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英雄の誕生と、人嫌いの白竜



間欠泉のごとく噴き出した清浄な水は、瞬く間に街の枯れ井戸を満たし、干上がっていた水路に澄んだ音を立てて流れ込んだ。


穢れに蝕まれ、死を待つばかりだった辺境の街『ルークス』は、たった一人の青年の「お願い」によって息を吹き返したのだ。


「奇跡だ……! 精霊の御遣い様が、我々をお救いくださった!!」


「あぁっ、ありがとうございます、ありがとうございます……!」


広場は狂喜乱舞の渦に包まれていた。


自警団の男たちは武器を放り出して泣き崩れ、熱を出していた少女の母親は、泥だらけの地面に額を擦り付けてアッシュを拝んでいる。街中の人々が集まってきて、次々とアッシュの足元にひざまずき始めた。


「えっ? ちょっと、みんな急にどうしたの? 泥が取れてお水が出ただけだよ?」


「アッシュ殿。あなたがやったことは、王都の最高位魔導師が何十人束になっても不可能な、文字通りの『奇跡』なのです。……彼らがこうなるのも無理はありません」


困惑するアッシュの隣で、エリスは誇らしいような、呆れたような、複雑なため息をついた。


聖堂騎士である彼女から見ても、たった今目の前で起きた事象は常軌を逸している。人々が彼を神の御遣いとして崇め奉る気持ちは痛いほど分かった。


「御遣い様! どうか、どうか我々の感謝の印を受け取ってくだせぇ!」


恰幅の良い街の長が、土下座の勢いで差し出してきたのは、街の宝物庫から持ち出してきたであろう金貨の袋と、豪奢な装飾が施された宝剣だった。


しかし、アッシュはそれらには目もくれず、長の後ろでモジモジとしていた小さな女の子――先ほど熱を出して倒れていた少女――の前にしゃがみ込んだ。


「ねえ、君。さっき、手に持っていた木の実を落としちゃったよね」


「え……? あ、うん。でも、もう黒くて食べられないから……」


「大丈夫。ほら、見てて」


アッシュが少女の手のひらに落ちていた真っ黒な木の実の残骸にそっと息を吹きかけると、黒い穢れがサラサラと消え去り、瑞々しく赤い、甘い香りを放つ果実へと元通りになった。


「はい、どうぞ。お水と一緒に食べると美味しいよ」


「わぁっ……! ありがとぉ、おにいちゃん!」


少女が満面の笑みで果実にかじりつくのを見て、アッシュも嬉しそうに目を細めた。


そして、唖然とする長や街の人々を振り返り、ふわりと笑った。


「金貨も剣も、僕はいらないよ。みんなの笑顔と、美味しいお水が戻ったなら、それが一番のお礼だからさ。……あ、でも、もしよかったら、少しだけパンと干し肉を分けてもらえないかな? エリスが、外の旅にはそういうのが必要だって言うからさ」


神の如き力を振るいながら、欲するのは旅の保存食だけ。


そのあまりにも無欲で純粋な在り方に、街の人々はさらに深く頭を垂れ、感極まって号泣する者まで現れた。


エリスもまた、彼の横顔から目が離せなくなっていた。


(この方は、本当に……なんてまっすぐで、底知れない人なのだろう)


生贄として死ぬはずだった自分を救い、街の絶望を笑って吹き飛ばす。彼といると、どんな絶望も些細なことに思えてくる。エリスの胸の奥で、確かな熱い感情が芽生え始めていた。


