第1話 残暑には負けたわね
東京から近く、けれど、喧騒からは遠い横浜の高級住宅街。
そこに、天使と悪魔が運営する探偵事務所がある。
その名も、DBAS(The Ditective Bureau of an Angel and a Satanの略。和訳は、「天使と悪魔の探偵事務所」)。ちなみに、これで「ディーバス」と読む。
DBASの所長は、神河・A・俊治。
ミドルネームのAは、AngelのAで、彼は天使の一族だ。
そして、その助手がわたし、黒羽・S・友江。
Sは、SatanのSで、悪魔の血を引いている。
天使は悪魔討伐のために存在するのだが、以前、所長はわたしを救ってくれた。
いや、正確には、戦って死の淵に追い込んでから、気が変わったと言って、最後の一撃を控えたのだケド……。
ま、まあ、ともかく、わたしはある条件を呑んで、九死に一生を得たのだ。
その条件が、探偵事務所の助手になること。
このために、社会的には一介の女子高生に過ぎないわたしが、ここで働いているのである。
「何を見ているんですか?」
窓際に立っていると、所長が部屋に入ってきた。
自宅の屋敷の一室を、事務所として使っており、何もない時にはたいてい彼は書斎にいるのだが、それでもさらに何もなくなった場合、暇潰しにこうしてやってくるのだ。
20代半ばと年差はあるが、178の長身にスーツを着込み、精悍な顔に銀縁眼鏡が光っているのは、少しドキッとくるものがある。
わたしは八重歯をチロリと覗かせ、ニヤリとする。
「道行く人の寿命を見てたの。ほら、例えば、あのオジサン。社会の荒波にもまれてクタクタね。まるで打ち上げられた海藻みたい。きっと今日も仕事が見つからなかったのよ。それで彼は思うんだわ。もはや生きることはできないって……。一体どういう方法を取るかは知らないけど、頭の上の蝋燭は最期が近いと言ってるもの」
「彼は幸いです。不幸な人々は幸いです」
「山上の説教ね。でも、彼がキリスト教徒とは限らないじゃない」
「天使とは、邪悪を退け、人々を幸福にする者。プラス思考はその基本ですよ」
幼子を言い含めるような言い方に嫌気がさす。
ツンとして、窓の方にまた目をやった。
ガラスに自分の姿が写る。
学校から直接ここに来たため、着ている服は赤のラインが眩しいセーラー。
黒髪はポニーテールに束ねられ、大きな白いリボンで結ばれている。これは悪魔封じの意味合いもあり、天使の所長が渡したこの白リボンをはずすと、内なる悪魔の本性が現れるのだ。
瞳は黄緑色。
人なら普通ないのだろうが、わたしは人ではない。悪魔なので問題ない。
それとー
「豆乳の効果はでましたか?」
「誰が貧乳だ!」
八重歯=キバを剥き出しにして噛みつく。
……あっ、言葉の綾だからね!?
「あなたがドラキュラでなかったのは、せめてもの救いです」
涙目で腕さすってるけど、きっとわたしの見間違いよ。ええ、絶対そうよ。そんなはしたない真似、このわたしがする訳ないじゃない!
「ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫です」
「これ、絆創膏よ。毒塗ってあるから、気を付けなさい」
「……それは僕の身を案じてくれているのでしょうか?」
「そうねぇーわたしは、迫害する者のためには祈れない、とだけ言っとくわ」
「っと危ない。天使とは言え、命は有限。貴重な命を無駄にするところでした」
所長はそう言って、慌てて絆創膏を部屋の隅のゴミ箱に捨てる。
離れた位置から投げ入れるなんて、上流階級のエリートにはできないのだろうか?
わざわざ歩いていって、きちんと真上で手を離した。
わたしは窓から離れ、部屋の真ん中あたりに置かれたソファーに座る。
ソファーは全部で3つーひとつは窓際に、残りふたつは反対の廊下側にあり、その間には、細長い座卓がある。
今わたしが腰掛けたのは、廊下の方で、ドアからより遠いものだ。窓とは対角線的な位置関係になっている。
左横には焦げ茶のティーテーブルがすくっと立っていて、その上には……いわゆる黒電話。他の内装に合わせて、古めかしいやつを苦労して探し出したんだとかー。まったく。無駄な努力にもほどがあるだろう。
金と時間を持て余し気味の所長は、しばらく窓の外を眺めていると思ったら、向かいの窓際のソファーに腰を落ち着かせた。
「来ないですね……」
「怪事件がそんなバンバン起こっても困るじゃない」
「確かに。一理あります」
所長が頷く。
DBASが解決に当たる事件は、非常に限定的だ。何しろメインで運営している所長が天使なので、悪霊が絡んだ怪事件以外は基本的に全てカバー範囲外。
それでも年間馬鹿にならない数の依頼、つまりは怪事件があるのだけども、それと同じかそれ以上、馬鹿になりそうなほど暇で、依頼も何もない時期が存在する。
現在がまさにそのような時で、終わりそうにない残暑といい勝負をしているところだ。
冷房の効いた室内から戸外を見れば、熱気と湿気がぐちゃ混ぜになって、混沌の図が出来上がっている。
ー秋って、いつ頃からだっけ?
