6 影
「ぐっ、あああああッ!」
ミハイの絶叫が夜の中に無情に響いた。
「馬鹿な……この僕が……こんな、雑魚どもに……!」
ミハイは信じられないといった様子で目を見開き、
口から血を吐き出す。
「知るが良い。誰に喧嘩を売ったのかを。」
アスランの、絶対零度の声が告げる。
「クソ、クソ、クソッッッ!!!
まだだ……まだ、終わらんぞ……!
この借りは……必ず……!」
ミハイはよろめきつつ、口から垂れた紫の血を拭う。
身体中に空いた穴から、その血と同じ紫の霧が流れ出る。
「ほぅ、霧に変化か?吸血鬼の十八番だな。」
アスランが嘲笑い、片手を挙げたその時。
「プチっとな。」
キナが指で何かを潰す仕草をした。
ミハイの上に見えない重石がドスンとのしかかる。
そう、ここは夜の領域。チート万歳だ。
「がっ……!?」
ミハイは言葉を失った。身を覆う霧が霧散し、
代わりに全身に凄まじい重圧がのしかかる。
まるで天が落ちて来たかのように、ミハイは床に叩きつけられた。
「こ、これは……!?」
「ほう、【グラヴィテ(重力魔法)】か。」
アスランはくつくつと嗤い、目を細めた。
「き、さまらァァァっ!夜の王たる我等を……っ!」
キナはぴくりと眉を持ち上げた。
ミハイは床に爪を立て、踠く。
けれどその重石はびくともしない。
「さて、と。『借りは必ず返す』だったかな、
吸血鬼殿?」
アスランがミハイへと向かったその時。
「アスラン」
キナの声が制すようにその声を呼んだ。
そしてそのまま優雅な足取りでミハイへと歩き出す。
目線で、「下がっていて」と告げながら。
「……なんだ?」
アスランは訝しげに眉を顰めながらもその歩みを止めた。そして、キナの横顔に知る。
ここは、「夜天の魔女」の舞台なのだと。
「……なんだ、小娘。僕をどうするつもりだ……」
ミハイは苦しげな息の下から、憎々しげにキナを見上げる。
言葉を返すこともなく、コツ、コツ、と足音を響かせ
ミハイへと近づく。
キナは目線だけでその顔を見下ろし、踏んだ。
ミハイの頭を、躊躇なく。
「……小娘、だと?
妾が有り様も見抜けぬ哀れな者よ。
夜の片隅を這いずる虫が『夜の王』を名乗り、
『夜』を眷属としようとは、片腹痛いわ。」
「ぐ……っ!」
踏みつけられた衝撃にミハイから押し潰されたような声が漏れた。声を出そうと唇が動くが、ゼィ、と息が鳴るだけだ。ミハイはその青白い顔を歪め、ギリギリと歯噛みする。
くつり、とキナから嗤いが零れた。
「……足が、汚れるのぅ?」
鷹揚に紡ぐと、キナはその足を下ろし、嗤いを消した。
「我が名は夜天。
誰に楯突いたのか、知るが良い。」
冴え冴えとした一瞥を落とすと、キナはくるりとミハイに背を向け、人差し指を指揮でもするかのように一振りする。
キナの背後、ミハイは増した重力に、声もなく潰された。
振り返ることもなく、夜色はゆっくりと瞬く。
上げた視線に、笑みをえた空色が映る。
アスランはそのままキナへとゆったりと歩み寄り、
その足元へ跪く。
「……汚れたのだろう? 私が、清めてやろう。」
言えば、キナの足を恭しく片手に乗せる。
そして己の金糸を掬い取り、ミハイの気配を
そっと拭い去った。
キナは目を細めて、妖しく笑う。
「苦しゅう、ないぞえ?」
妖艶な笑みを湛えたままその足を床へと下ろし、
キナは、アスランの前にゆらりと屈んだ。
「……ね?ね?どうよ、どうだった?
私めっちゃ魔女っぽくなかった!?
最高に「夜天」してなかった!?ねぇねぇ!」
キナはアスランを見上げながら、
目をキラキラさせて答えを待っている。
アスランはキナに目を合わせ、派手ににやりと
笑った。
「ああ、最高だった。最高に魔女っぽかったし、
最高に『夜天』していた。私の知るどんな魔王よりも
美しく、恐ろしかった。」
「ぃよっしゃあっ!!」
キナは拳を握ってガッツポーズを決め
アスランに向けて、にへっと笑った。
アスランが笑み零れながらその頬に手を伸ばした時、
キナがガバッ!と立ち上がる。
「アスラン!宿のみんなは!?」
宿に戻ってきた時、宿の主人にもすれ違う従業員達にも異変は感じられなかった。
そう思いつつも皆の安否が気にかかる。
キナは夜天の結界を急ぎ解いた。
そこでの出来事のすべての残滓を巻き込み
結界は渦を巻いて消滅する。
そしてキナは廊下へと躍り出た。
アスランが「キナ!」と手を伸ばすのを振り返ることもない。
影の中、『虫』がくつりと、嗤った。
——人々のざわめき。会釈しつつ足早に通り過ぎる従業員。階下から聞こえてくる主人と客の話し声。
キナは安堵の長い溜息を吐いて振り返る。
そして、息を呑んで立ち尽くした。
キナの目に、影に絡み取られ、影に沈んで行く
アスランの姿が映った。
アスランは目を大きく見開き、声もなく呑み込まれていく。
キナと目が合った時、その右手だけが動いた。
差し伸ばされるその手に応えるように、
キナの手も伸びる。決して届かない距離を、
少しでも埋めようとするかのように。
キナはハッと我に返ると、黒の双珠を耳から毟り取り
アスランへと投げつけた。
珠と共に、とぷん、とアスランは影に沈む。
「アス、ラァァァアアンッ!!!」
キナの絶叫が響いた。




