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境界を越える足音と、土くれの慟哭



「アッシュ殿……その、お荷物はそれだけなのですか?」


旅立ちの朝。最果ての森の境界線へと向かって歩きながら、エリスは隣を歩く青年の身軽すぎる出で立ちに目を白黒させていた。


聖堂騎士であるエリス自身は、長剣を腰に帯び、野営のための外套や最低限の保存食を入れた背嚢を背負っている。これでも生贄として森に入ったため、かなり身軽な方だ。


対してアッシュはといえば、いつもの飾り気のない麻の服に、肩から小さな布の鞄を一つ下げているだけだった。武器はおろか、水筒すら持っていない。


「うん? これでも結構詰め込んだ方なんだけどな。木の実の干したやつとか、妖精たちが持たせてくれた甘い蜜の瓶とか」


「そういうことではなく……! 外の世界はここ数年でひどく荒れ果てています。森の中のように、いつでも綺麗な水や食料が手に入るわけではないのですよ」


エリスの小言に、アッシュは「そっかぁ」とのんきに笑うだけだ。


実際、彼が歩くたびに森の木々がしなり、枝の先からポロポロと熟した果実を落としていく。


足元からは清らかな湧き水が噴き出し、彼を送り出そうとする小動物たちが列をなしてついてきているのだ。


彼にとって、世界は「過酷な生存競争の場」ではなく、「優しい隣人たちの集まり」に過ぎないのだろう。エリスは小さくため息をつき、自分がしっかりしなければと気を引き締めた。


「グルルゥ……」


不意に、背後から地響きのような低い喉鳴りが聞こえた。


振り返ると、森の奥から巨大な翠緑の炎が揺らめきながら近づいてくる。昨日エリスを恐怖のどん底に陥れた大精霊ヴォルヴァだった。


巨木の隙間から巨大な鼻面を突き出した神獣は、寂しそうに耳を伏せ、アッシュの足元にすり寄ってきた。


「ははっ、くすぐったいよヴォル。そんなに悲しい顔をしないで」


アッシュは神獣の巨大な鼻先に抱きつき、その硬い毛並みをわしゃわしゃと撫で回した。


「すぐ戻ってくるよ。君の頭を痛くしていた『穢れ』ってやつを、外の世界から追い出したらね。それまで、森のみんなをお願い。喧嘩しちゃ駄目だよ?」


『……ガァゥ』


ヴォルヴァは了承するように低く鳴き、そっとエリスの方を見た。その黄金の瞳には、昨日のような狂気はない。ただ、深遠なる理を司る神としての、静かで圧倒的な威圧感だけがあった。


『我らが愛し子を、頼む』と。言葉を持たない神獣から、そう言われた気がした。


エリスは息を呑み、そして深く頷いて、右拳を左胸に当てる騎士の敬礼を返した。


神獣と森の住人たちに見送られ、二人はついに森の境界へと足を踏み入れた。


最果ての森と、外の世界を隔てる見えない壁。それを越えた瞬間、エリスは肌を刺すような冷たい空気と、嫌な臭いに顔を顰めた。


「……これが、外の世界」


アッシュが足を止め、目の前に広がる光景に目を細めた。


彼の声から、先ほどまでの明るさが消えていた。無理もない、とエリスは思う。


森の境界線を境に、世界は色を失っていた。


かつては青々と茂っていたであろう平原は、ひび割れた灰色の荒野へと変わり果てていた。草木は枯れ果て、空は分厚い鉛色の雲に覆われ、太陽の光すらも霞んでいる。空気には、鉄の錆びたような、血の乾いたような饐えた匂い――『穢れ』の気配が濃密に立ち込めていた。


「風が……土が、息絶え絶えに泣いている」


アッシュは悲痛な顔で、ひび割れた大地にそっと手を触れた。


その時だった。

――ズズズズズッ!!


