見薄情だが、愛なんてそんなものだろう。燃える時に燃え、冷める時に冷めるのだ。
「でも、今思えば、この言葉が彼の怨念を引き寄せたのでしょう。私は、健介を殺した人を許したのですからー」
所長は深くため息をついて、首肯する。
「分かりました。質問は以上です。ところで、今回のことは警察の方に連絡しましたか?」
「いえ、まだです。普通のことではないので、躊躇われまして。……でも、ご近所さんが通報しているかもしれません」
「なぜそのように?」
「マンションの他の住人さんからの目線が、いつもよりチクチクしていたように感じたのです」
「あぁ……」
所長がめんどくさそうに頭を掻く。
「もし警察が来たら、電話してください。僕が事実を説明します」
最後にそう言うと、あかりさんは一礼して部屋を出た。
「黒羽さんも今日はもういいですよ。あの事情では悪霊と会うこともできないでしょうし」
「了解したわ」
自分の座っているソファーの左手から、学校鞄を取り上げ、文房具を詰め込む。そこで、ふっと思い尋ねた。
「今日、新田は……?」
声のトーンは暗い。
所長は少し意外そうな顔をして答えた。
「いるはずです。先程帰宅したような音を聞きました」
「そ、そう……」
「珍しいこともありますね」
「は?」
「いえ。何でもありません」
しかし、そう言った所長の顔はどこか嬉しそうだった。
疑問を心に残しつつ、事務所の部屋を出る。
出た先は豪邸だ。
足首まで埋まりそうなふかふかの絨毯が廊下に伸びている。
そのクリーム色の濁流を、滝のように見える階段に背を向けて逆行する。
大した距離でもないのに、水底の藻のような毛先が足に絡みつき、遡上を妨げる。
そして、ようやくたどり着いたという感じで、隣の寝室のドアを叩いた。
「んー? 誰?」
中から間延びした声が聞こえてくる。
「わたしよ。黒羽・S・友江」
やや口調は硬い。
「ああ。今空ける」
少し無愛想な響き。トントンと焦らず歩み寄る音に、続いて鍵を空けるカチャッという音。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
ぎこちなく頭を下げた。
ドアから顔だけを出す彼は、新田正則。
同じ高校のクラスメートで、事務所での繋がりはない。そもそも新田は事務所の人間ではない。
いや、人間ではある。
「事務所」の人間でないのだ。
なお、彼は、わたしの、または、所長の本性を知っている。
と言うのも、新田は所長が担当した初の依頼者であり、現役悪魔時代のわたしが手に掛けた一人だから。
今は訳あって、この所長の屋敷で養われている。
「何か用?」
頭を下げたまま黙っていると、わずかながら苛立ったように訊いてきた。
ハッとして顔を上げると、眉間に皺をたたんだ表情に気が付く。
身長は175センチ程ですらりと高く、藍色太目のフレームに長方形のレンズと洒落たメガネをかけている。
けれど、今や、高い身長もお洒落なメガネも威圧感を増すだけだ。
ただならぬ気配に、さらに口が重くなる。
「あ、あのぉ……」
「何もないの? ないなら、論文の続きを書きたいんだ」
「論文? 宿題出てたっけ?」
「違う。俺個人の話だ。お前には関係ない」
冷たく言い放ち、
「で、何の用?」
と再び追問する。
しかし、これと言って何もない。
ただ思い立っただけだが、それをそのまま伝えれば、さらに機嫌を損ねることになるのは明白だ。新田は厳格な性格なので、理由のない何となくの行動を認めはしないのである。
が、何と言い訳して良いか、結局分からずー
「あ、いや、何でもないわ」
「そう、か……」
新田はそう言うと、パタンとドアを閉めた。鍵の音は聞こえなかった。
しばらくその場にたたずんで、ドアの木目を眺めていたが、やがてため息をひとつつき、ようやく自宅へ足を向けた。