恋年増
「ちょいと若旦那! 今日はお父様がお帰りになる日じゃございませんか?」
まだ薄暗い早朝。突然に揺さぶられた若旦那は一瞬、ここがどこだか思い出せない。
「ほら、起きた起きた。朝帰りはともかく、せめてお父様より先にお店にお戻りなさいな」
「菊乃、朝から元気だねえ。わざわざ起こしに来てくれたのかい。
ありがとうねえ」
若旦那もさすがに目が覚めた。ここは行きつけの料亭で、昨夜は遅くまで飲んで、そのまま泊ったのだ。最後まで酒の相手をしてくれた芸者の菊乃は、この料亭の主人の遠縁で、店のすぐ裏に住んでいる。
同衾などしていたわけではなく、彼女は料亭の朝の手伝いに来ただけだ。
「ついでですよ、ついで。
ほら、部屋を片付けますから帰った帰った」
「もう少し、優しくしておくれよ」
菊乃は辛口なところが人気の芸者だ。
若旦那が自分の店の近くまで来ると、通りに一人の娘がいた。満で十五の彼女は奉公を始めて、まだ三月。女中頭に仕事を言いつかるまでの間、誰に言われたわけでなく、毎朝、店の表を丁寧に掃いている。
その時、通りの向こうから知った声が聞こえてきた。
今日は、遠方へ商談に行っていた店の主人一行が帰ってくる日だ。暑い季節なので少しでも涼しいうちにと、一番近い宿場から暗いうちに出立したのだろう。
若旦那は素早く路地へと身を隠す。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「ただいま、お美代。早くから精が出るね」
奉公人の名前を端々まで把握している主人は、真面目な少女を見て表情を緩めた。
「お美代、残り物だがこれをあげよう。
少ししかないからね、早く食べておしまい」
お美代が受け取ったのは饅頭の包み。宿場を早くに発つ急ぎの旅人のために、暗いうちから店を開ける菓子屋で買ったものだ。歩きながらでも食べられる小ささは、とても気が利いている。
「ありがとうございます。ここを片付けたら、いただきます」
花が綻ぶような笑顔に、男ばかりの旅の一行はホッと気が緩む。特に笑顔を深めていたのは手代の清吉だった。
話し声に気付いて、店先から顔を出した小僧が奥へと声をかける。
「旦那様がお戻りです!」
「お帰りなさいませ」
ここは大通りに面した大店の呉服屋。
住み込みの番頭や手代が、奥から出てきて一行を迎え入れた。その隙に若旦那は裏から中へと滑り込む。
一行が旅支度を解く間に、自室へ戻った若旦那は着替えて身支度を整えた。着替えを手伝うのは乳兄弟の新太。店では手代として働いている。
主人と番頭は店先で水桶を用意されたが、残りは井戸で水をもらっているだろう。先に井戸の方に労いの言葉をかけようと、若旦那は廊下に出た。
ふと台所の裏に目をやると、お美代が幼い下女に先ほどの饅頭をやっていた。饅頭は二つきりのようだ。二人の下女にやってしまっては、自分の分がなかろうに。
だが、お美代はにこにこと笑って、夢中で饅頭にかぶりつく下女を見ている。無事に彼女らが食べ終わると、口元を手拭で拭ってやった。確かに、幼い下女が口元を汚していたら、いらぬ誤解を受けかねない。気の付く娘だ。
さあ、仕事に行ってらっしゃいと下女たちを促すと、お美代は雑巾がけの水を汲みに井戸までやってきた。
井戸端には旅帰りの手代清吉がいて、手にした桶で水を汲んでやる。
「ありがとうございます、清吉さん」
「いいや、ついでだから気にするな」
清吉は少しばかりぶっきらぼうに、返事をした。
「おやおや、若いっていいねえ」
「若旦那と清吉は、たいして歳は変わりませんよ」
後ろを歩く新太から応えが返る。新太は若旦那とは乳兄弟。幼馴染の気安さから、わりと遠慮なく物を言う。
「若旦那がそんなふうに言うってことは、清吉はお美代が好きなんですか?」
