クラフィール王国の人々は②
テルニのそのときの感情を言葉にするのは難しい。パステルの死。ミラに対する不当な扱い。非常にミラを切りすてた実の父親。ミラを救えない無力な自分。
何度も自問自答したのはミラが犯した罪。どんなに考えても彼女にひとつの罪もなかった。ヴィッツェルノのツノを持って生まれたから? では、ヴィッツェルノのツノを自らの意思で得て生まれてきたのか? それとも与えられて生まれてきたのか? 与えられたのなら、与えたのは誰だ?
あんな小さな子どもを苦しめることでいったい誰が救われるのか。神はいったいあの小さな少女になにを望まれたのか――。
ミラがアヴィリシア王国へと出立した日以降、テルニはエレンティアラの専属侍女を務めている。エレンティアラは、かつてパステルの侍女をしていたテルニが、自分についてくれることになったと知るととても喜んだ。
テルニはとても優秀で、パステルのことを幼いころから知っているし、母親のような包容力がある。エレンティアラはすぐにテルニに懐いてしまった。
しかし、残念なことにテルニはもう昔のテルニではない。
パステルに仕えていたときのテルニは、穏やかで柔らかい空気をまとった人だったが、今のテルニは冷静沈着で感情を表に出すことのない完璧な侍女だ。パステルを見まもっていた優しい瞳にはもはや輝きもない。
「テルニは私を恨んでいるのだろうな」
パステルを失って十五年がたち、ようやく自分がなにをしたのかを冷静に考えることができるようになったシベルツ。しかし、今もミラがこの国に留まっていたらそれはなかっただろう。
「いまさら、か……」
アレを彼の国に行かせてから、なにかが狂いはじめていた。
二人の息子たちはシベルツに対して少しよそよそしくなった。彼らがなにか言いたそうな顔をして、しかし口を開きかけて閉じるその行動に、どんな意味が込められているのかだってわかっている。しかし、彼らがそれを口にすることはないだろう。彼らは優しいから。
「優しすぎるがゆえに、アレが親殺しという大罪を犯したと知っていても情けをかけてしまう。愚かなことだ。イグナーツは国を統べ、エンディガは兄を支え国の繁栄に力を注がなくてはならないというのに、偽善の同情など無意味だとなぜわからない……」
そもそも、顔さえ知らない妹だ。そんなものに憎むことはあっても罪悪感など抱く必要はないというのに。
「うまくいかないものだ」
そう言って溜息をつく。
「ハイム、なにか……いや、さすがに昼から酒はないか。……濃いお茶をくれ」
「かしこまりました」
喉が張りつくような渇きを感じていることに気がついて、首を振る。どうやら先ほどのエレンティアラとの会話は、シベルツに大きなストレスを与えたようだ。
「いまだにあんなことを考えていたなんて」
エレンティアラは、兄たちほど双子の妹のことに関心を示してはいないように見えた。彼女の関心は、アヴィリシア王国のペンデンス公爵子息であるルーシェルに向いていて、いつまでも夢のような話ばかりしている。どんなに望んでも決して叶わないことなのに。
いったいエレンティアラはどうしてしまったのだろうか? 優しくてうつくしい理想の娘に成長していたのに、どこかでわずかな狂いが生じたのか、素直なのにその素直さをそのまま受けとっていいのか悩むときがある。
「いや……ばかだな、私は。エレンティアラに限って……」
彼女も本当は苦しんでいるはずだ。自分のために妹を犠牲にしてしまったと思って、人知れず涙を流しているかもしれない。ペンデンス公爵子息に思いを寄せているふりをして、本当は妹に会いに行こうとしているのかもしれない。エレンティアラは優しい子だから。
(アレさえ生まれなければ。そうだ、あんなおぞましいものが生まれなければ、賢く優しい子どもたちが心を乱されることもなかったし、そもそも母親を失うこともなかったのだ)
机の一緒を見つめ、そんな思考にとらわれていると、目のはしにティーカップが置かれたことに気がつき、はたと我に返ったシベルツ。拳を固く握りしめ、手の平に爪が食いこんでいた。
