2 祈り
キナのしょんぼりも部屋に着くまでだった。
鍵を開けて部屋へ入ると、早速あちらこちらと二度目のその美を堪能する。
やっと椅子に落ち着く頃には、満腹で舌舐めずりをする猫のような笑みを浮かべていた。
「やっぱり素敵なお宿。アスラン、今日は私がこっちのベッドに寝たいです。」
前回はキナが続き部屋で、アスランが天蓋付のベッドだった。今日は交代だと、天蓋を指差す。
窓辺の椅子に腰を下ろし、ちょろちょろと動き回る
キナを飽きずに眺めていたアスランが笑う。
「好きにすればいい。私はどちらでも構わない。
キナはこれから何かしたいことはあるか?
夕食まではまだ時間がある。」
キナは真剣な面持ちで考える。
「うーん。盛りだくさんな一日ではあったんだよね。
ローブも注文したし、パンケーキも食べたし、
本も……そうだ。今日はこれから読書のお時間にします。」
「うむ。異論はないな。」
二人の静かな読書の時間が始まった。
西日の射す部屋には紙をめくる音だけが響き、
外の喧騒は遠い世界の出来事のように感じられる。
アスランもキナも椅子に深く身を沈め、文字の世界に
潜り込んでいた。
時間はゆっくりと流れ、窓から差し込む光が
赤味を増す頃、アスランがふと口を開いた。
「……キナ、その本は、どんな事が書いてあるんだ?」
キナはまだ半分文字の世界にいるように答えた。
「……魔女の、日記、になるのかな……
それを、日常を捉えた短編集のように、物語仕立てで
綴ってる。でも、どれも、本当にあった出来事なんだろうと、思うよ。」
アスランは興味深げに眉を上げる。
「物語、か。記録を後世に残すためだけでなく、
物語として紡ぐことで普遍性を持たせようとした、
という事か……」
考えながら言葉にしていくようなアスランに、
キナはゆるゆると首を振った。
「私には逆に思えるんだ。
過ごす日々を記録に残しておきたい。
けれどそれが事実だと思われないよう、
物語に仕立てた。
本当なら、
これは彼女だけの物語だったんだと思う。
何らかの巡りで
こうして世に出てしまったけれど。」
「彼女だけの物語、か……」
アスランはその言葉を噛み締めるように繰り返し、
深く頷いた。
「良ければ、久しぶりに読んで聞かせてくれないか?
幼い頃、よく絵本を読んで聞かせてくれたろう。」
「……あれは、あなたが読んでくれる真似がしたかったんだよ」
苦笑しながらキナはページをパラパラと繰る。
「……このお話だけ、主人公が『薬師』じゃない……」
キナはスッと息を吸いこんで語り始める。
「ドライアドは、森の騒がしさに向けて歩き出した。
ありふれた村娘へその身を変えて。私の森を荒らす者は許さないという思いが、彼女を捉えていた。」
「騒がしさは魔獣と争う人間だった。森の秩序の範疇の騒ぎだ。ドライアドは立ち去ろうとした。
しかし、赤い髪を靡かせ大剣を振るう人間に目をとめた時、その歩みも止まってしまった。」
「娘さん怪我はないか、彼は言った。救ってやった者に案じられる皮肉。森の秩序に手を出したことをドライアドは悔いた。そのためにこうして彼に囚われてしまった。」
アスランは、ただ静かにキナの声に耳を傾ける。
「共に街へ行こう、共に暮らそう。ドライアドは彼の言葉に、自分の弱さと愚かさを呪った。この日が来ると知りながら、今日まで彼を退けなかった自分を呪った。ドライアドは逃げることしかできなかった。人の姿を解き木々に溶け、彼が自分を呼ぶ悲痛な声に耳を塞いだ」
「長き時が流れ、森は失われていった。ドライアドは流れに身を任せるのみだった。森と共に消える時、
ドライアドは思った。あの時、理の違う者とひと時を生き、その生が尽きる時に森ごと消える道もあったのではないか。最後の梢から葉が落ちた時、ドライアドは長い夢を終わらせた。」
キナの朗読が終わると、部屋には再び静寂が訪れた。ぱたん、と本が閉じられる小さな音がやけに大きく響く。
「永遠を生きる者が人の子と結ばれる……。
古い物語ではよくある、ありふれた悲恋だ。
しかし、この結末は……」
アスランは独り言のように呟く。言葉はそこで途切れた。もう一度、口を開きかけ、言葉はそこで止まる。
そして。
「……君は、どう思う。
このドライアドは……幸せだったと、思うか?」
キナは、静かにほろほろと涙を零していた。
アスランの問いかけは耳には入っているが、
すぐに反応することはできなかった。
キナはただ、魔女の思いをなぞっていた。
やがて、長い沈黙の後。
「……幸せだったかはわからない。
それを判じるのは、傲慢だと思う。
魔女は……自分が正しいと思う道を選んだ。
例えば、外見を魔術で変えながら、彼と同じ時間を
過ごしているように見せかけることもできたと思う。
でも魔女は、彼が彼の理の中で生きる事を選んだ。
そこに悔いはなかったと思う。
ただ、きっと、このお話のずっと後、
魔女が長い生を終える決心をした時、
魔女は自分に、彼と生きたかもしれないもう一つの
生を、夢見ることを許したんじゃないかな。」
アスランはしばらくキナを見つめていた。
そして、そっと立ち上がると
「……もう泣くな。物語は終わったんだろう?」
キナの手にハンカチを握らせながら、アスランは囁いた。
「物語は終わったけれど、魔女の思いはここにある。
きっと、魔女が本当に記したかったのはこのドライアドのお話だ。
もう、絶対に届かないと知りながら
魔女が、『理由もわからず魔女を失った彼』へ、
綴った物語だよ。」
それは贖罪だったのだろうか。
いや、違う、とキナは思った。
アスランのハンカチを膝の上でギュッと握り締め、
肩を震わすでもなく、ただただ静かに涙を零していた。
——「彼へ綴った物語」
その言葉に、アスランの睫毛が揺れた。
落とした瞼の裏に細く歌う、キナの姿が浮かぶ。
回れ 回れ 糸車
「……これは……祈りだ。
届かぬ相手への、唯一の。」
呟きはほとんど吐息のようで、アスランの目は窓の外
に向けられていた。
夕陽がほんの少しだけ、山の端に名残を残す、
その空へ。
キナはようやく涙を拭い、立ち上がると窓辺へと
歩いた。外は次第にキナの色、夜色に染まっていく。
通りは、食事や酒を求め街に繰り出す人々で溢れていた。
「祈り……
うん、それ以上の言葉はないね。
美しい、祈りだ。」
静かな時間が過ぎる。
空の片隅に心を残していた陽光が隠れた。
ふ、と小さな呼気を落としてから
アスランがキナの背に声をかける。
「……キナ。
露天風呂を楽しみにしていただろう?
温まっておいで。」
静かだった時間が動き出す。
キナはゆっくりと振り向き、淡く微笑んだ。




