発端
人の心は、異次元空間と繋がれている。
異次元空間と、人の心との、この繋がりを通して、異次元空間の、認識できない何処かに、認識作用の結果、生み出された何かが溜まる。また、為された事、話された事の、全ての結果によって、生じて来た、これも目に見えない何かが、認識作用の結果生み出されたものと同じ、目に見えぬ場に蓄えられる。
蓄えられた全ては、また別なところに、永久に記録されて、決して消す事も出来ず、消える事も無い。
異次元空間とは何か?
若しそれが、認識する事が出来ない場や、この時空間と異なる、異種の空間の事を言うのだとしたら、異次元空間は、実はそこら中に転がり、その口を開けているのかもしれないのだ。
然し人はそれに気が付いていない。何故気付かないのか?認識出来ないからでは無いか。
10円玉が、足元に落ちた後、勝手にどこかへ、転がって消えた。だが、どこへ?
10円玉は、ほんとうは、自分の意志で、床へ落ちたのでは?自分の意志で落下したそれは、自分の意志でどこかへ隠れ、異次元への入り口を潜ったのだとしたら?
とすれば、それは、出てこないのでは無い。出られないのだ。
言わぬ事では無い・・・。
異次元空間は、だから、その入り口をぱっくりと開いて、我々の足元にもあるのかもしれない。
転がって消えたさっきの10円玉は、我々が気付かぬ足元の、ぱっくり開いた異次元への入り口に、呑み込まれてしまったのではないだろうか?
ところで、人の心に思い描いた全てが、また、人の為した行為の全てが、宇宙と繋がれた、我々の心を通して、宇宙に記録される事を、ご存じだろうか?その記録された全ては、決して消える事が無いと、言う事も・・・。
業には二種類あるのでは無かろうか。一つは人が、目に見えぬが実在する、何者かによって、刈り取る許可を得ている業である。
刈り取る事が出来る、或いは刈り取る事が許されている、とは言うものの、これは、なかなか刈り取れるものでは無い。
人がその生涯を掛けて、それを刈り取らなければと、頑張る事が出来たとしたら、その人は幸運な人だ。その様な幸運に恵まれた人は、然し滅多にいるものでは無い。それとは知らずに、生涯を終えて行く人のなんと多い事か。
刈り取る事を許可されているにも関わらず、それと気付かずにいる人は、実は異次元空間と同じく、それとは認識する事が出来ぬが故に、刈り取らないのだ。したがってそれは、その人の、次の人生、そして更に、その次の人生へと、幾度にも亙って、刈り取られずに、刈り取られる日がやって来るまで、只管その時を待っている。
業の尽きるその時を。
さて、あと、もう一つの業だが、これは少し性格が違う。それは、全ての人が。生き死にを、繰り返し、繰り返した痕跡だ。決して消せない、異次元空間のどこかに刻まれた、全ての人々の記録である。
ここに語られるのは、その、刈り取る事が許された業と、決して消す事の出来ぬ記録の織り成す物語である。
橋本健太郎は、29歳の若き医師で、医学博士である。専門は精神科、これまで学究の道しか他に、あまり知らない健太郎は、現場での臨床経験を積むために今、楠坂総合病院の、精神科医として、日々、患者の診療に当たっている。健太郎は国際理科大学の医学部から、この大学の系列病院である、楠坂総合病院で、実際の医療現場を経験し、数年後には元の所属先、国際理科大学医学部に戻る事になっていた。
彼が精神科医になったのは、人の認識作用が、その行動に、どのような影響をもたらすのかを、知りたかったからである。だから健太郎は、この楠坂総合病院で、実地に臨床経験を積んだ後は、国際理科大学で、更に学術的な研鑽を積み、その後は研究者としての将来を考えていた。健太郎の興味や関心は、何事に関しても、それを分析し、理解する方向へと向けられているのだった。臨床医として生きて行くよりも、研究の道に入って、その分析力と理解力とを、存分に活かす事が出来る将来を、健太郎は望んでいたのであった。
それ故に彼は、医学博士として、学問の世界で生きる将来像を思い描いていた。
これに加えて健太郎には、是非とも将来、本格的に研究をしてみたい分野があった。精神分析である。
