神域の食卓と、泣き虫な生贄の姫騎士
「迷子……?」
間の抜けた声が、エリス自身の口から漏れた。
先ほどまで死を覚悟していたというのに、目の前の青年――アッシュが放つ空気があまりにも穏やかで、毒気を抜かれてしまったのだ。
「あ、いや、私は生贄としてこの森へ……大精霊様の怒りを鎮めるために、命を捧げに参りました」
「生贄? 命を捧げる?」
アッシュはきょとんと首を傾げ、それから堪えきれないように吹き出した。
「あははっ、そりゃあ酷い誤解だ。ヴォルはね、木の実と朝露しか口にしないよ。人間なんて食べたら、それこそお腹を壊しちゃう」
「しかし、現に大精霊様は森を破壊し、国に災いを……」
「災いじゃないよ。彼はただ、風に乗って運ばれてきた『穢れ』にあてられて、ひどい頭痛を起こしてパニックになっていただけさ。痛くて暴れ回っていたところを、君たちが勘違いしたんだろうね」
アッシュが背後を振り返ると、先ほどまで荒れ狂っていた大精霊は、丸くなってスゥスゥと平和な寝息を立てている。そのあまりにも無防備な姿に、エリスは言葉を失った。
国中の魔導師が束になっても傷一つ負わせられなかった絶望の化身が、ただの大きな獣のように眠っている。
「それにしても、ひどい泥だらけだ。怪我はないかい? 立てる?」
差し出されたアッシュの手に、エリスは戸惑った。だが、張り詰めていた糸が切れたのか、立ち上がろうとした途端に足から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
「あ……」
「無理もないよ。あんなに怖い思いをしたんだから。ほら、掴まって」
アッシュは嫌な顔一つせず、泥に塗れたエリスの体を軽々と抱き起こした。彼の体からは、陽だまりのような温かくて優しい匂いがした。
「僕の家においで。温かいスープがあるんだ。お腹、空いてるだろう?」
有無を言わさぬ、けれど圧倒的に優しい提案。エリスが頷くより早く、アッシュは歩き出した。
そして、エリスは再び己の目を疑うことになる。
人が立ち入ることを拒絶するはずの『最果ての森』が、アッシュが歩みを進めるたびに、まるで道を譲るようにざわめき、開いていくのだ。
鋭い茨は彼を避けるように引っ込み、鬱蒼と生い茂る木々は枝を上げて陽光を招き入れる。足元には淡く光る花の妖精たちが集まり、アッシュの足跡を彩るように踊っていた。
魔法の詠唱も、魔力の波動も感じない。ただ、森そのものが彼を愛し、彼に従っている。
「君は……一体、何者なんだ……?」
「僕? 僕はアッシュ。ずっとこの森で、みんなと一緒に暮らしてるただの人間だよ」
ただの人間が、大自然の理を従えるわけがない。だが、アッシュの横顔に嘘や傲りは微塵もなかった。
やがて開けた視界の先に、生きた大樹の枝葉を編み込んで作られた、美しい家が現れた。
家の中に案内され、ふかふかの獣の毛皮に座らされる。暖炉にはパチパチと心地よい火が灯っており、鍋からは野菜と香草の甘い匂いが漂っていた。
「はい、どうぞ。森の木の実と、きのこのスープ。冷えた体にはこれが一番だ」
木の器に注がれたスープを手渡され、エリスは震える両手でそれを受け取った。
一口、口に含む。
じんわりと、温かくて優しい味が広がった。それは、王宮で食べていたどんな豪華な食事よりも、五臓六腑に染み渡る味だった。
「あ……」
ふいに、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなった。
自分は生贄だった。国のために、誰にも看取られず、冷たい森の奥で無惨に食い殺されるはずだったのだ。恐ろしかった。本当は、生きたかった。
「ごめんなさい……わたし……」
「謝らなくていいよ」
アッシュはエリスの隣に座り、子供をあやすように、その背中を優しく撫でた。
「君はもう、誰かのための生贄じゃない。泣きたい時は、思い切り泣けばいい」
張り詰めていたエリスの心が、その温もりに完全に溶かされた。聖堂騎士としての威厳も、姫としての責務も忘れ、エリスはただの少女として、アッシュの胸を借りて声を上げて泣きじゃくった。
窓の外では、森の木々が彼女の悲しみを慰めるように、優しく風に揺れていた。
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