真夏日の午後を遠巻きにしつつ、思わずそんなことを考えてしまう。
「黒羽さんは、秋をどのような季節だと思いますか?」
唐突に所長が尋ねてきた。
よほど暇なのね、と内心呆れながら、わたし自身のためもあって、暇つぶしに付き合う。
「どうって……食欲の秋とか?」
「食いしん坊なのですか?」
「い、いやいや、なんでそうなるのよ……」
モンブランとか大好きだけど、食いしん坊ってほどじゃない。
「他にはどうでしょう?」
「運動の秋、読書の秋、芸術の秋……まあ、色々あるんじゃないの? 少なくとも、学校の子達はそんなこと言ってるわよ」
「なら、黒羽さん。あなたは?」
「えっ……」
「黒羽・S・友江は、どう思うのですか?」
「そ、そうねぇ………」
悪魔としての回答を述べる。
「やっぱり、瀕死の季節ね。冬という死を前に、長々と苦しむ最高の時間ーあぁ、想像するだけでゾクゾクするわぁ! 悪魔にとってみれば、あれほどの愉悦はないもの! 死の苦しみを前にして、苦悶にゆがむ表情。わたし達が誘惑すると、より一層焦るのよね! もう、最高! SはサタンのSじゃなくて、サドのSよ! 絶対! 所長ぅ! ちょっとあんたひざまずきなさい!!」
「……やはり、本来通り地獄送りにしましょう」
「ヴッ、ゴメンナサイ」
ソファーに座ったまま腰を折る。
さすがに言い過ぎた。
今度は無言でいきなり鞭打とう、と反省する。
「ちなみに、僕にとって秋とは、悲しみの季節ですね」
「それこそ良くあるじゃない」
「日本人なら誰でも感じるでしょう?」
「あんた……日本の国民どころか天使でしょうが」
「戸籍上は日本人です。ですから、納税義務もありますよ? この事務所だって、法人税を納めていますし」
「何より所得税が大変そうね」
「いえ、それより7年前の相続税の方が……」
「相続税?」
「え、えぇ、7年前の秋のことです………辛い思い出ですが」
「……」
所長の言葉を最後に、重苦しい沈黙が降りる。
ー7年前。
ー知り合うよりだいぶ前ね……。
両手を組み合わせ、その上に頭を乗せている所長は、彫刻なら悲痛と題されそうな様子だ。
わたしは足を組んで、半ばそれを見下ろすような姿勢になる。
そして。
ー普段冷静なのに、こんなに乱れるだなんてっ!! これよ! これこそが愉悦よっ!
女王様姿勢で下半身をくねらせつつ、獣のように獰猛な目でオカズをとらえる。
サド心が否応なくくすぐられる眼前の光景に、早くも理性崩壊が秒読みに入る。
「所長ぅ〜わ、わたし、堪えられn」
Riririririririn!! Riririririririn!!
折り悪く黒電話が鳴った。
わたしは軽く舌打ちしてから、受話器を取る。
「こちらDBASでございます。悪霊絡みの怪事件でしょうか?」
間違い電話やイタ電も多いので、まずはしっかり確認する。
と。
『ええ、襲ってくるんです! 私、どうしても怖くて! 怖くて怖くて、もう!』
「おお、落ち着いてください」
パンツの替えなんか持ってないのよ!
思わずスカートの裾をギューッと掴む。
人の苦悶に身悶えるわたしに、この仕事は色々とキツい。
甘い声が漏れたりしないようよーく注意して、再度話し掛ける。
「襲ってくるって、何がですか?」
『悪霊よ!』
「誰のですか?」
『彼は私を恨んでる!!』
「彼?」
「黒羽さん」
呼ばれたので目だけ上げると、所長がこちらを見て、しっかりと頷いた。
それに軽く相槌を打つと、受話器の向こうへ告げる。
「でしたら、解決いたしましょう。DBASにお任せください」
事務所の所在地を教えると、電話を切った。
どうやら残暑には負けたようだ。
まだまだ蝉がうるさい9月初めのことである。