賢者と魔女
アスランは呆けていた。
これを「ボケていた」と読んではいけない。
「ほうけて」いるだけなのだ。
けれどキナは思う。
「ボケるのも時間の問題じゃね?」と。
「ねー、アスランー、そろそろ旅に出ようよー」
ここ数日、もう何度目かわからないキナの言葉に、
アスランは物憂げに瞼を持ち上げ「あぁ……」と
生返事をする。
そして、日当たりの良い窓辺で、ただゆらゆらと
ロッキングチェアに揺られている。
近頃はすっかりそこが定位置で、
根でも生えているのではないかとキナは疑っている。
「ねぇってばー、結界柱ほっといていいのー?」
アスランは再び重たげに目を開け、キナへ視線を向ける。
「もう、いいじゃろ。わしももう歳じゃ。」
(口調までヨボヨボしてる!!!)
キナは焦った。このままでは本当にボケてしまう。
悠久を生きるハイエルフがボケたらどうなるだろう?
万が一、古代魔術なんぞを撃ちまくったら……
脳裏に浮かんだ大惨事に、キナは心胆寒からしめられた。
「……アスラン、
そんなこと言ったら千年前からもう良いお歳だからね?
大丈夫、まだまだ若い!よっ、白皙の美青年!
外見は詐欺じゃないよ!」
「……」
アスランは胡乱な目つきでキナをチラリと見ると、
億劫気に口を開いた。
「……わしはもう用済みじゃ
……わしはもう疲れたよ……」
そして「なんだかとっても眠いんじゃ……」
と続いた言葉に、キナは「ブチッ」という嫌な音が、
自分の中に響くのを聞いた。
「……わかった。わかったよ、アスラン……
今、楽にしてあげるからね……
アスランよ、安らかに!!!」
杖がパシッとキナの手に飛んでくる。
普段、ついぞ使うことのない杖が。
それを高く掲げると、頭上で大きくぶん回す。
キナの頭上、二人の部屋の天井に、夜色の魔力が渦を
巻く。渦は徐々に質量を増し、金の流星が尾を
たなびかせる。
「キナ……!?何を……!」
アスランが慌てた声を上げた時、
朗々とした詠唱が始まった。
「夜天の魔女が希う。
人の身に倦みが宿るは、
歩みを止めざる証左にほかならず。
これを咎とせず、衰えとも呼ばぬ。
星辰よ、秩序を違えるな。
宵闇よ、深みに沈むことなかれ。
我はいま、生命の根幹に触れず、
ただその配列を正すのみ。
積み重ねられし疲労を事象として解き、
意志と肉体の乖離を是正せよ。
鼓動は常の拍へ、
呼吸は夜の律へ帰還せよ。
奇跡を要さず、代償を伴わず、
この瞬間をもって、倦怠を了とする。
——静まれ。
【モード・レスタウラティオ(ただの回復)】」
部屋は夜に満たされ、キナの詠う声だけが響いていた。そして、詠唱の終わりと共に夜はアスランを包み込むように取り巻き、その身の内に消えていった。
「なん……だと……」
それはもはや「回復」というよりも「調律」に
近かった。アスランの体内で乱れをきたした微細な
魔力の流れ、精神と肉体の繋がりの不一致、
それらがまるで精密な楽器を調律するかのように、
次々と正されていく。
「そんな……これは……!」
温かな光が全身を駆け巡る感覚。
まるで長年かけて凝り固まった筋肉が、一本一本
ゆっくりと解きほぐされていくような解放感。
思考がクリアになり、霞がかっていた意識が水面から
浮上するように澄んでいく。
倦怠感が嘘のように消え去り、代わりに純粋な活力が
静かに満ちてくる。
「……そんな、馬鹿な……君、これは一体……
どんな魔法を……」
「え、ただの回復魔法を……」
「この精緻な魔術式、対象への干渉ではなく、
あくまで存在そのものの『正常な状態』を再定義するという高等術式…」
「え、いや、ただの回復……」
「……これはまさか古代の失われた回復魔法……いや、もしや神代の……!?君!いつの間にこんな大魔法を
身につけたんだ……!?」
「あ、いや、その……
夜天の魔女にかかれば、茶の子さいさいでーす……。」
キナは諦めた。
アスランは「お茶の子さいさい」という言葉に
まじまじとキナを見つめると、ふっと身体の力を
抜いて微笑んだ。
「そうだ、君はそういうやつだったな……
いちいち驚いていては身がもたない、ということか……」
そして、ふわりとキナを抱き寄せる。
「すまない、順序が逆だった。まずは礼を。
こんなに調子が良いのは何千年ぶりだろう。
ありがとう、キナ。」
そしてまた、ふわりと身を離す。
「明日からまた旅だ。準備しておきなさい。」
口の端を持ち上げたアスランが、
バチン!とウインクを飛ばしてウキウキと弾む足取り
で部屋を出ていく。
残されたキナは、思った。
やはり、世の中見た目は大事なのだと。
ただの回復魔法もラッピング次第では……
「プラシーボ効果、怖っ……」




