京子
健太郎は初めて謎の現象を引き起こすと言う女性患者に引き合わされる。
その女性患者が初めにした事は?
「え!・・・」と戸惑うのを他所に、今川は重ねて言った。
「だからさあ、興味深いだろう?その変わった患者の面倒を頼みたいんだ。良いだろう?健太郎よ。お前は心理学に興味があって、造詣も深い、な!頼む」
健太郎はまだ決めかねていたが、恩師に頭を下げられては断れないな、と思った。
ここまで熱心に、大学へ戻って来て欲しいと言う、恩師の今川教授に対してとうとう健太郎は、
「大学に帰るのは本望ですし、その不思議な患者さんにも興味がわいてきましたから。はい、承知しました先生」と、返事をせざるを得なかった。このように快諾はしてみたものの、まだ自信があると言う訳では無く、寧ろ健太郎には今川教授が言う患者に対しての、戸惑いや不安が残っているのだった。
勤務していた楠坂総合病院を退職し、母校の国際理科大学の医学部へ戻った健太郎は、その日からその附属病院が新たな勤務先となった。
母校の附属病院は大学の敷地の中にあり、大学の講師に昇格した健太郎は、研究を主にしながら、臨床医として今川の言う患者の診療にあたる事となった。講師への昇格は、恩師の今川教授が計らってくれたのだ。
健太郎は、週に三日間、午前中だけ今川の言う患者の診療に当たり、様々の不可解な事象を引き起こして困惑させられるその患者の相手をしながら、患者が起こすこの不可解な事象の原因を見出して行こうとするもので、健太郎にとって挑戦的な事だった。
初日の今日は、恩師の今川教授が健太郎を患者に引き合わせて、今川が主体となり診療に当たるので、健太朗にはその様子を見て患者の性格や症状を、脇で観察して欲しいと言う。簡単に言えば、顔合わせがてら健太郎には、患者の視察に当たれと言うのである。
今川教授の研究室に顔を出すと、前以て言うよりは実際の様子を自身で観て欲しいのだと、今川は余り多くを語らずに、コーヒーを健太郎に勧めた。
「今日からお前も本学の講師だ。どうだい?自分の研究室を持ってみて」今川はこれから間もなく附属病院で出会う事になる患者のことなど忘れて、コーヒーを飲みながら世間話を始めた。
初めて自分の研究室を持てた事は、全く新しい経験で胸も高鳴った。これで、一国一城の主にでもなった気がしているのも確かだ。然し健太郎には、まだ何も、患者についてのデータが無かったのである。今川は健太郎がその患者を実際に「見て」、自分がどう思うか、午前の診療が終わったら聞かせて欲しい、としか言わないのだ。
「先入観をもって欲しくないからね」と言うのがその理由である。
午前八時半を少し回っても、今川は健太郎が今度新たに講師に加わって、今川が受け持つ講義の一部と、健太郎の開く新しい講座との連携で、今川研究室もいよいよ発展だなあ、と喜んでいる。良かった良かった、と元気が良い。
健太郎は、朝からこのようにはしゃいでいる恩師の今川を、却って何か妙にわざとらしく感じられてならなかった。
今川は矢張り健太郎に、これから紹介する患者の事を聞かれたくないのだ。どうしても、その病室へ連れて行き、実際に引き合わせるまでは、患者について、何も語らないつもりでいるのだ。
健太郎はもう、何も聞こうとは思わなくなった。診療開始時間は間もなくである。2人はこれから国際理科大学の附属病院にある、その患者の個室まで行かなければならないのだ。
健太郎は今川と二人で大学の構内を歩いていた。
健太郎や今川のいる研究棟から、同じ敷地に建っている附属病院まで行くのには建物の配置の都合、上時間がかかるのだ。塀で仕切られた附属病院の建物は、研究棟から行くとどうしても、遠回りをしなければならないのだ。診療開始時刻の午前九時きっかりに、患者の待つ部屋までは行けそうにない。遅刻してしまっては印象も悪くなるのでは無かろうかと、健太郎は気を揉んだ。