「陛下、少しお休みになられてはいかがですか?」
側近のハイムはそう言って、ラム酒の入った小さなピッチャーを湯気の上る紅茶の横に置いた。
業務に支障が出ない程度に酒の香りを楽しむことくらいは許されるだろう、というハイムなりの気遣いだ。
「……ありがとう」
シベルツは、そう言って紅茶にラム酒を注ぎ、静かにカップに口を付けた。そして、ホッと息を吐きながら、背凭れに背を預けて目を閉じた。
体の中をゆっくりとめぐる熱を追いかけながら、悪感情に乱れた心を落ちつけようとしているようだ。
その様子を複雑な心境を隠して見つめる側近のハイム。
(陛下は愛情深いお方だ。王妃殿下のことをいまだに深く愛されているし、ご家族をなにより大切になさっている。こんなに時間がたっていても、妹姫さまを許せないものそれゆえか。しかし……)
ハイムがミラと馬車の中で一緒に過ごした期間は二か月ととても短いが、それでもミラの人となりをずいぶん知ることができた。彼女はとても純粋で、とてもか弱く、それなのにとても強い心を持っていた。それに、ツノを斬る前のミラはパステルの面影を残すうつくしい少女だった。
(もし、陛下が一度でも妹姫さまと向きあえば、陛下が抱えている苦しみを取りのぞくことができたかもしれないのに。いまさら遅すぎるか……)
それすれば、イグナーツやエンディガともこれまでと変わらない関係でいられたのかもしれないのに。
シベルツは、イグナーツとエンディガがミラに対して同情をしているが、実はそれだけではない感情があることまでは気がついていない。
兄弟がミラに対して身内の情を持っていたのかと言えばそうではなかったが、それでもなにも知らない少女のツノを父が斬ったという事実は、彼らに大きなショックを与えた。
しかし、そのショックは時間と共に父に対する嫌悪に感情を変えた。
さらに、咎人に対する罰として行われるツノ斬りを行い、顔どころか存在さえも知らなかったとはいえ、エレンティアラの身代わりとしてもう一人の妹がアヴィリシア王国に送られたという事実は、彼らの心に徐々に重りとなってのしかかり、罪悪感に駆られるようになった。
王族としてあらゆるものを享受し、幸せな時間をすごしているあいだ、憐れな少女はあの薄暗い西の塔に閉じこめられていたと彼らが知ったのは、ミラが送りだされる前。実は、密かにその姿を見ようと塔の周りをうろついたこともあったが、真っ暗な部屋の中を外からうかがい知ることはできず、人影さえも見ることはできなかった。
とても人が住んでいるとは思えない薄暗い塔に、妹で一国の王女が住んでいるなんて、あまりに非現実的で、にわかには信じがたいことだった。
そもそも、彼女の罪はなんなのだ。なぜ、彼女は存在しているだけで咎人とされたのだ?
もし自分たちが幼い子どもであれば、シベルツのように頭から妹の存在を否定し憎んだかもしれない。しかし、冷静に物事を考えることができる今はそんな考えに至る。
父は愛する妻を失ってかなしみ苦しんだだろう。でも、その愛する妻が産んだ娘なのだ。その娘に、怒りではない感情は生まれなかったのか? エレンティアラや自分たちに向ける愛情を、憐れな妹に少しだけでも向けることはできなかったのか?
彼らはそんな自問自答を繰り返すようになった。
これまで感じたこともない複雑に混ざりあった濁色の父に対する感情が、彼らの心を染めていく。それと同時に、会ったこともない妹に対する思いが膨れていく。シベルツとは違う感情を見たこともない妹に抱き、しかし、それには口を閉ざして一人思いを馳せる。
もし、妹に会えたら、まず兄であると言おう。そしてこれまで存在さえ知らなかったことを許してもらい、いい関係を築いていこう。いずれは両国間を気安く行き来できるような関係になって、これまでしてあげられなかったことをたくさんしてあげよう。なんて、お気楽で、自分本位な夢物語を想像してみたりして。
読んでくださりありがとうございます。