錯覚
京子という不可解な入院患者のトリックを暴こうと決めた健太郎は、その患者について調べ始めるが・・・。
謎は更に深まって行く。
「あの患者。気に入らない事を言うと、恐ろしいんだ。騒霊現象を起こすからな。」
研究室に戻った健太郎は、一人で今川教授の言葉を反芻していた。
新しい研究棟にあるその研究室はまだ、隣や向かいに空室もあって森閑としていた。健太郎は講師となって、初めて単独の研究室を与えらたばかりだ。真新しいその一室の本棚には空きスペースが目立ち、飾り気一つ無く、まだ殺風景だった。窓からは、国際理科大学の本部棟が遠くに望まれ、眼下には行き来する学生たちの姿が雑然と見えた。
健太郎はこの研究室の主となって、小気味の良さを覚えながら、コーヒーカップを片手に不可解な患者、京子について考えを巡らせた。
今川教授も変だ。あんなトリックを見破れずに恐ろしがっている。今朝、京子の病室で教授と二人でご馳走になった豪華なステーキの朝食は、明らかに京子のトリックだ。それを真に受けているなど、冷静で鋭い観察眼を持つ、今川らしくも無いでは無いか。自分だったらコーヒースプーンの一つも、京子の病室から持ち帰り、それを検査して製造元を調べ、明らかにそれが、普通に売られている既製品であることを証明してやるのに。今朝は京子から挑発的な言葉を投げかけられてそれが叶わなかったが、次の機会にはきっと、京子が騒霊現象で出した何かを持ち帰り、検査に出してやろう。こんな事は、いとも簡単な事なのに、と健太郎は考えた。
京子と同じ様に色々な物体を、例えば宝石や首飾り、指輪などを出現させるトリックで、人を騙す自称霊能者もいるでは無いか、いつか京子も同じ事をして見せるに違いない。その時こそがチャンスだと。
それにしても、何故今川教授は、あすこまで京子と言う患者を特別扱いするのだろう?本当に京子の起こすと言う、ポルターガイスト現象を怖れているのだろうか?若しもそうだとしたら、恩師らしくも無い。
ポルターガイスト現象などと言う荒唐無稽な事を、今川教授ともあろう人が怖り、それを理由に京子を特別扱いにして、まるで腫れ物にでも触れるかのように振る舞う様子は、幾度考えても健太郎には、何とも不可解なのである。
コナン・ドイルが生きた十九世紀の英国でも、近代スピリチュアリズムという心霊主義の一種が流行した。ドイルはそれを信じ、交霊会に出席し、また、自身でも心霊についての研究を行い、これに関する著作を残している。
騒霊現象もこの流行によって有名になった事象の一つで、ポルターガイストとして知られるようになった。
が、近代スピリチュアリズムによる、霊体の出現や、心霊写真、交霊会の席で起きる騒霊現象などは、同時期の科学者らによって、悉くそのトリックが暴かれた。この事象の解明に乗り出した科学者の中には、当時ノーベル賞級の、例えばウイリアム・クルックスなどもいた。
霊能者を称する人達は、様々のトリックを用い、心霊現象を見世物に金儲けをしていたのである。腹話術や人体模型を使い、交霊会の出席者を巧みに騙し、また中にはシーツを被った人間を、幽霊に見立てたものさえあったのである。
信用を失った近代スピリチュアリズムは、こうして終焉を迎えた。
健太郎は精神医学に、ユング心理学や、超心理学の手法を採り入れたいと、その研究に勤しんでいただけに、京子が行う、騒霊現象に見立てたトリックには、憤りを覚えていた。自分の研究が汚されてる気がしてならなかったのだ。
精神医学にも限界がある事は、健太郎も自覚している。だから、解明できないところを従来の精神医学の手法だけに拘るのではなく、ユング心理学が取り扱う、例えば「気」の研究例や、アメリカで盛んな超心理学が取り扱う不可解な事象を、科学的な手法で解明したいと考えているのである。