若旦那が妙に他人の色恋に敏いことを、新太は気付いていた。
「さあねえ?」
ふふ、と笑う若旦那は老若にかかわらず女性に人気がある。母親譲りの綺麗な顔と、父親譲りの穏やかな物腰に男でも皆、油断する。
「……恋年増」
ぽそりと零れた新太の言葉に、若旦那が目を瞠った。
「なんだい?」
「若旦那は娘さんに言い寄られることも多いですけど、いつもうまく躱している。ということは、料亭やら吉原で玄人の女性と数多の恋を重ねているのかな、と」
「新太にしちゃあ、艶っぽい言い回しじゃないか。
いいねえ。今度、お座敷のお姐さんに言ってみようかな?」
若旦那は煙に巻くように、朗らかに笑う。
翌日の夕方、新太は若旦那を行きつけの料亭まで送った。
客を選ぶこの店は、派手な看板も提灯も出してはいない。知らねば、大店の隠居所かと思うような目立たぬ構え。だが見る者が見れば、板塀の木目まで計算されつくしたと唸るようなもの、らしい。新太には品が良い、くらいしか分からない。
商売の修行は半分で残りは若旦那の世話係をしている新太は、出世にも贅沢にも興味はなかった。商売人としては褒められたものではないが、そういう欲のない所で、旦那や若旦那の信用を得ているのだ。
玄関を入った若旦那は、女将に案内されて二階の座敷に上がった。
「お連れ様がお着きです」
「ああ、ありがとう」
迎えたのは若旦那の逢引き相手でも何でもなく、父親。呉服屋の旦那である。
「おとっつぁん、遅れまして」
「いやいや、旅を労って可愛い息子が設けてくれた席だ。
ありがたく、先にやってるよ」
「若旦那、お出でなさいまし」
昨日の朝、布団を引っぺがしに来た菊乃が酌をしている。
若旦那とは気安く口をきく仲だが、菊乃は今をときめく売れっ子。多少の金を積まれても、気に入らなければ座敷に出ないので有名だ。
「菊乃、急だったのに来てくれてありがとうよ」
「まあ、若旦那が私にお礼をおっしゃるなんて、明日は雪かしら?」
菊乃は空を見上げるように手をかざし、ころころと笑う。
若旦那は一口、喉を潤すと父親に向き直った。
「店では商売の話しか出来なかったので、道中のことを聞かせて欲しいと思ったんですよ」
「土産話はたいして無いなあ。順調な道行だったね。お天気にも恵まれた」
「それは何より。……それで、清吉はどうでした?」
旦那は沈黙した。少し悔しそうな表情をしながら。
「そのお顔をされるということは、私の見立てが正しかったんですね?」
「ああ、細工物の目利きじゃ、うちの店で清吉に適う者は無い。
細工村の元締めも、舌を巻いていた」
「それじゃあ、予定通り話を進めますよ」
「そういう約束だからね。お前に任せるよ」
翌日の事、若旦那は座敷に番頭と手代を集めた。
「忙しいところ、済まないね。ちょっと大事な話があるんだ。
しばらく我慢しておくれ」
集められた皆は、怪訝な顔をしている。
「実はね、私は、そろそろ本店の仕事に本腰を入れようと考えている。
それで、今まで商売の修練のために使っていた、裏通りの小さな小間物屋を売りに出そうかと思ったんだが」
皆の怪訝顔は深まるばかり。
「せっかく店があるんだ、もし、自分で店を持ちたい者があれば譲ろうかと思ってね」
番頭や手代たちは騒めき始める。
「ただし、普通の暖簾分けとは違う。商売は小間物屋を続けてやってもらうし、軌道に乗ったら、店を譲った分の代金を払ってもらう。
もし、商売がうまく行かなくなれば店を閉めてもいい。その時は店の貸し賃は取らない。
だけど、一度独立したら本店に戻ってもらうことは出来ないよ」
さあ、それだけの覚悟が出来る者がいるかい? 若旦那は少しばかり意地の悪い笑顔を浮かべた。
