毒嫁の解体新書 〜小姑から順に心を折っていく〜
◇〜第一章:微笑みの毒婦と、剥がれ落ちた王女の仮面〜◇
王都の社交界において、隣国から嫁いできたアリアンヌ・ド・ラ・ヴァリエール公爵令嬢は、降臨した聖女そのものと目されていた。
透き通るような銀髪に、慈愛に満ちた菫色の瞳。
彼女は常に控えめで、誰に対しても柔和な微笑みを絶やさない。
「エドワード、君は本当に素晴らしい妻を娶ったな」
国王は満足げに頷き、エドワード王子もまた、自慢の妃の細い肩を抱き寄せた。
「ええ、父上。アリアンヌは私の光です。この城の誰もが、彼女の優しさに救われている」
──だが、その”光”が届かない場所がある。
男たちが政務や狩りに興じ、女たちだけが残される後宮の茶会。
そこは、宝石と刺繍で飾り立てられた女たちが、互いの喉元に毒を塗り合う戦場だった。
「あら、アリアンヌ様。今日もまた……随分と”慎ましい”装いですのね」
扇の間から漏れ出たのは、鈴を転がすような、しかし鋭利な棘を含んだ声だった。
声の主は、エドワード王子の実妹、第二王女リスリル。
弱冠十六歳。
愛らしい容姿で『王国の愛娘』と甘やかされて育った彼女は、最愛の兄を独占していた時間を奪ったアリアンヌを、病的に忌み嫌っていた。
「リスリル様、ご機嫌麗しゅう。……何か、失礼がありましたでしょうか?」
アリアンヌは困ったように眉を下げ、自身の淡い水色のドレスを見つめる。
「失礼? いいえ、ただあまりに古臭いものですから。我が国の流行からは三周ほど遅れていましてよ? 隣国の方は、そんなに物持ちがよろしいのね。お可哀想に、お兄様からお召し替えの予算も頂けていないのかしら」
リスリルの取り巻きの令嬢たちが、一斉にクスクスと忍び笑いを漏らす。
「本当ですわ。まるで地方の没落貴族のようですわね」
「王家の品位に関わりますわ。アリアンヌ様、よろしければわたくしの古いドレスを差し上げましょうか?」
投げつけられる言葉の礫。
だが、アリアンヌは反論するどころか、震える手で茶杯を握りしめ、今にも泣き出しそうな表情で俯いた。
「……申し訳ありません。わたくし、不勉強で……皆様のお目汚しを。せめて、わたくしの国の特産品で、お詫びをさせてくださいませ」
アリアンヌが差し出したのは、宝石のように美しい色とりどりの菓子と、透き通った小さな小瓶だった。
「これは?」
リスリルが怪訝そうに眉を寄せる。
「『真実を映す香水』と申します。わたくしの国では、心からの友に贈る、最も誠実な贈り物なのですわ」
「ふん、誠実ね。まあ、頂いておきますわ。貴女にしては、マシな献上品ですこと」
リスリルは傲慢に笑い、その小瓶を自らの首筋に一吹きした。
爽やかな花の香りが、一瞬にしてその場を包み込む。
数日後。
アリアンヌは再び、リスリルが開いた内輪の茶会に招かれた。
そこにはリスリルが最も信頼する三人の侍女と、側近の令嬢たちが揃っていた。
「さて、アリアンヌ様。今日も貴女の無知を……」
リスリルが嘲笑を浮かべて口を開こうとした──その時だった。
「……王女様、そのお声、少し耳障りですわ」
ふいに、最側近の侍女、エミリーが口を開いた。
表情は無機質で、まるでお喋りでもするように淡々としている。
「な、なんですって? エミリー、貴女、正気?」
「正気ですわ。毎日毎日、兄君への異常な執着を聞かされるこちらの身にもなってください。それに……エドワード様が昨年末に失くされたという、亡き祖母君の形見の指輪。あれ、本当は王女様が盗んで、街の賭場の借金返済に充てたのですよね?」
茶会が凍り付く。リスリルの顔から血の気が引いた。
「な、何を馬鹿なことを……! 妄言よ!」
「妄言ではありませんわ。わたくしも知っております」
エミリーの隣で別の侍女、ライラが続いた。
「王女様は、お忍びで夜な夜な下町のカジノへ通っていらっしゃる。陛下には『施しのために教会へ行っている』と嘘をついて。昨夜も、騎士の制服を盗んで着替えていたのを見ましたわ。……本当に、吐き気がするほど卑しい」
「やめなさい! 黙りなさい!」
リスリルは立ち上がり、机を叩いた。
だが、言葉は止まらない。
アリアンヌが贈った香水──それは、一定期間、周囲の者が”隠し事”や”本音”を抑えられなくなる、特殊な神経毒を含んでいた。
