西の塔の秘密③
「なんてこと……」
テルニは大粒の涙をこぼしながら、今にも死にそうになっている少女に謝った。ベッドから横抱きに抱きあげれば、首と腕もだらりと下に垂れ、力を入れることもできない。慌てて少女の頭をテルニの腕にのせたが、骨が折れてしまったのではないかとヒヤッとした。テルニの手に触れるのは乾燥した皮とその下の骨。
たまらず涙がこぼれる。嗚咽が漏れ、体が震える。
なぜこんなにも弱い存在を、大罪人のように思っていたのだろうか? なぜ、あんなにも恐れ、憎んでいたのだろうか?
守られるべき存在なのに。愛すべき存在なのに。
そんなことを考えるといつまでも涙が止まらない。
(こんなことではいけないわ。泣いてもなにも解決しないのだから)
テルニは冷静さを取りもどすために大きく息を吐く。泣いている場合ではない。テルニにはやらなくてはいけないことがたくさんあるのだ。
まずは、この少女のためできることを。そう思ってテルニの腕の中の少女を見ると、少女は薄く目を開け、静かにテルニを見ていた。
(……もし、王女さまにツノがなければ)
そこまで考えてテルニは首を振った。その考えはこの憐れな少女の存在を否定しているのと同じだからだ。
(私は、この方がこれ以上つらい思いをせず、健やかに暮らせるようにお支えするだけよ)
しかし、少女はほとんど食べ物をもらえていなかったこともあって食が細く、筋肉がないため自力で動くこともできなかった。体は異様に小さく、四歳と言われれば、そうなのかと信じてしまうだろう。
それに言葉を話すことができなかった。ただ、知っている言葉はあった。「死ね」「悪魔」「役立たず」。マドナが少女にかけていた言葉だ。
尊い命は軽んじられ、早くこの世から消えることを望まれている王女。もし、『子殺しは大罪である』という使徒メルバの教えがなければ、生まれてすぐに父親の手によって、その命は奪われていたであろう。
そしてテルニは思いだす。この憐れな少女は、両親に名前さえ授けてもらうことができないまま、見すてられてしまった姫であるということを。
「さて、私は殿下のことをなんとお呼びすればよいでしょうかね。……そうだわ、ミラというのはどうでしょう?」
「う……」
テルニに抱きかかえられている少女は、唯一動かすことができる目をテルニに向けた。
「ミラとは平和をもたらすという意味があるのですよ」
しかし少女はじっとテルニを見つめたまま。
「今日からあなたさまのことを、ミラさまとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「……」
少女はその言葉の意味を理解しているのか、ゆっくりと瞬きをした。
テルニは涙がこぼれそうになるのをこらえて、ミラを抱きしめる。
「どうかミラさまに平和と平穏を……」
テルニは献身的にミラの世話をした。体を清め、伸び放題に伸びた髪を切って整えた。スープを飲むことから始め、少しずつ固形のものを食べさせ、ある程度の体力が付いたところで歩行の練習。ほとんどひとり言に近い一方的な会話。とにかく言葉を聞かせようと、空いた時間に本を読みきかせ、作業をしているときには子守唄を歌う。
その努力もあって、ミラは少しずつではあるが元気になり、言葉を覚えていった。意思の疎通ができるようになると、徐々に笑顔を見せるようになってきた。
余談ではあるが、実は、テルニはミラと出あって以来、ずいぶんと涙もろくなってしまったようだ。どんなささやかなことにも涙がこぼれてしまって、自分自身に呆れてしまうくらい。ただ、その涙は少女の境遇を悲観したり、憐れんだりしてのことだけではない。
銀色の髪に金色の瞳。肌はカサカサだしその瞳に精気はないが、身なりを整えた少女は、かつてテルニがすべてを捧げて仕えると誓った主、王妃パステルに瓜ふたつのうつくしい少女だったのだ。
パステルが幼いころから侍女として勤めていたテルニには、少女の姿に重なるものがあって苦しく、こんなにも残酷な運命が恨めしく、しかしパステルのうつくしさを受けついだ少女が誇らしく愛おしい。
それに少しずつ成長していくミラを見るのはとても幸せなことだった。ミラが支えなしで床に座ることができるようになったとき。ミラが立ちあがったとき。ミラが壁伝いに歩いたとき。ミラが……。
そんなことでいちいち涙がこぼれるのだ。
そしてテルニは誓った。絶対にこの美しく弱い存在を守りぬく、と。まともな生活ができるように環境を整え、これまでのつらい記憶を幸せな記憶に変えていこう、と。
しかし、劣悪な環境を改善するところから始めなくてはならなかったテルニにとって、すべてを一手に担うことは簡単ではなかった。与えられた予算は西の塔の管理費だけだし、誰かに助けを求めることも許されていない。そのため自身の私財を切りくずして、ミラの生活環境を整え、最低限の生活ができるように努めた。
すべての窓を開け、布という布を洗濯し、ほうきで履いて雑巾で磨く。毎日毎日そんなことをくり返しても、終わることはなく……。
――そんな大変な時間を思いだしてテルニは大きく溜息をついた。
今日までの二年間はとにかく無我夢中で、ただミラにまともな生活をさせることだけを考えてやってきたが、正直に言って先のことを考えると不安しかない。本当に自分のしていることは正しいのか。この場所で人生を終えるミラが本当に幸せなのか。最近はそんなことばかり考えている。
テルニの私財も底をつきそうだし、家族にお金の無心をするわけにはいかない。家族はテルニが再び宮殿で働きだしたことを喜んでくれているから。
ふと、ミラがテルニをじっと見ていることに気がついた。
「どうされましたか?」
テルニが聞くと、ミラは首を大きく何度か振り、テルニの首に腕を回してしがみついた。テルニはミラの背中をポンポンと叩く。
(だめよ、不安そうな顔をしては。ミラさまが頼れるのは私しかいないのだから)
ミラを抱いたまま向かった場所は、高い塀に囲まれた敷地内にある小さな畑。ミラとテルニが作ったその畑には野菜が植えられていて、必要なときにここから食材を調達しているのだ。
「今日の夕飯はシチューですよ」
そう言いながら収穫するには早すぎる、背の低い青菜を土から引き抜くテルニ。
「おにくはいってる?」
ミラもテルニの真似をして青菜を引きぬきながら瞳を輝かせた。
「ええ、今日は特別にウサギの肉入りです」
「ウサギのおにく? わぁ、ありがとう、テルニ」
そう言ってミラはテルニにぎゅっとしがみつく。
「とてもおいしいので期待していてください」
「うん! テルニ、だいすき!」
「フフフ、私もミラさまが大好きですよ」
テルニはそう言って青菜を持っていない手でミラを抱きしめた。
(陛下はご自分の血をわけた娘を、どうしてこんなにも無慈悲に扱うことができるのかしら?)
シベルツはとても素晴らしい国王だった。公平無私で融通が利かないところはあるが、その実直な性格から国民に人気があった。妻を心から愛していて、二人のあいだに生まれた息子たちを心から慈しんでいた。その息子たちは共にうつくしくとても優秀。国を統べるにふさわしい国王とその家族は国の象徴でもあったのだ。
もちろんそれは今も変わらない。妻を亡くしかなしみに暮れる国王に誰もが同情し、それでもたくましく成長していく子どもたちを多くの国民が敬愛している。
その裏で罪なき人たちが、シベルツの剣によって命を絶たれたことなど知りもしないで。
テルニは小さく溜息をついて、自分にしがみつくうつくしい少女を抱く腕に少し力を入れた。
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