お店に奉公に出て、真面目に勤めあげ、番頭になれたとしても皆が自分の店を持てるわけではない。暖簾分けの機会を得られるものは運がいい。
そして、通いの番頭になれるまでは嫁を貰うことも難しい。それこそ、見込まれて他の店から婿に、とでも望まれれば別だろうが。
若旦那の提案は、はっきり言って博打。真面目に勤めてさえいれば、食いっぱぐれのない大店を出て、自分の才覚と根性だけで勝負に出る男は、とんでもない自信家か、それとも大馬鹿か。
「はい! 私、やりたいです」
数日猶予を設けるから、やる気になったら私に言っておくれ、と続けようとした若旦那より早く、手を挙げたのは清吉だった。
「清吉、勢いがあるのは結構だが、後戻りは出来ないんだよ?」
「それでも、こんな機会はあるもんじゃないです」
「もし、うまく行かなかったら、路頭に迷うよ?」
「私は、まだ若い。その時は振り売りから出直します」
「そうかい。他に手を挙げる者はないのかね?」
場は静まっていた。
「よし。じゃあ、この話は清吉で決まりだ。
後から文句言いっこなしだよ」
皆は了承の意を示すために頭を下げた。
その夜、清吉は主人たちの待つ座敷に呼ばれた。
「清吉、まずは独り立ち、おめでとう。商談の旅でも、なかなか頑張ってくれたお前さんだ。期待しているよ」
「ありがとうございます。旦那様」
「倅がなかなか厳しいことを言ったが、最初から一人では任せないよ。
番頭の卯吉が、そろそろ隠居したいというから、しばらく、お前の店に行ってもらうことにした。いろいろ相談するといい」
番頭の卯吉は下の者の面倒見がよく、そのせいで出世が遅れたと言われていた。
「卯吉の給金は、こちらで持つから心配しないでいいよ」
「何から何まで、ありがとうございます。
卯吉さん、よろしくお願いいたします」
清吉は主人と若旦那、そして番頭の卯吉に丁寧に頭を下げた。
「後は、小僧を一人貸そう。お使いを頼むこともあるだろう。
それから、女手はどうする? しばらく女中を貸そうか?」
若旦那の問いに、清吉は居住まいを正した。
「お美代さんを、寄越してもらうことは出来ますか?」
「お美代?」
「お店の奥には仕事に慣れた女中衆の手が足りていて、日の浅いお美代さんは忙しい時の手伝いしか任されていません。ですが、台所仕事も掃除も一通りこなしているようです。繕い物も上手だ」
長屋で職人をしていた父親を失い、母と二人、仕立物で暮らしを立ててきたお美代。母が病で亡くなった時、大家を通じて、この大店に奉公することになった。奉公の経験がある母親が行儀作法に厳しかったらしく、ここに来てから女中頭に注意を受けたこともない。
「なるほど、お美代か。
目の付け所はいいが、嫁入り前の娘だ。小さな店では二人きりになることもあるだろう。大丈夫か?」
主人が、まるでお美代の身内であるかのように心配事を口にする。
「……はい、その……お美代さんには嫁に来て欲しいと言うつもりです。
その、新しい店が、落ち着きましたら……」
ここまで自信満々だった清吉が、急に小声になった。若旦那が呆れたように言う。
「嫁に来てくれるかどうか、すぐに、お美代に訊いておいで」
「今、ですか?」
清吉がたじろぐ。
「今、だよ。さあ、行った行った!」
しばらくすると、少し恥ずかし気に俯くお美代を伴って清吉が戻って来た。その嬉し気な様子は、首尾を訊ねる必要もないほどで。
だが、若旦那は意地悪く、お美代に訊ねる。
「お美代、ひとつだけ確かめておきたい。
清吉の独立の話は聞いたと思うが、もし失敗したら、一緒に路頭に迷う覚悟はあるのかい?」
お美代はしっかりと顔を上げ、若旦那の目を見た。
「はい。貧乏暮しは慣れております。もしもの時は、わたしも仕立物をして清吉さんを支えます。