現代の、科学的医療の一つとしての、精神医学だけではなく、人の認識作用が、人にどのような影響を及ぼして行くものなのかに、強い興味と関心がある健太郎には、精神医学という枠組みの中だけでの臨床よりも、精神医学という、学術領域にある壁を取り払い、精神分析を採り入れた、学際的研究をしてみたかった。
そのような将来を思い描いていた健太郎は、今、臨床医として働いているこの、楠坂総合病院での診療の日々を、自分が成長して行く段階の一つになるものだと捉えていた。全ては将来に向けての、勉強のためだと、彼は思うのだった。
ストイックに、学問に打ち込んで生きて来た健太郎は、世事には至って疎かった。臨床の場でも、患者と世間話などをするのはどうも気後がれして、患者の語る世間話に、どう返事をしたものか戸惑う場面も間々あった。学識の智はあっても、世間智に乏しい彼は、患者と軽い世間話を楽しむ様な、他の医師を見ると、ほほえましく思えてならない。そういう他の、世間智に長けている医師が、健太郎にはうらやましかった。ほんとうは世間話が嫌いなのではなく、苦手なだけなのだ。
ほのぼのとした雰囲気の中で、自分もいつかは、患者との世間話を楽しめるようになりたい、と言うのが彼の本音なのだった。
この日も、楠坂総合病院での一日が終わり、間もなく終業の時間である。昔と違い、今の病院には残業が無い。総合病院である、この楠坂総合病院もその例に漏れず、終業時刻が迫ると、上司から帰宅を促されるので、仕事は手際よく段取りをしておかなければならなかった。
健太郎も、自分のデスクを離れてロッカールームへと急いだ。遅くなるとまた、上司から「早く帰って下さいね」と、言われてしまうので、彼もまた、同僚たちと共に職場から退去しなければならない。
ロッカールームで着替えを終えて健太郎は、急ぎ足で病院の職員通用口に向かった。その通用口へと向かう彼は、中途で「あっ!」と足を止めた。タイムカードを押し忘れたのだ。国際理科大学の医学部では、タイムカードなど、用いた事が無い彼は、赴任してまだ一年もたたない楠坂総合病院のこの、タイムカードに、まだ慣れていなかったのである。
しまった、またやってしまったと、健太郎は心の内で呟きながら、元来た通用路を引き返した。
タイムカードは、病院内への職員用出入り口を入ってすぐの、左側に置かれている。タイムカードに、時刻を刻印する時計を前に、ああ、やれやれと、健太郎は、押し忘れた、自分のタイムカードに、時刻を刻印させると、機械的な音がして、カードに時刻が刻まれた。これで良しとまた、健太郎は胸の中で呟き、再度、職員通用路を、出入り口の方向に歩き出した。
健太郎が十歩も、歩くか、歩かないかのうちに、向こうから「おおい!」という声がした。健太郎が、顔をそちらに向けると、また「おおい!久しぶりい!」と、聞き慣れた声がした。健太郎は、また、「アッ!」と思って歩みを速めた。この「アッ!」は、先刻、胸の内で呟いたのとは違う、喜びと、嬉しさの混ざった声だった。健太郎が、歩みを進めている先には、久しぶりに会う健太郎の、大学の恩師で、今は大学の研究室での、上司に当たる、国際理科大学医学部の、今川健司教授がいるのである。
「先生!どうも、お久しぶりです!」健太郎は、久しぶりに会う、恩師の顔を見て、感激している。
大学の研究室から、この、楠坂総合病院に来て以来、初めての恩師との再会なのだった。まだ、この病院に赴任してから、一年とは経たないにも拘らず、恩師の、今川教授の声を聞き、直に顔を合わ
せた途端、健太郎には急に、今までの一年足らずの時間が、とても長い月日だった様に、感じられていたのだった。
「よお!元気かあ!帰りがけに、ビールでもどうだ?!」と、今川教授が以前と、なに変わらない笑顔で、健太郎をしけじけと見た。今川もまた、自分の教え子で、研究室では部下の健太郎が、少し成長した気がしている。今川から、今見る健太郎は、現場臨床医師の、大人になった顔つきに見えているのだ。その反面、子供でもあるまいに、今川は、まるで、まだ、健太郎が、今川のゼミの教え子になった、二十歳の小僧っこと同じ気持ちで扱うのだ。
「少し!大人になったか?!」今川がまた、成長した子供を見るような目で、健太郎を見ていった。
「先生、子供じゃあるまいし、そんな」と、健太郎は照れ臭そうに笑った。
