弱きものを踏みつける人たち⑧
カサブランカの部屋にミラがやってきたとき、カサブランカもまた鏡台の前で身なりを整えていた。
カサブランカの朝はとても遅い。そのためもうすぐ昼になろうとしているこの時間でも、ナイトドレスに薄手のガウンを羽織っただけの姿。そこへ、勢いよくドアを叩く音が聞こえて、驚いたカサブランカが少し不機嫌な顔をした。しかしその静かな朝を騒がしくしている主が、かわいい子リスだと知って表情が一気に緩む。
すぐさま入室の許可を出すと、勢いよくドアが開いてミラが飛びこんできた。
「ブランカさま!」
鏡台の前に座って髪を整えていたカサブランカに、抱きつかんばかりの勢いで近づいてくるミラを、慌てて手で止めようとしたソノマだったが、それをカサブランカが制して、勢いよく抱きついてくるミラを抱きとめた。
「まぁ、ミラったら。朝から元気ね」
「はい! 私、うれしくて」
そう言ってミラはカサブランカに自分のツノを見せた。
「え……? ツノ?」
斬られたツノはもう再生しないのではなかったか?
しかし、どう見ても新しいツノが生えてきている。
「まぁ、本当だわ。かわいらしいツノが生えているわ。それに、とてもきれいね」
「へへ……」
その小さなツノは白く輝いて見える。
「……そう言えば、あなたの髪、色が少し変わってきているわね」
薄鈍色の髪が白っぽく、いや銀色っぽく見える。
「薄々思っていたけど、瞳も黄色っぽくなってきているわ」
「え? やっぱりブランカさまもそう思いますか? 私もそうかなと思っていたんです」
そう言ってミラが顔をぱぁっと輝かせた。
やはりそういうことだったのか、とカサブランカは納得したようにうなずいた。
「もしかして、強く生命の力を感じているのではない?」
カサブランカに聞かれて、ミラは少しのあいだ考えてからうなずいた。
「ツノが生えてきたことで、失われた生命の力が戻ってきたのだわ」
(いえ……違うわ。それだと多くの矛盾が生まれてしまう。そもそも斬られたツノは生えてこない、というのは先人たちが証明しているはず……)
もしかしてミラが規格外とか? それともあのツノだからなのか?
しかしカサブランカは小さく首を振って、その疑問を払った。答えの出ないことに頭を悩ませても意味はないのだから、とにかく今は目の前で起こったうれしい出来事を素直に喜ぶべきだ。
「おめでとう、ミラ」
「ありがとうございます!」
ミラの瞳がキラキラと輝きその喜びを全力で伝える。ツノが生えてきたことを喜ぶのはきっとミラだけだろうけど。
「ヴィッツェルノのツノというのよね?」
「はい。使徒メルバと同じツノです」
「そう。強い力があるというし、きっとあなたの助けになってくれるはずよ」
「私を……」
ミラを助けてくれるツノ。そうだった。ヴィッツェルノのツノはこれまでもミラを助けてくれていた。
「どうしたの?」
ミラが考えこんでいることに気がついて、カサブランカが顔をのぞき込む。
「ミラ?」
名前を呼ばれて顔を上げると、カサブランカと視線がぶつかった。
「あの……私……」
実は考えていたことがある。ずっと前にテルニに言われた、力を使うと死んでしまう、ということについて。
ミラは長いあいだ生命の力を使いつづけて命をつないできたのだ。命をつなぐためにどれだけの力を使っていたのかはわからないけど、少なくとも、藁に火を点けるよりずっと多くの力が必要だっただろう。西の塔の扉を壊したときは?
もしかしたらもう自分の人生は終わりが近づいているのかもしれない、と考えるほうが自然ではないか。しかも、ツノが生えてくることによって容姿に変化が生まれるというのなら、ツノありはいまだに生命の力を使いつづけていることになる。
それなら、自分の命はあとどれくらいなのだろう。死ぬって、どんな感じかな……。
そう思ってもじもじと両手を忙しなく動かしている。
「なにも心配はいらないわ。話してみて」
カサブランカはミラの手を引いてソファーに座り、ミラを自身の横に座らせた。
「あの……」
ミラは、気持ちを決めたのか顔をあげるとカサブランカを見つめ、ゆっくりと口を開く。
「私……テルニと出あう前まで、食べ物も水もほとんどもらえなかったんです」
「――っ!」
カサブランカは眉間にしわを寄せ、ミラの手を握っている自身の手を強張らせた。
「つまり、育児放棄をされていたということなのね」
ミラはぎゅっと手を握って小さくうなずいた。
「それは、いつからなの?」
「……よくわかりません。でも、気がついたときにはずっとベッドに寝ていました」
カサブランカはあまりに衝撃的な言葉を聞いて、背中に冷たいものを走らせた。
「つまり物心がついたときには育児放棄を……? なんてひどい……! ありえないわ」
育児放棄どころの話ではない。確実にミラを亡き者にするつもりであることは明白。そして、それを知っていたのか知らなかったのか、実の父親である国王は放置していたということになる。
「……あなたは食べ物を食べず、水も飲まずに生きのびた、と言いたいのね」
「……」
ミラは小さくうなずいた。
ただ、今ではミラには当時の記憶がほとんどない。つらい時間だったことはわかるが、自分がそのときなにを考え、どんなふうになにもしない時間をすごしたのかを思いだすことができないのだ。
特にマドナの顔や、彼女に言われたことやされたことはまったく思いだせない。テルニも自分と出あう前のことは一切話題にしなかった。きっとミラに過去を思いださせたくなかったのだろう。
「そう……」
カサブランカは複雑そうな表情を浮かべ、ソノマも顔を曇らせた。
人の能力の中につらい記憶を封印するというのがあるそうだが、ミラはそうやって自分を守っていたのだ。
カサブランカは、早く大きく動く心臓を落ちつけようと深く息を吸ってゆっくりと吐いた。
「生命の力は……すごいのね」
まさか命さえもつないでしまうなんて。
「あなたもそれを理解していたのね」
カサブランカの言葉にミラがうなずく。
「ここに来たとき、一週間食べ物がもらえなくて」
「……」
カサブランカのもとにやってくる前の話だ。
「でも、前のときみたいになにも食べなかったら、今回は死んじゃうかもしれないと思って、西の塔を出たんです」
ツノが斬られてしまったことで生命の力が極端に減ってしまい、体にも変化が現れた。それだけで、ツノが自身の体に大きく関係していると知るには十分だった。
「私たちが思う以上に、ツノはあなたたちにとって重要なのかもしれないわ」
カサブランカはそう言いながら、ふと、生命の力を使うツノありは短命であるという言葉を思いだす。
命をつなぐ力、と捉えれば素晴らしいが、生命の力を削って命を長らえさせたのなら、それはミラの寿命を削ったということなのかもしれない。つまり、生命の力の源が寿命だと考えれば、短命であることの理由にもなる。
(結論を出すことはできないけど用心するに越したことはないわ)
「……ミラ、もう生命の力を使ってはだめよ。少なくとも、力があなたにどんな影響を与えるのかがわかるまでは」
「はい。でも、私自分では使っているつもりはなくて」
確かにそうだ。ミラが自分の意思を持って力を使ったのは、暖炉の火をつけたときや、西の塔の扉を壊したときだけ。
髪や瞳の色、命をつないだことはミラが意識してそうしたわけではない。つまりミラの意思とは関係なく力が使われていることになる。
それを理解した瞬間、カサブランカの全身にゾワッと悪寒が走る。
(もっと詳しく生命の力について調べないといけないわね)
取り返しがつかなくなる前に。
読んでくださりありがとうございます。