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怒りの静寂と、土に還る鉄の枷




「ギガァァァァァァァッ!!」


魔力を喰らい、無限の再生力を持つ『穢れのヒュドラ』。


その五つの巨大な頭が、目前に立つ無防備な青年――アッシュを肉片に変えるべく、一斉に襲いかかった。


巨岩をも噛み砕く鋼鉄の牙が、全方位からアッシュに迫る。


「師匠ォォォッ!! 避けて!!」

「アッシュ殿!!」


シルヴィの悲鳴と、エリスの制止の声が響く。

だが、アッシュは一歩も引かなかった。彼はただ、迫り来るおぞましい鋼鉄の牙に向かって、両手をそっと前に差し出した。


「痛いのは、もう終わりだよ」


アッシュの両手が、巨大な鋼鉄の牙に触れた。

その瞬間。


魔導院の執務室を揺るがしていたヒュドラの咆哮が、ピタリと止まった。


「――おやすみ。冷たい土の中へ還っておいで」


アッシュが静かに囁くと、彼の足元から、淡い金色の光が波紋のように広がった。


それは魔法陣ではない。魔力の波動ですらない。ただの大自然の、絶対的なる『神語り(ことだま)』の執行だった。


ボロボロ……ッ。


乾いた音が響いた。


ヒュドラの頭部に食い込んでいた超硬度の鋼鉄の首輪、そして全身を覆っていた禍々しい魔導機巧の鎧が。


アッシュの手が触れた場所から一瞬にして赤茶色に錆びつき、まるで数千年の時を早送りされたかのように、風化して砂へと変わっていったのだ。


「なっ……!?」


杖を構えたまま、シルヴィは己の目を疑った。


(金属の……急速な風化!? いえ、違うわ! 物質の時間を進めたんじゃない、彼は鋼鉄に『元々、土の中にあったただの鉄鉱石』であると直接語りかけ、元の姿に戻したのよ! 物理法則すら無視するなんて……!)


天才魔導師の理解すら置き去りにして、奇跡は連鎖する。


拘束具と機械鎧を全て砂に変えられたヒュドラは、その巨体を支えきれなくなり、崩れ落ちるように床に倒れ伏した。


赤黒い『穢れ』の瘴気が、アッシュの足元から立ち上る清浄な風に洗われ、シュウシュウと音を立てて浄化されていく。


『……キュウゥ……』


やがて、巨体のヒュドラが消え去った後。


床には、大怪物の代わりに、五匹の手のひらサイズの可愛らしい土色の蛇(土の精霊)が、身を寄せ合って震えていた。


「うん。元に戻れてよかった」


アッシュはしゃがみ込み、五匹の小蛇たちを優しく手のひらにすくい上げた。


小蛇たちはアッシュの温もりに安堵したように、スリスリと彼の指に擦り寄り、やがて光の粒となって本来の土の中へと帰っていった。


圧倒的な絶望を放っていた魔導兵器は、たった数秒で、ただの砂埃と化してしまった。


「……信じられない」


セフィラが瑠璃色の瞳を瞬かせる。彼女の目には、アッシュがどれほど精霊たちに愛され、同時に、彼がどれほどこの機械の兵器に対して『怒り』を覚えていたかがはっきりと見えていた。


彼の力は決して暴走しない。怒りすらも、底知れぬ優しさに包まれているのだ。


「すっごーい! アッシュが撫でたら、あんなに不味そうだった鉄クズがサラサラの砂になっちゃった!」


リリィが嬉しそうにアッシュの背中に飛びつく。


エリスは剣を鞘に納め、深い安堵と共にため息をついた。彼の前では、どんな強大な敵もただの「迷子」に過ぎないのだと、改めて思い知らされる。


「さて」


アッシュは立ち上がり、ヒュドラが突き破ってきた床の巨大な大穴――魔導院の地下封鎖区画へと続く暗闇を見下ろした。


「エリス、シルヴィさん。この下から、すごく嫌な臭いがするよ。……行こうか」


「はい。このおぞましい兵器を作り出した者を、放ってはおけません」


エリスが頷き、シルヴィが鋭い目つきで大穴を睨む。


「ええ。私の権限で下の扉を開けます。私の留守をいいことに、魔導院の地下でこんな吐き気のする研究をしていたヤツの顔……絶対に拝んでやるんだから!」


一行は、シルヴィの先導で、ヒュドラが開けた穴の壁面を伝い、地下へと降りていった。

魔導院の地下深層。


そこは、都市の華やかな白亜の建築とは打って変わって、冷たい鉄と無機質な石で囲まれた、巨大な実験施設だった。


立ち並ぶ巨大なガラス管の中には、赤黒い液体と共に、様々な精霊や魔獣が閉じ込められている。管から伸びる無数のパイプが、強制的に彼らの魔力を吸い上げ、『穢れ』へと変換していた。


「ひどい……」


セフィラが目を覆う。妖精眼を持つ彼女にとって、この場所は地獄そのものだった。


アッシュの表情が、さらに冷たく凍りつく。

その時。


「ひ、ひぃぃぃっ! なぜだ! なぜ私の最高傑作『被検体零号ヒュドラ』の反応が消えただと!!?」


実験施設の最奥から、狼狽する男の悲鳴が聞こえてきた。


一行が駆けつけると、そこには巨大な魔力炉の前で、計器盤を必死に叩いている白衣の男がいた。


神経質そうに痩せこけた顔と、度の強い眼鏡。


「……副院長のバルバス。やっぱり、あなたがこの忌まわしい実験の責任者だったのね」


シルヴィが、地を這うような冷たい声で男の名を呼んだ。


「い、院長!? なぜあなたがここに……! いや、そんなことよりあのヒュドラをどうやって倒した! あれは世界最強である七天の聖座すらも屠れる究極の兵器だったはずだぞ!」


バルバス副院長は、シルヴィたち一行を見て後ずさった。


そして、アッシュの姿を視界に入れた瞬間、広場で首輪を破壊されたという部下からの報告を思い出して、顔面を蒼白にした。


「き、貴様が……報告にあった首輪を破壊した男か! ええい、来るな! 近づけばこの施設ごと自爆してやる!!」


バルバスが狂乱したように、手元の赤い魔導レバーに手をかける。


この巨大な穢れの魔力炉が爆発すれば、魔導都市ルミナスそのものが消し飛ぶ大惨事になる。


「やめなさいバルバス!! 都市の人間まで巻き込む気!?」


シルヴィが青ざめ、エリスが踏み込もうとする。


だが、アッシュの行動は、誰よりも、何よりも早かった。


「……君は、何もわかってないね」


アッシュの声が響いた瞬間。


バルバスの足元から、突如として『巨大な木の根』が爆発的に突き出した。


「なっ!?」


木々の根は意思を持つ大蛇のようにバルバスの全身に巻き付き、彼を空高く吊り上げた。手元のレバーに触れることすら許さない、完璧な拘束。


大理石の床を突き破って現れた大自然の怒りに、バルバスは恐怖で目を剥いた。


「精霊たちは、道具じゃない。君の思い通りになんて、絶対にさせないよ」


アッシュが見上げる先で、宙吊りにされたエリート魔導師は、ただ惨めに悲鳴を上げることしかできなかった。

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