「わたくし、ずっと不快でしたの。王女様の無駄遣いを補填するために、わたくしたちの給与が削られていること」
「お兄様、お兄様って……本当は、お兄様のベッドに忍び込もうとして失敗したことも、知っていますのよ?」
侍女たちの冷酷な眼差し。
それは、リスリルがこれまで一度も向けられたことのない、剥き出しの軽蔑だった。
「……ああ、なんてこと。皆様、喧嘩はやめてくださいませ」
アリアンヌが、おろおろとしながらリスリルの元へ駆け寄る。
その動きは実に献身的で、絶望する義妹を支える聖母のようだった。
だが、アリアンヌがリスリルの耳元に顔を寄せた瞬間、その声の温度が絶対零度まで下がった。
「……ねえ、リスリル様。今この場で、お義兄様をお呼びしましょうか?」
「ひっ……」
「今、陛下と殿下は、この近くの中庭を通る予定ですの。そこで貴女の『ギャンブル癖』と『窃盗』、そして……実の兄への『不純な動機』の事実をお話しすれば……貴女の望む、清廉な王女としての生活は今日で終わり。修道院へ幽閉か、あるいはもっと酷いことになるかしら?」
リスリルは、隣にいる女が誰なのか分からなくなった。
震える瞳で見上げると、アリアンヌは先程までと同じ、慈愛に満ちた”完璧な微笑み”を浮かべている。
「な……何を、望んで……るの」
「簡単ですわ。わたくしに、二度と牙を剥かないこと。そして、お義母様や、お義姉様がわたくしに何を仕掛けようとしているか、すべて報告すること」
アリアンヌはリスリルの頬を、まるで愛しい妹を愛撫するように、そっと撫でた。
「良いお返事をいただけますわね? ……可愛い、わたくしのリスリル様」
リスリルは、ただガタガタと震えながら、人形のように頷くことしかできなかった。
プライドも、信頼していた侍女たちも、すべてはアリアンヌの指先一つで解体され、粉々に砕け散ったのだ。
その日の夕刻。
エドワード王子がアリアンヌの私室を訪れた。
「アリアンヌ、リスリルが君に謝りたいと言っているんだ。これまでの無礼を深く反省して、君を実の姉のように慕いたいと、泣きながら話してくれたよ。君の優しさが、あの子の頑なな心を溶かしたんだね」
エドワードは心から感動した様子で、アリアンヌの手を取った。
「君は、我が王室の宝だ。本当にありがとう」
「いいえ、エドワード様。リスリル様は、元々とても素直な方ですもの」
アリアンヌは、夫の胸に顔を埋め、密かに口角を吊り上げた。
まずは、一人目──。
解体新書の最初の一ページは、王女の絶望の涙で美しく彩られた。
◇〜第二章:王妃の権威と、汚れなき愛の手紙〜◇
第二王女リスリルが、毒気を抜かれたように自室に引きこもり、アリアンヌの名前を聞くだけで失禁せんばかりに怯え始めたという噂は、瞬く間に後宮を駆け巡った。
「……リスリルが、あんな余所者の小娘に屈するなんて。情けないこと」
豪華絢爛な王妃の私室で、王妃カトリーヌは鋭い爪で自らの扇を弄び、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
彼女にとって、この王宮は自分が支配する盤面であり、アリアンヌは望まぬ駒に過ぎない。
カトリーヌはすぐさまアリアンヌを呼び出した。
部屋に足を踏み入れたアリアンヌは、相変わらず非の打ち所のない礼法で跪く。
その姿はどこまでも清らかで、毒など一滴も持たぬ白百合のようだった。
「アリアンヌ、貴女に折り入って頼みがあるの。我が王家に伝わる聖教典の写本……二十年前の動乱で一部が損壊し、解読不能となっていた箇所があるのは知っているわね?」
カトリーヌは、背後の侍女に目配せをした。
運ばれてきたのは、埃を被り、紙の端がボロボロに崩れた一抱えもある羊皮紙の束だ。
「これを明日の朝までに、一字の乱れもなく完璧に修復し、現代語に訳して書写なさい。……陛下とエドワードは、貴女が我が国の歴史をどれほど深く理解しているか、試したいと仰っているわ。もし仕損じれば、貴女の『王妃としての資質』に疑問を抱かざるを得ないわね」
それは、熟練の司書が数人がかりで取り組んでも一ヶ月はかかる、狂気じみた作業量だった。
しかも、欠損部分は文脈から推測して埋めなければならない。
失敗すれば『不敬罪』、捏造がバレれば『虚偽』。