その患者の病室は、11階建ての附属病院本部棟の最上階にあった。長い診療時間になるので、2人は予め手洗いを済ませて、午前中は患者の病室から、出来る限り中座をする事が無い様にと、準備を整えた。
今川が先に立ち、病室の入り口扉をノックし、声を掛けた。
「おはようございます。入っても構いませんか・・・?」と今川は、引き戸式の入り口扉を静かに少しだけ開いて、声を掛けている。
「どうぞ」、と中から、潜もった声がする。今川はそこで、入り口扉を大きめに開き、中へ入った。健太郎も今川教授に着いて行く。
「おはようございます、中屋敷さん。こちらは、今日からこちらへ伺う事になった、橋本健太郎講師。どうか宜しくお願いします。橋本君はあなたに寄り添う事が出来ると思って私が頼んだ程の、優れた研究者ですから、きっと中屋敷さんのお役に立てると思います。橋本君、こちらが中屋敷京子さん。
今日から君が、中屋敷さんの正式な担当医だが、今日は私がいつも中屋敷さんにしているように接するので、君が何か意見したければすぐに、教えててくれ。君が担当医なんだから、遠慮しないでねえ。」今川が言った。
「はい、では先生の診療を拝見して後学のため、しっかりと学びたいと思います。よろしくお願いします」健太郎が答えると、中屋敷は急に笑いながら「あら!こちらのお若い先生で、私の事がお分かりになりますの?私でさえ私の事が、分からずにおりますのに」と、しっかりした声で今川に尋ねてている。それは、健太郎にわざと聞えよがしの挑戦をして来るような態度だった。
確かに変わっているな、まるで私の事を、取り調べに来た刑事か何かみたいに思っているのか?健太郎は、こう言う高飛車な出方の中屋敷京子と言う患者の事が、途端に嫌になった。患者が自分に喧嘩を売っているか、挑戦しているみたいでは無いか。健太郎はただ精神医学の立場から、中屋敷京子と言う新しい患者の世話をするためにここにいるのに、その健太郎に対して、挑戦をして来るような態度の中屋敷に対して、健太郎は初めから困惑した。
中屋敷は健太郎の内心を見透かしたかのように更に挑戦してきた。
「こちらのお若い先生から、今私は嫌われましたわ!それも、二度!そうでしょう先生?あなたは今、心で二回、私に対して嫌悪感を感じていましたね?」京子の言葉には、健太郎の心の中が手に取るように見えている、感じられているのだぞ、とでも言わぬばかりの言葉に、健太朗は逆に、素直に応じて見る事にした。
「おや!中屋敷さんは、読心術でもなさるのでしょうか?」
「まったくですねえ!私も驚きました。橋本講師の心の中が、本当に見えているみたいにおっしゃいますからねえ!」今川もここで口を挟んで、中屋敷と健太郎との間を取り持とうとした。
「今川先生はさすがに年季が入っていますわ。心が複雑で感じる事も見透かす事もできませんからねえ。でも、素直でお若いのね、橋本先生は」と京子は明らかに健太郎を自分よりも格下に置きたいと言う意志を伝えて来た。
今川は、ここで健太郎の手の内を明かす事は避けた方が良いと判断して、健太郎の事を若くて経験の足りない新米医師というように言った。「そうそう。橋本君はまだまだ。若いのであまり揶揄わないでねえ、中屋敷さん。お願いしますよお・・」と苦笑して見せている。
「ねえ、今川先生?ステーキが食べたくありません?血の滴るような最高においしいの!ねえ!たべたいわよねえ。朝ご飯だってまだなんでしょう?橋本健太郎講師って、そんなに固くならなくても良いのよ。奢ってあげる。ねえ!橋本講師!」中屋敷はこのような、妄想癖のある患者だったのか、と、健太郎は理解して、やっと少し心が落ち着いて来た。この患者の傾向を。少しだけ掴むことが出来たからである。そこで少し中屋敷に答えを与えて見ようと、初めて健太郎から口を開いた。