次回、京子の診療日は、明後日の午後だ。まだ時間にも余裕がある。京子の事例について調べる時間はあるだろう。
今川教授は健太郎に後、もうに三回は付き添い、健太郎をサポートしてくれると言っている。今川にして見れば、若く率直な健太郎の性格が、京子の機嫌を損ねては大変だと心配している事を、健太郎も分かってはいた。
「くれぐれも、あの患者を怒らせるような事はしないでくれよ」と今川は言っていた。
今川は、京子を怒らせると、物凄い騒霊現象を起こして、相手を懲らしめに掛かるのだと言うのである。
「そりゃあ、もう、ラッパは鳴り出すし、病室の中は明かりが明滅し、不気味な大声は響き渡るし、物は散乱するし、大変な騒ぎになるからな。あの患者は悪魔の顔を持っているんだから」
健太郎が京子を診察するコツを覚えるまでは、だからどうしてもあと、二三回は尽きそわなければいけないと、今川は、心配をするというよりも、健太郎が起こしかねない騒ぎについて、怖れていた。
健太郎にして見れば、そんな今川の懸念を他所に、事実を解明し、京子の起こすその騒ぎを何としてでも、トリックだと暴いてやりたい気持ちなのであった。大体、健太郎が診た限り、京子には重篤な精神疾患は認められない。強いて言えば勝ち気で支配欲が強く、性質の悪いいたずらで周囲の気を惹こうとする、行為性人格障害の可能性はあるかも知れないが、それを理由に入院をしなければならない程では無いと思われた、
それなのに、どうして病院側も、京子をあのままにして置くのか、健太郎には分からなかった。
不可解に思える幾つかの事を整理しようと、一人研究室で、こんな物思いに耽っていた時、健太郎の脳理に突然、病室で先刻京子が言った「私にはこんな事、何でもないんですよ。いつもの事なんですから」と言う声が過ぎった。これが気になって、健太郎は京子のこの声を振り払おうと、コーヒーカップに手を伸ばしかけた。
その時、ドアをノックする音がした。
「はい」健太郎は椅子に掛けたままノックに応じた。然しこの健太郎の返事にも係わらず、ノックの音は、先刻より強く急かすように続いている。
「はい」と、今度は、健太郎が席を立ってドアへ向かった。ノックの音はまだ続いている。宅急便か何かが急いて、こんなに乱暴なノックをするのかな、と思いながら健太郎はドアを開けた。が、そこには誰もいなかった。おや、と思った健太郎は廊下に出て左右を確認してみた。だが、廊下は森閑と静まり返って、人っ子一人いない。何だったんだろう、と思いつつ、建物に欠陥でもあるのだろうかと、健太郎が研究室内へと向き直ると、机の向こうに入院患者の京子が腰を下ろして、こちらを見ているでは無いか。
健太郎には訳が分からず、「どうしてここに!?」
言い掛けて健太郎は軽い眩暈を感じ、視線を床に落とした。
「私には、こんな事、なんでもないんですのよ」と、また京子の声がした。
気を取り直して健太郎が、視線を再び机のある方へ向けると、京子の姿はかき消えていた。
健太郎は、廊下へ出てまた先刻と同じ様に左右を確認したが、長い廊下のエレベーターのある側にも、その反対側のどこにも京子はいなかった。エレベーターとは反対の方向は、行きどまりで、壁があるだけだ。そこからは、鼠一匹出入りできるはずがなく、エレベーターが健太郎のいる、この七階に来るまでには、それなりの時間もかかる。
健太郎は狐に鼻を抓まれた気分で、暫くはその場に呆然と立っていた。
若しかすると、今川教授が言っていた事は本当の事なのか?否、そんな事はあり得ない。健太郎は混乱したまま漸く、自分のデスクの前に腰を降ろして、普段はあまり吸わない煙草を取り出し、火を点けた。
(続く)