どちらに転んでもアリアンヌの失脚は免れない。
「……承知いたしました。お義母様のご期待に沿えるよう、身を粉にして尽力いたします」
アリアンヌは淑やかに微笑み、その重い束を抱えて退出した。
カトリーヌは背後で「ふふ……明日の朝、その惨めな顔を見るのが楽しみだわ」と冷笑を漏らした。
だが、その夜。
アリアンヌの私室で繰り広げられていたのは、カトリーヌが想像したような絶望の光景ではなかった。
アリアンヌは特殊な薬液に浸した細い筆を使い、羊皮紙の”裏側”を丁寧になぞっていた。
「……まあ。お義母様、こんなところに大切な思い出を隠してらしたのね」
彼女の瞳は、過労に潤むどころか、獲物を解剖する外科医のように冴え渡っていた。
アリアンヌが嫁いできた隣国は、情報工作と錬金術に長けた国。彼女にとって、紙の層を分離し、そこに隠された”消された文字”を浮かび上がらせることなど、子供の遊びに等しかった。
翌朝。
カトリーヌは、寝不足でやつれ果て、泣きついてくるであろうアリアンヌを確信して、エドワード王子を同席させて待ち構えていた。
「アリアンヌ、無理をしたのではないかい?」
心配そうに声をかけるエドワードの前に、アリアンヌは一分の隙もない美しさを保ったまま現れた。
「いいえ、エドワード様。お義母様から賜ったこの神聖な公務に、心が洗われる思いでしたわ」
彼女が差し出したのは、完璧に修復された教典の写しだった。
エドワードはその出来栄えに感嘆の声を上げる。
だが、アリアンヌはそっと、カトリーヌの目の前にだけ、一通の”修復過程で発見した資料”を置いた。
そして、彼女にしか聞こえなよう声で囁いた。
「お義母様。特にこの、二十年前の政変で『紛失した』とされていたページ……。教典の裏打ちとして使われていた古い書状を剥がしてみたところ、驚くべき内容が記されておりましたの」
カトリーヌの指先がピクリと震える。
「それは……当時の隣国の公爵から、ある高貴な女性へ送られた『愛の手紙』のようですわ。……『陛下の種ではなく、貴方の子供を身籠りたい』。……『今夜、いつもの薔薇の下で』。……まあ、なんて情熱的な不貞の告白かしら」
王妃の顔から、一気に血の気が引いた。
それは、彼女が若かりし頃、現国王の目を盗んで通わせていた密書の残滓。
当時の混乱に乗じて教典の奥深くに隠滅したはずの、彼女の喉元を焼き切る”真実”だった。
「な……貴女、何を……!」
「お義母様、どうなさいました? 顔色が優れませんわ」
アリアンヌは、心配そうにカトリーヌの手を握った。
その握力は驚くほど強く、カトリーヌは逃げることができない。
「ご安心ください、エドワード様や陛下には、この『裏打ちの紙』の内容はまだお話ししておりません。……でも、もしわたくしが過労で倒れたり、あるいは誰かの差し金で不当な扱いを受けたりしたら、あまりのショックに、この手紙を王都中の瓦版に載せてしまうかもしれませんわ。……王妃様が『どこの誰とも知れぬ男の種』を王家に混ぜようとした、その輝かしい物語を」
アリアンヌの菫色の瞳が、至近距離でカトリーヌを射抜く。
「お義母様。わたくしたち、本当の母娘のように、これからも仲睦まじくいたしましょう? 嫁いびりなんて……そんな野蛮なことは、もうなさいませんわね?」
カトリーヌの喉が、ヒュッ、と乾いた音を立てた。
彼女が一生をかけて守り抜いてきた『王妃』という仮面が、アリアンヌという解体魔の手によって、裏側から無残に剥ぎ取られた瞬間だった。
「……ええ。ええ……そうね。アリアンヌ、貴女は本当に……素晴らしい嫁だわ……」
震える声で絞り出したカトリーヌの言葉に、何も知らないエドワードは「よかった! 母上もアリアンヌを認めてくれたんだね!」と無邪気に喜んでいた。
アリアンヌは夫の腕に甘えるように寄り添いながら、心の中で二ページ目のインクを乾かした。
◇〜第三章:完璧な第一王女、ベアトリクスの墜落〜◇
王妃カトリーヌまでもがアリアンヌの軍門に降り、後宮は不気味な静寂に包まれていた。
だが、その沈黙を『無能ゆえの敗北』と切り捨て、自ら表舞台に躍り出た女がいた。
エドワード王子の実姉であり、王家の長女、第一王女ベアトリクス。
彼女は第二王女リスリルのような子供染みた嫌がらせも、王妃のような過去の遺物に縋る失態も犯さない。