「今夜あたり、いい天気で温かいしな!良いだろう?ビールのもうや!」と、今川が重ねて健太郎を誘う。健太郎も、当然同意だ。久しぶりに会った、恩師の折角の誘いを、断ったりするはずが無かった。
「よおし!さあ、飲みにいこう!」
急に、今川の方から健太郎を、この楠坂総合病院まで訪ねて来たのには、今川が、健太郎とビールを飲むと言う目的の他に、もう一つの、別な理由もあった。今川は、ビールを飲みながら、ゆっくと、健太郎に、その話もしたかったのである。
世事に疎い性格の健太郎が、常日頃から、患者の応対で特に、今川から、特に教えを請いたかった事や、臨床医として、診療に当たる時の苦労話など、話の流れに任せて今川に、聞いたり尋ねたりして、お互いのジョッキが数杯も進む頃、今度は今川から話を切り出した。
「ところでなあ、どうだ?健太郎」
学部時代からの恩師である今川は、いつも彼を、健太郎と呼んでいた。
今川は、ジョッキを置くと再度呼びかけてから、今川の眼目の序盤へ話題を切り替えた。
「健太郎。お前、大学に戻って来てくれ、という願いを聞いてもらえるかなあ?いや、お前のさっきの話を聞いて、お前が色々と苦労をしながらも、一生懸命に臨床のポイントを抑えたくて、今も熱心に、患者さんたちの診療で、苦心する姿が目に浮かんだよ。そのお前に今、楠坂総合病院から突然、大学に戻れと言うのは、酷な話だろうとは思うんだけど。それにお前にとって、折角の数少ない、臨床の現場で学ぶチャンスでもある事も、重々分かっている。その上で頼むんだが、実は大学の付属病院で、少し難しい患者さんがいてねえ、その患者さんの面倒と言うか、相手をだな、お前に頼めないだろうかと、こう思ったんだよ。どうだろう、聞いてくれないかなあ?」今川は、こう話しながら、やや姿勢が低く、肩が下がって、いかにも健太郎に申し訳なさそうにしていた。
「はい。それで、難しい患者さんっておっしゃいましたが、どんな感じなんですか?頑固なお爺さんとか、言う事聞かない、我儘なおばあちゃんとか、そういう患者さんだと、僕も・・・」と、健太郎が、低姿勢の今川に恐縮しながらも、訪ねてみた。自分が世事に疎いだけではなく、今、健太郎が言ったような患者の面倒は、引き受ける自信は無いからだ。第一、そういう人物と、健太郎は今まで、出会った事も、話した事も無かった。精神科医は、色々な患者の診療をする中で、性格が合わない患者もたまに来診はする。だが、診察の時間が長くかかるものではなく、仕事と割り切れば、多少の事なら、既に慣れて、診療に差し障るような事も無かった。だが今回の頼みは、自分以外に適任者がいるはずだと、健太郎は思ったのだ。
「お、いやあ。そう言う何と言うかその、頑固とか、我儘とか、そういう類の問題ではないんだ。なあ、健太郎。今回お前にお願いしたいと言う患者さんはなあ、どうもその、霊能力とか前世とか、そう言うの、おまえなら、理解出来るよなあ?そう言う人なんだ。お前は以前から、そういう方面が好きだろう?その患者さんにはどうも、何かの神様が憑いていてその人を護っているとか何とか、そういう事を信じる人なんだが、困ったのはなあ、その人の言ってる事や、やって見せる事がだなあ、本物なんだよ。お前、博士論文が確か、ユング心理学と精神医学との接点について、書いていたよなあ?大学の付属病院で、そっちの方面を研究している人が、一人もいないし、皆その人を怖がるように、避けてしまってねえ、お前なら、そういう研究しているんだし、適任だなあと、こう考えたんだよ。」今川は、まだ健太郎を拝まんばかりの低姿勢になったままである。「なあ。良いだろう?健太郎!頼む!」
「先生から、そんなに頭まで下げて頂いては、御断りをしたくとも、御断り、出来ません・・・。先生の、おっしゃる通りにします。でも、先生、少しお尋ねさせてください。その患者さんには、治る見込みというか、霊能者を診るって、どこまでを、どうしたら良いのでしょうか?それに、どんな種類のですね、霊能力を見せてくれたんですか?」
「うん。それだよ!それがなあ、凄いんだよ!手品とかトリックではない、本物だ。何も手品に使える様な道具は無いし。それで、幾つかのと言うか、日に何度も何度もだ、霊能力って言う奴で、そりゃあもう、大変なんだから!あれを是非、お前にも、見て欲しかったよ!」今川は言った。
続く