第10話 白花が告げる刻
――コーデリア領。
南方の山あいを見渡す丘の上で、アイラの父、ロイド侯は庭園に佇んでいた。朝霧がまだ土を冷やし、遠くの峰には薄く雪解けの名残が白線のように残る。
白い花弁が幾重にも重なる“セフィティナ”が今年は驚くほど早く咲き揃っている。
例年なら盛夏を過ぎて咲き始める花だ。
しかし、まだ初夏にもならぬこの時期に――。
「……時が動き出したか。」
侯は静かに息を吐き指先で花の先をそっと撫でた。触れた花弁は薄氷のように冷たく、それでいて指に残る香りは甘い乳香と雨上がりの草の気配を含んでいる。
かつての伝承が頭をよぎる。
“セフィティナの花が早く咲く年、光を抱く娘が時の楔となる”――。
庭の奥で古い石製の水盤が風に波紋を立て、沈んだ刻印がちらりと覗く。代々の当主だけが意味を知る符。
その娘が誰なのか、もはや言うまでもない。
アイラだ。
娘を救うためには、王国と魔国の盤上を睨み今は動かず備えるほかない。
ロイド侯はこの領の魔術師と騎士たちを密かに集め迎え撃つ準備を整えていた。屋敷裏の訓練場では夜間召集が始まっており、封印倉から古い対結界具が運び出されつつある。
誰を迎え撃つか…
それはロイドにもわからない。
光となる娘を護るために必要なのは…
王国か魔国か……
丘を撫でる風が白花の列を揺らし、無数の花弁が一瞬だけ同じ方向を向いた。
――どちらにせよ我がコーデリア家は王家が忘れし伝承を護るのみ。
ロイド侯は決意を固め、すぐに王都セフィティナへ伝令を送った。
たとえ意味が通じぬとしても、この報せは「ただの花便り」ではない。
王家が気づけば何かが変わるかもしれない。
厩で待機していた伝令騎は封蝋を受け取り、夜明けの靄を裂いて山の道へと駆け出した。鞍袋には同書状を封じた小型の送信石も忍ばせてある。
あの日、王都大聖堂での儀式へアイラを連れて行かなければ王家には知られぬまま伝承を終わらせることができたかもしれない。
白大理石の祭壇に光が降り注ぎ、聖歌が天蓋を震わせた――。
ーー祝福の光
アイラに降り注いだ光は他の娘とは違った。それはコーデリア家だからこそ感じ取れた闇の力への反応。周囲の子女たちに降ったのは金の霧。だがアイラの上には、白炎めいた光柱が立ちのぼり、影が逆光で揺れた。列席していた側仕えたちが息を呑み、神官が祈りを二拍早めたほどに異様な輝き。
わずかに感じ取れた、そこにあるはずのないセフィティナの甘い香りーー
礼拝堂に白花は飾られていなかった。それなのに花房を抱きしめた時と同じ香気が風に混ざった。ロイドは隣席で拳を握り、妻アイシャが語った伝承文句を無意識に胸中で繰り返した。
わかっていた。
祝福の儀まで命を継なぐことのできた娘の運命をーー
この日を境に盤が変わる、と。
花の報せは翌日には王城へ届いた。
伝令騎が渡した便りは衛兵から侍従、侍従長を経て王太子執務室へ。道中で封が割られていないことを示す黒蝋が検められる。
しかし病床の国王には伝わらず王太子ライトのもとで立ち消える。
「……花が早く咲いた?
アイラが囚われているというのに、のんきな花便りなど送ってくるのか……!」
ライトは苛立ちを隠さず吐き捨てた。
机を拳で叩くと、燭台の炎がかすかに揺れる。散らばる地図には魔族領推定境界線が赤で引かれ、アイラ奪還と書き殴られた注記がいくつも重なっている。
彼の青い瞳には焦燥が色濃く宿っていた。
(ロイド侯は何を考えている……?
いや、今はそんなことよりも――魔国からアイラを奪還する。それが先だ!)
苛立つ王太子の隣で補佐官クロードは黙って便りを受け取り、ふと眉を寄せた。紙面の角に付着した白粉、封蝋に混じる草木灰――コーデリア領から確かに発されている。
(コーデリア侯爵が、ただの花の開花を報せるはずがない。
これは、盤面の“合図”か……それとも……?)
だがそれを口にはしない。
ライトの視線が怒りを込めてこちらを向いた。
「クロード、奇襲部隊の準備はどうなっている。」
「すでに精鋭を絞り込み、待機させております。」
クロードは淡々と答えるが、胸中では別の思惑が渦巻いていた。背後の壁に掛けられた王家系譜図の下、第二王子の名を示す札だけが薄布で半ば隠されているのを、彼は視界の端で捉えている。
(殿下が焦れば、こちらの手は打ちやすくなる。
――玉座を守るために、あるいは奪うために今は“駒”を進める時だ。)
その夜。
王城の片隅、使われていない古い書庫。石壁は昼の熱を失い、夜気が紙を湿らせる。高窓から差す月光の筋に、舞い上がった紙埃がゆっくり沈降している。
クロードは灯火もつけず机に広げた羊皮紙に短く筆を走らせる。墨を最小限に抑え、暗視用の淡光石だけで字形を確かめる手慣れた所作。
「白花、南より咲く。境の風、揺らぎ始める。備えは急務。」
その一文を書き終えると蝋を垂らし封をする。王国の紋章ではない、わずかな意匠が刻まれた黒い印章。押印のあとのかすかな冷却音が静寂に吸い込まれた。
「……届けば、駒は動くだろう。」
クロードは誰にともなく呟き、密書を懐に収めた。
すぐ脇の棚板裏には細工が仕込まれており、そこから外部に繋がる伝鳥筒が隠されている。彼は確認せず、指先で木目を一度だけ叩いた――合図はそれで足りる。
その背後で、窓の外の夜空には不気味な風が走り抜ける。城壁の結界紋章が一瞬だけ淡く光った。
(殿下――あなたが暴れれば暴れるほど、盤は整う。
それが“誰のため”かは、まだ言えないが……。)
青い瞳は冷ややかに光り、やがて闇に溶けていった。
甘々シーンはいつ書けるのでしょうか_:(´ཀ`」 ∠):
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狂う程の愛を知りたい〜王太子は心を奪った令嬢に愛を乞う〜
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