他国のアトラス王国へ『聖なる花嫁』として嫁ぐことが決まっている彼女は、その冷徹な知性と非の打ち所のない美貌で、実の父である国王からも一目置かれる『王家の最高傑作』であった。
「母上もリスリルも、毒を扱う作法がなっていませんわ。……毒には、より強い毒を。そうでなくては」
ベアトリクスは、アリアンヌを王宮の北端にある、人影のまばらな離宮の茶室へと呼び出した。
そこは、かつて反逆者が処刑前に最後の一夜を過ごしたと言われる、呪われた聖域だった。
「アリアンヌ、貴女の噂は聞いているわ。……でも、私の前ではその吐き気のする聖女の仮面を脱いだらどうかしら?」
ベアトリクスは、自ら淹れた琥珀色の茶をアリアンヌの前に差し出した。
その茶からは、高貴な花の香りに混じって、わずかに金属的な異臭が漂っている。
アリアンヌはそれを手に取り、じっと見つめた。
「お義姉様、ご自身で淹れてくださったのですか?」
「ええ、特別な歓迎の意を込めて。……飲みなさい。それが王族への礼儀というものですわ」
アリアンヌは、ふっと薄く微笑むと、迷うことなくその茶を飲み干した。
ベアトリクスの口角が、勝ち誇ったように吊り上がる。
「……愚かな。それは数滴で象をも殺す、南方のサソリの神経毒よ。今すぐ喉が焼け、声が出なくなり、五分後には心臓が止まるわ。貴女はここで『不運な急死』を遂げるの。嘆く弟には、私が新しい妃を用意して差し上げるわ」
だが、一分、二分と経っても、アリアンヌの肌に血色の変化はない。
彼女は優雅にカップを皿に戻すと、指先で唇を拭った。
「お義姉様。……このお茶、少々『刺激』が足りませんわ。わたくしの故郷では、これは子供の寝酒に一滴混ぜる程度の気付け薬ですの。毒を盛るのが挨拶代わりの土地から来たわたくしを殺したいのなら、せめて無味無臭の重金属をお使いになるべきでしたわね」
ベアトリクスの瞳が驚愕に見開かれる。
「な……なぜ……ピンピンしているの……!?」
「それより、お義姉様。貴女の『完璧な計画』について、少しお話ししませんか?」
アリアンヌは、懐から数枚の魔導写真――影を記録する特殊な銀板を取り出した。
「お義姉様の嫁ぎ先、アトラス王国の国王陛下。……実はわたくしの従兄なのです。彼は非常に潔癖で、『純潔の象徴』としての貴女を、神の如く崇めて心待ちにしておりますわ。……もし、この『記録』が彼の元に届いたら、どうなるかしら?」
アリアンヌがテーブルに並べたのは、ベアトリクスが夜な夜な、王宮の最深部にある地下牢に繋がれた”美貌の罪人”の首に鎖を繋ぎ、彼を蹂躙し、悦びに浸っている清々しい姿だった。
「ッ……!? なぜ、それを……! 結界は完璧に張っていたはずよ!」
「お義姉様、わたくしの影は、壁の隙間にさえ潜みますの。貴女がその『愛玩動物』を弄びながら、アトラス王を『豚のような男』と罵っている声まで、鮮明に記録されておりますわ。……これが届けば、婚約破棄どころか、我が国は『聖域を汚した裏切り者』として、一夜にして灰にされるでしょうね」
ベアトリクスの顔が、陶器のように白く凍りついた。
「……貴女、何を……何を望んでいるの。金? それとも権力?」
「いいえ。わたくし、お義姉様のその『傲慢なプライド』が、屈辱に染まる瞬間が見たかっただけですの」
アリアンヌは立ち上がり、凍りつくベアトリクスの背後に回ると、その細い首筋を愛おしげに指でなぞった。
「お義姉様。貴女がわたくしの『忠実な犬』になってくださるなら、この記録は一生、地下牢の彼と貴女だけの秘密にして差し上げますわ。……でも、もしわたくしを不快にさせたら……貴女のその美しい首が、広場に晒されることになる。……あら、想像しただけで、わたくし、胸の高鳴りが止まりませんわ」
ベアトリクスは、先程までの冷徹さを完全に失い、床に崩れ落ちた。
彼女が築き上げてきた”完璧な自分”という城が、アリアンヌという解体魔によって、基礎から粉々に爆破されたのだ。
「……わかったわ。……貴女には、逆らわない……。何でもするから、それだけは……」
誇り高き第一王女は、屈辱に震えながら、アリアンヌの靴の先に額を擦り付けた。
その日の晩餐、エドワード王子は驚きに目を見張った。