「それは、おいしそうですねえ!無一度おっしゃったら、僕はもう、中屋敷さんが言う様なのを食べたくって、居ても立ってもいられなくなりますよ!」健太郎は出来るだけ冗談めかしてこう言った。そして、すぐまた観察眼を以て、京子の回答を待つと、すぐにそれが帰って来た。
「良いわよ!先生方に、今すぐ血の滴る美味しい、レアのステーキを、出して差し上げましょう!」
京子はそう言うと、いつの間にか、利き手に真っ白な布を持ち、「今川先生!そこにあるお盆を取って!早く!!」と、今川にコーヒーやケーキなどを載せる、大きな銀の盆を取らせて、ベッドの縁に腰を掛け、白い布を両手に持つと銀の盆の上で、それを二つに折って、上からチューブでも揉むような手つきで布に指先を滑らせている。
健太郎は、昔何かの漫画で観た様な、魔法使いの妄想に取り憑かれているのだと、その様子に、無心に目を凝らしていた。妄想癖の強い患者の仕草をよく見て置こうと、健太郎は心を空っぽにして、見入っていたのである。
「はい!」京子が言うと、両手の指先で持って、指を滑らせている、白い布からなんと!本当に京子が言ったのと同じような、レアのステーキが、添え物の野菜と共に、白い皿の上に乗って、盆の上に現れた。京子はまだ、同じ仕草で白い布に指を滑らせていたが、それはやがて、もう一つの、美味しそうなレアステーキを出現させたのだ。京子はようやく、安心した表情で「さあ、先生方の朝ごはんよ。召し上がれ。後で、コーヒーも淹れますからね」と、事も無げに言って、2人に、本物のレアステーキを振るまうのである。気が付けば、小皿に盛られたパンまでが添えられてあるではないか。
今川教授は、目くばせしてこれを(構わないから頂こう、そうしないと機嫌が悪くなってこまるから)と言う事を伝えている。前にもこれと似たような事を、何度もこの部屋で経験してきた今川には、こういう時の、コツが分かっていたのだ。それに、京子がこの術で出してくるこれらの料理は、何であれ、とても美味しく本格的どころか、一流のレストランで味わう様な、優れた料理ばかりなのだった。
健太郎が目を丸くしているのを他所に、今川は先に「では!頂戴いたしましょう!橋本君」と健太郎をも、そそのかしてこのステーキを、美味しそうに食べ始めた。これには、今川の、健太郎に対する今後のコツをも伝えようとしたものなのだ。こうしないと中屋敷京子は口をきいてくれなくなり、然もこの不可解な術で、怪しげなものを、山ほど出して来ては、投げつけられる。逆らわないで、この京子のペースで観察を進めるのだと、今川は伝えているのを健太郎も察していた。
健太郎にはまるで分からないが、トリックに騙されているのだろうと言う以外。健太郎には、答えは無いのだった。
コーヒーポットには、すでに熱いコーヒーが淹れられており、デミタスカップが、いつの間にか窓際のテーブルに置かれた。眼に見えぬ誰かが、この京子には憑いていて、京子の命令を心の中で聞いているのだとしか思えないのだ。ステーキをこの病室に出現させてから京子は、特に何もしてはいなかったのだ。
ただ、ベッドの脇の大きな銀の盆に、勝手に料理が現れ、そして食べ終わる順に消えた。窓際の別な盆には既にコーヒーが淹れられて、デミタスも置かれているのは先にも書いた。
京子は、今川と健太郎が食事を楽しみ、今食後のデミタスを呑んでいる所に、漸く一声かけた。
「いかがでしたか?これが、トリックに見えたでしょうか?」
そして、京子は本音を率直に語った。
「私には、こういう事が、普通にできてしまうんです。思った通りに物が運びすぎて困るんです」と。
(続く)