街の人々からの熱烈な歓迎(と、持ちきれないほどの食料の差し入れ)をなんとか押し留め、二人は宿屋の一室を借りて休息を取ることになった。


「いやぁ、人間って不思議だね。あんなにお水が出ただけで泣いて喜ぶなんて」


「……あなたが規格外すぎるだけです」


ベッドに腰掛け、差し入れのパンをかじるアッシュに、エリスは呆れながらも柔らかい口調で返した。


その時だった。


――ピリッ。


エリスの肌が、粟立った。


宿屋の窓ガラスが微かに震え、街の空気を、圧倒的な「強者」のプレッシャーが撫でていったのだ。


「なっ……なんですか、今の威圧感は……! 穢れの魔物ではありません、もっと強大で、純粋な……!」


エリスが剣の柄に手をかけ、窓の外を睨みつける。


視線の先、街から少し離れた岩山の頂に、空を覆い隠すほどの巨大な影が舞い降りるのが見えた。


白銀の鱗を持つ、四つ足の巨大な竜。


神話に語られる、空の支配者――『白竜』だ。


「まさか、伝説の竜種が……!? なぜあんなところに! もしこの街に降り立てば、一溜まりもありません!」


エリスが青ざめる中、アッシュは窓から身を乗り出し、嬉しそうに手を振った。


「あ、リリィだ! おーい、リリィー!」

「は? リリィ?」


「うん。僕の森の友達。最近見ないと思ったら、こんなところで迷子になってたんだなぁ」


アッシュはひょいと窓枠に足をかけ、そのまま宿屋の二階からふわりと飛び降りた。まるで風が彼を受け止めたかのように、音もなく着地する。


「ちょっとアッシュ殿!? 相手は伝説の竜ですよ!? 人間を丸呑みするような……!」


エリスの制止も聞かず、アッシュは岩山へと向かってトコトコと歩いていってしまった。


慌てて後を追うエリスが岩山の麓に辿り着いた時、彼女は再び、己の常識が崩壊する音を聞いた。


『グルルルゥゥゥゥ……ッ!!(人間め、我に近づくな! 穢らわしい!)』


岩山の上から、白竜が怒り狂った咆哮を上げる。かつて人間に裏切られたことのあるその竜は、強烈な人間不信に陥っており、近づく者すべてをその白炎で焼き尽くす恐ろしい存在のはずだった。


「リリィ! 久しぶり!」

『ガァッ!?(……アッシュ!? どうしてこんな人間の汚い街に……!)』


だが、アッシュが岩山を登りきり、ひらひらと手を振って近づいていくと、白竜の態度は一変した。


先ほどの威嚇はどこへやら、白竜は巨大な体をビクッと震わせると、まるで叱られた子犬のようにシュンと尻尾を巻き、アッシュの足元に大きな頭をすり寄せてきたのだ。


「ずっと探してたんだよ。勝手に森を出ちゃ駄目じゃないか」


『キュウゥゥゥン……(だって、アッシュが森からいなくなるって風が言ってたから……置いていかないでよぉ……)』


あの伝説の白竜が、情けない声を上げて青年に甘えている。


しかも、アッシュがその純白の鱗をよしよしと撫でると、白竜の巨大な体は眩い光に包まれた。


光が収まった後、そこにいたのは巨大な竜ではなく――純白のワンピースを着た、長い銀髪の小柄な少女だった。


頭には小さな竜の角が生え、背中には可愛らしい白い羽が生えている。


「えへへ、アッシュぅ……。匂い、嗅がせて……」

人間の姿になった白竜――リリィは、アッシュの胸元に思い切りダイブし、その麻の服に顔を擦り付けてクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。


「こらこら、くすぐったいよリリィ。……あ、エリス、紹介するね。この子はリリィ。ちょっと寂しがり屋だけど、悪い子じゃないから仲良くしてあげてね」


唖然として立ち尽くすエリスを見て、リリィはアッシュの胸に抱きついたまま、エリスに向かってチロッと舌を出し、勝ち誇ったような顔をした。


『(アッシュは私のなんだから。人間のメスなんかに渡さないわよ)』


「……はぁ」


神獣を飼い慣らし、街を秒で救い、今度は人嫌いの伝説の竜を即座にデレさせる。


エリスは剣から手を離し、本日何度目かわからない深い深い絶望(ため息)を吐き出した。この青年の規格外ぶりは、どうやら世界を救うまで止まることはなさそうだった。

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