「ベアトリクス姉上! あんなに他人に厳しかった貴女が、アリアンヌに甲斐甲斐しく料理を取り分けるなんて。……アリアンヌ、君は魔法使いか何かなのか? 姉上がこんなに穏やかな顔をするなんて、初めて見たよ」
「まあ、エドワード様。お義姉様とは、少しだけ『深いお話』をしただけですわ。ねえ、お義姉様?」
アリアンヌに微笑みかけられ、ベアトリクスは肩を大きく跳ねさせた。
「ええ……。アリアンヌ様は、私に『真の謙虚さ』を教えてくださいましたの。……これからは、弟の嫁としてではなく、主として心からお仕えいたしますわ」
震える声で答える姉を見て、エドワードは「我が家は本当に円満だ!」と上機嫌にワインを煽った。
アリアンヌは、テーブルの下でベアトリクスの足先を軽く踏みつけながら、心の中で三ページ目の解体を完了させた。
◇〜第四章:聖域の逆襲、あるいは聖女の失墜〜◇
後宮の三人を支配下に置いたアリアンヌだったが、最後の一人、乳母マーガレットはこれまでの相手とは格が違った。
彼女は王宮の生き字引であり、その張り巡らされた人脈と、エドワード王子の盲目的な信頼は、アリアンヌの想像を超えていた。
ある夜、アリアンヌは私室でマーガレットを確実に仕留めるための最終的な策を練っていた。
そこへ、長年連れ添った忠実な侍女、リンが音もなく歩み寄る。
「……お嬢様。マーガレット様がお呼びです。北塔にて、大切なお話があるそうでございます」
この王宮の中で唯一、心を許せる味方。
そのリンに導かれるまま、アリアンヌは闇に沈む北塔へと足を踏み入れた。
室内には、古い香木と、どこかカビ臭い……執着の匂いが漂っていた。揺り椅子に深く腰掛けたマーガレットが、編み針を動かしながら、獲物を待つ蜘蛛のような笑みを浮かべる。
「アリアンヌ様。貴女が小娘たちを脅している証拠、すべて私が回収いたしましたよ」
アリアンヌが突きつけようとした日記や記録は、マーガレットの合図で現れた私兵たちの手によって、既に暖炉の業火に投げ込まれていた。
「……っ! 全てお見通しというわけですか。ですが、わたくしにはこの場にいるリンという証人が……」
アリアンヌが振り返り、リンに助けを求めようとしたその時。
マーガレットが耳障りな笑い声を上げた。
「証人? おーお、可哀想に。アリアンヌ様、貴女は本当にこの娘を自分の味方だと信じていたのですか? ……リン、こちらへおいで」
マーガレットの呼びかけに、リンは躊躇うことなくアリアンヌの側を離れ、老婆の足元へと跪いた。
その瞳には、主を裏切った罪悪感など微塵もなく、ただ冷たい服従の色だけが宿っている。
「申し訳ありません、アリアンヌ様。わたくしは最初から、マーガレット様が貴女の国へ送り込んだ『犬』なのです。貴女が幼い頃から、わたくしは貴女のすべてをマーガレット様に報告し、今日この時のために牙を研いできたのですわ」
「な……リン、貴女……最初から、わたくしを……」
アリアンヌの背筋に、氷のような戦慄が走る。
マーガレットは満足げにリンの頭を撫で、杖でアリアンヌの顎を荒々しく掬い上げた。
「驚きましたか? 私の網は、貴女が思っている以上に広く、深い。私は各地にスパイを送り込み、情報の川を支配しているのですよ。……さあ、リン。王子に報告なさい。『アリアンヌ様に命じられ、殿下の食事に毒を盛らされた』とね」
満足げに微笑むマーガレットが、さらに言葉を重ねた。
「ああ……それと、貴女の誇る『影』とやらも、この塔に張られた古の対魔結界の中では指一本動かせません」
そう言うと、マーガレットは編み物の手を止め、枯れ枝のような指をゆっくりと、何かを握り潰すように強く握り締めた。
「ぐっ……!? あ、あああ……っ!」
突如として、アリアンヌの背後の影から、言葉にならない苦悶の呻き声が漏れた。
それと同時に、アリアンヌ自身もまた、心臓を直接万力で締め付けられたような激痛に襲われ、その場に崩れ落ちる。
「ふふ……驚きましたか? 貴女と『影』は一蓮托生。こうして私が影を締め上げれば、主である貴女の魂も等しく引き裂かれるのです。ここは私の聖域。唯一の味方に裏切りと呪縛を与えられ、暗闇で処刑を待つ気分はいかがかしら?」
私兵たちがアリアンヌの細い腕を容赦なく掴み、冷たい床に押し伏せる。
リンは無機質な表情で、苦しみに悶えるアリアンヌを見下ろしていた。