突如として、エリスたちの目の前の地面が爆発したように隆起した。


「アッシュ殿、お下がりを!!」


エリスは反射的にアッシュを庇うように前に飛び出し、腰の白銀の剣を抜いた。


巻き上がる灰色の土煙の中から姿を現したのは、身の丈が三メートルほどある、泥と岩を固めたような異形の怪物だった。その体からはドロドロとした黒い瘴気が漏れ出し、虚ろな目玉にあたる部分からは赤黒い光が漏れている。


「土塊の魔物……下級の土精霊が、穢れに取り込まれた姿です!」


エリスは剣を両手で構え、油断なく腰を落とした。


下級とはいえ、大自然の力を振るう精霊の成れの果てだ。まともに戦えば、熟練の騎士数人がかりでようやく討伐できる相手。エリス一人で勝てる保証はない。しかし、自分がアッシュを守らなければ。


魔物が苦痛に満ちた咆哮を上げ、丸太のような豪腕をエリスに向かって振り下ろそうとした。

エリスが剣に渾身の力を込め、迎撃の踏み込みを見せようとした、その瞬間。


「……もういいんだよ」

ポン、と。


エリスの肩に、後ろから優しい手が置かれた。


エリスが止める間もなく、アッシュは彼女の横をすり抜け、魔物の振り下ろされる豪腕の真正面へと無防備に歩み出てしまった。


「なっ……!? アッシュ殿、危険です!!」

エリスの悲鳴にも似た静止の声。


しかし、アッシュは避けるどころか、魔物に向かって両手を広げたのだ。


豪腕が、アッシュの細い体を容赦なく打つ――はずだった。


ピタリ。


魔物の拳は、アッシュの鼻先数センチのところで、まるで目に見えない分厚い壁に阻まれたかのように停止していた。


いや、違う。魔物自身が、己の意志で攻撃を止めたのだ。


黒い瘴気を垂れ流す土塊の怪物が、アッシュを前にして、ガタガタと小刻みに震え始めた。それは怒りや狂乱ではなく、まるで親とはぐれた子供が、ようやく親の姿を見つけて泣きじゃくっているかのような、ひどく哀れな震えだった。


「痛かったね。寂しかったね。土が死んでいくのを、君は一番近くでずっと我慢していたんだね」


アッシュは、瘴気を放つ魔物の巨大な腕に、己の白い両手をそっと添えた。


彼が静かに、子守唄を歌うような優しい声で紡ぐその言葉は、エリスの知らない古代の響きを持っていた。


「――還れ。清らかなる眠りの底へ。星のゆりかごへ」


アッシュの手が触れた場所から、淡い金色の光が波紋のように広がっていった。


それは魔法陣を通した魔力などという安っぽいものではない。世界そのものが、アッシュの『お願い』に応えて奇跡を起こしているのだ。


光の波紋が全身を包み込むと、魔物を覆っていた赤黒い瘴気が、朝日に照らされた霜のようにシュウシュウと音を立てて消滅していく。


狂乱していた土塊の怪物は、ホッとしたような安らぎの吐息を漏らし、やがてサラサラと音を立てて、ただの綺麗な土へと崩れ落ちていった。


後に残されたのは、浄化されたふかふかの土と、そこに一輪だけ咲いた、名も知らぬ真っ白な花だった。


エリスは握っていた剣をだらりと下げたまま、その美しすぎる光景に見惚れていた。


騎士の自分が命懸けで討ち取るべきだった化け物を、彼は傷つけることなく、ただ撫でて、言葉をかけただけで救ってしまった。


「……よし」


アッシュは足元に咲いた白い花を優しく撫でると、立ち上がり、果てしなく続く灰色の荒野を見据えた。


「行こう、エリス。この世界は、僕たちが思っている以上に、たくさん泣いているみたいだ」


「……はいっ」


灰色の空の下。振り返った彼の笑顔は、どんな太陽よりも眩しく、エリスの胸を強く打った。

かつて生贄と呼ばれた姫騎士は、己の剣を鞘に納め、神を語る青年の背中を追って力強く歩き出した。

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