アリアンヌの【解体新書】は今、最も信頼していた絆という刃と、逃げ場のない魔の手によって、その根幹から引き裂かれたかに見えた。
◇〜第五章:解体の真骨頂と魂の火葬〜◇
冷たい床に押し伏せられ、影を締め付けられる激痛に視界が火花を散らす。
アリアンヌは脂汗を流しながらも、混濁する意識の底で、ただ一点の"綻び"を待ち続けていた。
「さあ、リン。もう行きなさい。陛下に、この毒婦の真実をぶちまけてくるのです。貴女がこの女に毒を盛るよう命じられたと、その口で証言しなさい」
マーガレットの勝ち誇った声が響く。
アリアンヌの足元に跪いていたリンが立ち上がり、無機質な足音を立てて北塔の重厚な扉へと歩み寄った。
「……承知いたしました、マーガレット様」
リンが大きな鉄の閂を外し、扉を勢いよく開け放つ。
その瞬間だった。
密閉され、強固に閉じられていた空間が外気と繋がり、部屋を覆っていた古の対魔結界が、呼吸をするかのようにほんの一刹那だけ──指先が触れるほどの僅かな時間、霧散した。
(今ですわ……!)
アリアンヌの菫色の瞳に、鋭利な光が宿る。
結界の消失を逃さず、硬直していたアリアンヌの影が爆発的に膨れ上がった。
自身を締め付けていたマーガレットの呪縛を力ずくで引き千切り、影は意志を持つ漆黒の触手となって、周囲に控えていた私兵たちの喉を瞬時に締め上げた。
「なっ……!? 影が動くというのですか!? リン、早く扉を閉めなさい!」
狼狽するマーガレットに、アリアンヌは床に膝をついたまま、不敵な笑みを向けた。
「無駄ですわ、マーガレット様。貴女が今、動揺して飲み下したその唾液……。リンが先ほど淹れた茶に含まれていた『自白の触媒』が、最も深く脳へ浸透するタイミングですの」
「あ、あああああ……!? 脳が、沸騰する……!」
マーガレットが自らの喉を掻きむしり、裏返った声で絶叫し始めた。
「あの子は私の人形なのよ! エドワードの寝室に忍び込み、その産着に頬を寄せる時だけが私の生の実感! 邪魔な女はスパイを使ってすべて事故に見せかけて殺した! あんな小娘に王子を渡すぐらいなら、この手で殺して剥製にしてやるわ! 私こそが、この国の真の支配者、エドワードの『唯一の女』なのよぉぉ!!」
北塔の廊下にまで響き渡る、悍ましい告白。
そこには”慈愛の乳母”の欠片もなかった。
「リン、ご苦労様。完璧なタイミングでしたわ」
アリアンヌの言葉に、扉の前に立っていたリンが、表情を崩さぬまま静かに一礼した。
「な……リン? お前、私を裏切ったのかい……?」
床を転げ回るマーガレットが、信じられないものを見る目でリンを仰ぎ見る。
「マーガレット様。貴女はリンが貴女の『犬』だと思っておいででしたが、わたくしの実家は三年前から彼女を『二重スパイ』として再教育しておりましたの。貴女が彼女の家族を人身売買にかけようとしていた証拠を見せれば、彼女がどちらに付くか、考えるまでもありませんわね」
リンは氷のような眼差しで老婆を見下ろし、懐から一通の書状を取り出した。
「マーガレット様。貴女がわたくしに命じた『王子の毒殺未遂の報告』。……その報告先は陛下ではなく、既にアリアンヌ様の影を通じて、王都中の瓦版屋へと届けられています。明日の朝、この国中の人間が貴女の『日記』の内容を知ることになるでしょう」
「ひ、ひぃぃ……! 違うっ! これはあの女の魔法よ……! 私の聖域が、私の人形があああ!」
マーガレットは、床に這いつくばって虚空を掻いた。
彼女が一生をかけて構築したスパイ網も、歪んだ愛の聖域も、アリアンヌが仕掛けた”二重の罠”によって、根底から崩壊した。
床を転げ回り、己の悍ましい本音を吐き散らすマーガレットに、アリアンヌは氷のような視線を投げかけた。
「……今日限りで、貴女はこの城から消えなさい。大人しく去るならば、貴女の日記を世に晒すことは致しませんわ」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
マーガレットの絶望が、決定的な狂気へと変貌した。
「殺してやる……! 貴女さえ、貴女さえいなければ、あの子は私のものだったのにぃぃ!!」
マーガレットは懐から、細身で鋭利な暗殺用のナイフを抜き放ち、獣のような叫びを上げてアリアンヌへと躍りかかった。
しかし、アリアンヌは眉一つ動かさない。
「リン」
その短い合図と共に、リンが風のように割って入った。
リンはアリアンヌから密かに高度な戦闘教育を受けていた。
流れるような動作でナイフを叩き落とし、老婆の腕を背後に捻り上げると、そのまま顔面を床に叩きつけるようにしてマーガレットを押さえ込んだ。
「離せ! 離せぇっ! 卑しい犬の分際でぇっ!!」
もがき、叫ぶマーガレットを無視し、アリアンヌはゆっくりと部屋の巨大な本棚の前へと歩んだ。
そして、棚に並ぶ重厚な古書を、一冊、また一冊と乱雑に床へ叩き落としていく。
「そう言えば、マーガレット様は”とても珍しいものをコレクションしている”、とわたくしの影が教えてくれまして……」
本の山が崩れた奥に隠されていたのは、おぞましい”収集品”の数々だった。
幾百もの小さな小瓶。
その中には、エドワード王子の赤ん坊の頃からの髪の毛、抜けた乳歯、切り揃えられた爪──。
それらが異様な香油に浸され、ラベルを貼られ、棚を埋め尽くしていた。
「やめろ……。それに触るな! 私の……私の宝物よ! 私の人生のすべてなのよ!!」
アリアンヌは無造作に一つの瓶を手に取ると、背後の暖炉へ放り込んだ。
パリン、と小気味よい音がして、王子の髪が炎に巻かれ、一瞬で灰になる。
「あああああ! やめてぇ! ああ、あの子が燃えてしまう!!」
「これは去年のものですわね。……これは、五年前のもの。……あら、これは去勢の薬の調合記録かしら?」
アリアンヌは無表情のまま、次々と小瓶を炎の中へ投げ込んでいく。
一本、また一本と、マーガレットが一生をかけて収集した”王子の一部”が、業火の中に消えていく。
マーガレットは床に顔を擦り付けながら、もはや言葉にならない悲鳴を上げ、涙と鼻水に塗れて悶絶した。
ついに、棚に残されたのは最後の一瓶だけになった。
そこには、エドワードが初めて歩いた日に切ったとされる、最も古い産毛が納められていた。
アリアンヌがその瓶を火にかざした瞬間、マーガレットの声が裏返った。
「お願い……! お願いだから、それだけは……! 何でもするわ、城も去る、二度とあの子の前には現れない! だから、それだけは焼かないでぇっ!! 許して、許してください……っ!!」
誇り高き聖母は消え、そこにはただ、過去の残骸に縋り付く惨めな老女が泣き崩れていた。
アリアンヌは、その瓶を炎に投じる寸前で止め、冷たく微笑んだ。
「……よろしい。これが貴女の『墓標』ですわ、マーガレット様」
アリアンヌは、その最後の一瓶だけをマーガレットの前に放り出した。
老婆はリンに押さえつけられたまま、震える手でその瓶を抱きしめ、子供のように声を上げて慟哭した。
翌朝、王宮には「マーガレットが急病で隠居した」という知らせが届いた。
エドワード王子は、アリアンヌの膝の上で子供のように涙を流していた。
「アリアンヌ……マーガレットがいなくなるなんて、私はこれからどうすれば……」
「よしよし、エドワード様。これからは、わたくしだけが貴方の母であり、姉であり、妻ですわ。……わたくしだけが、貴方を正しく愛して差し上げます」
アリアンヌは、夫の頭を優しく撫でながら、窓の外を見つめた。
リスリル、カトリーヌ、ベアトリクス、そしてマーガレット。王室を巣食う”女たち”の心は、すべて彼女の指先で折り砕かれた。
◇〜終章:黄金の王と、跪く女たちの楽園〜◇
数日後、王宮の大広間では、隣国との友好とエドワード王子夫妻の門出を祝う盛大な晩餐会が催されていた。
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ中、玉座に座る国王アルフレッドは、慈愛に満ちた眼差しで会場を見渡していた。
彼はこの国を三十年統治し、一度の汚職も、一度の不当な弾圧も行ったことがない。
臣下からも民からも『高潔なる黄金の王』と慕われる、真に善良な人物であった。
「アリアンヌ、こちらへおいで」
国王の呼びかけに、アリアンヌは淑やかに歩み寄った。そ
の足取りは軽く、一点の曇りもない。
「陛下、お呼びでしょうか」
「ああ。君が我が国に来てから、城の空気が驚くほど澄み渡った。エドワードから聞いたよ。君が不慣れな公務に励む一方で、母のカトリーヌや姉妹たちの悩みにも親身に寄り添い、乳母のマーガレットが静かに余生を過ごせるよう手配してくれたそうではないか。……君のような慈悲深く、かつ賢明な娘を嫁に迎えられたこと、神に感謝したい」
国王はアリアンヌの両手を優しく取り、その”清らかな”指先に感謝の口づけを落とした。
「エドワードは少し頼りないところがあるが、君のような聖女がいれば安泰だ。これからも、仲睦まじく、この国を、そして私の愛する家族を支えてやっておくれ」
「勿体なきお言葉ですわ、陛下。わたくし、この温かな家族の一員になれたこと、心より幸せに存じております。……ええ、皆様のことは、これからも『心を込めて』お世話させていただきますわ」
アリアンヌは、頬を薔薇色に染め、恥じらうように微笑んだ。
その姿は、絵画に描かれた慈愛の女神そのものであった。
「はっはっは! 頼もしい。……さあ、家族全員で乾杯しようではないか!」
国王が上機嫌に合図を送る。その瞬間、会場の視線が、国王の背後に並ぶ王家の女性たちへと注がれた。
だが、そこにいたのは、かつての高慢な「支配者」たちの面影を失った、哀れな亡霊たちであった。
王妃カトリーヌは、国王の隣で微笑を浮かべようとしていたが、その顔は蝋細工のように白く、杯を持つ手はガチガチと音を立てて震えていた。
第一王女ベアトリクスは、あんなに誇り高かった背筋を丸め、床の一点を見つめたまま一言も発さない。
第二王女リスリルに至っては、アリアンヌの影が自分のドレスの裾に触れるたび、短く悲鳴を上げそうになるのを必死で堪え、涙目で虚空を仰いでいた。
「……どうした、皆。せっかくの祝いの席だ。アリアンヌに祝福の言葉を贈ってやってはどうだ?」
国王の無邪気な問いかけが、彼女たちにとっては死刑宣告のように響く。
アリアンヌはゆっくりと、彼女たちの方へ向き直った。
「お義母様、お義姉様、リスリル様。……陛下が、あのように仰っていますわ」
アリアンヌが向けたのは、国王に見せているものと同じ、太陽のように明るく、そしてひまわりのように無垢な”笑顔”だった。
だが、その瞳の奥には、彼女たちの喉元に突き立てた『解体新書』の冷たいページが、確かに開かれていた。
(ねえ、お義母様。あの『愛の手紙』、まだ大切に預かっておりますのよ?)
(お義姉様。地下牢の『彼』が寂しがっていますわ。わたくしの言うことを聞けば、また会わせてあげますのに)
(リスリル様。またお兄様に甘えたくなりましたの? ……舌を抜かれたくなければ、静かになさって)
声に出さぬ”解体”のメッセージが、視線を通じて彼女たちの脳髄を焼き切る。
「……あ、アリアンヌ。貴女を……心から……歓迎するわ……」
カトリーヌが、血の味のする微笑みを絞り出す。
「……貴女は……我が国の……誇りよ……」
ベアトリクスが、断頭台へ向かう罪人のような声で追従する。
「お、お姉様……大好き、です……ひっ……」
リスリルはついに堪えきれず、しゃくり上げながら頭を垂れた。
「まあ! 嬉しい。わたくしも、皆様が大好きですわ」
アリアンヌは、弾むような声で言い、国王とエドワード王子の間に収まった。
「陛下、エドワード様。ご覧ください。皆様、わたくしをこんなに愛してくださっていますの。……わたくし、この幸せを、一生、死ぬまで離しませんわ」
国王は「うむ、うむ!! これぞ理想の家族だ!」と満足げに頷き、エドワードは最愛の妻の肩を抱き寄せ、その美しさに改めて見惚れていた。
光り輝く玉座の下で、三人の王女と王妃は、自分たちの魂がアリアンヌという名の”解体魔”に永遠に飼い慣らされたことを悟った。
国王が清廉であればあるほど、彼女たちは彼に助けを求めることができない。
アリアンヌの握る『汚点』を国王が知れば、彼が正しい人間であるがゆえに、彼女たちは容赦なく裁かれるからだ。
『黄金の王』が治める平和な国。
その裏側で、女たちの悲鳴を完璧な微笑みで塗りつぶし、アリアンヌは優雅にワインを口に含んだ。
(さあ、新しい人生の始まりですわ。……わたくしの、わたくしによる、わたくしのためだけの……完璧な王国の……ね)
〜〜〜fin〜〜〜
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