あの、ひとつだけお願いが……」
「なんだい?」
「その時は、仕立物の注文を聞きに、こちらのお店をお訪ねしてもよろしいでしょうか?」
若旦那は、目を丸くする。
「おやおや、清吉。お前の嫁は、思いのほかしっかり者だったよ。
お美代、その時は遠慮なく暖簾をくぐっておいで」
「ありがとうございます」
若旦那は、穏やかに優しく笑った。
「それで、その後はどうなったんです?」
あれから一年近く。
件の料理屋の二階で、芸者の菊乃が若旦那に訊ねる。
「私の見立て通りさ。清吉はお美代を嫁にもらって仕事に力が入り、商売はうまく行っている。
この分だと、予定よりずいぶん早く店を買い取れそうだね」
裏通りに店を出す小間物屋では、庶民の普段使いの品や、贈り物に使う少しだけ贅沢な品を扱っている。
清吉は細工物に関しては、たいへんな目利きだ。何気なく品物を手に取った客は、たいていが「おや?」と思う。値段のわりに物が良かったり、流行り廃りに影響を受けそうもない意匠のくせにどこか洒落ていたり。懐の暖かい客は二度三度足を運んでくれる。
「清吉はうちの店に居ても、真面目に勤めあげて番頭にはなれるだろう。
だが、反物よりも小間物が得意だ。それがわかってるのに放っておくのはもったいないよ」
呉服店で扱った反物に合わせて、よい細工物を求める上客があれば、清吉を呼んで意見を聞くこともある。
「短い間に、すっかり一端の店主だよ。
好いた娘を嫁に貰った男の自信は怖いねえ」
「若旦那ってば、また、そうやって人の良いこと」
「何のことだい?」
「いえ、何でもありませんよ」
菊乃は以前、自分の妹分の芸者を若旦那が助けてくれたことに恩を感じていた。腕のいい板前と思いあっていた妹分に、さる大店の隠居への後妻の話があったのだ。
板前に店を持つための金を用立て、隠居には禍根が残らないよう上手く話をつけてくれた。
だが、話を詰める時、若旦那がなんとも優しい眼差しで妹分を見ることに気が付いた。
あの子は、時々、自分と一緒に若旦那のお座敷に出ていて顔見知りだったし……
それで菊乃は思ったのだ。
若旦那は、自分の妹分のことが、きっとお好きだったんだわ、と。
だから、今度のこともきっと、お美代さんを好きだったから彼女の気持ちに気付き、手代との仲を取り持ってやったのだろう、と。
若旦那がお美代を嫁にするのは難しい。大店は人の目も気にしなければならず、後ろ盾のない嫁はひどく苦労する。綺麗な着物を着て愛想笑いをし続けるより、小さな店で亭主と笑って働く方がお美代にとっては幸福だろう。
本当にいい人。お人好しな人。
せめて、わたしが妹分やお美代さんの代わりに、若旦那に優しくしなくちゃね、と。
「新太に恋年増と言われたよ」
「あらあら、縁結びの神のような方にずいぶんなこと」
「恋どころか、見合いすら気が進まないのにね」
「なぜです? お嬢様方が気に入らないとか?」
「いや、本人に会う前にやってくる仲人や、厭らしい笑顔の親を見るとぞっとしてね」
「まあ、それでは仕方ありませんね」
「うちは大店だ。番頭や手代を大事に育てていれば、後継ぎの心配はないさ」
「そうですか。じゃあ、ご隠居なさったら、わたしが三味線など持って、お慰めに参りましょうか?」
「それは嬉しいねえ」
若旦那は思い出していた。子供の頃、この料亭の庭で会った娘のことを。
田舎から出てきたばかりだという娘は自分より二つ年下。勢いよく箒を振り回して、行儀が悪いと女中頭に怒られていたが、ごめんなさいと言いながら見えないようにぺろりと舌を出していた。
仲居か女中にするのだ、と聞いたが、やがて料亭にやって来る芸者のお姐さんに気風の良さを見込まれた。
今では押しも押されもせぬ売れっ子芸者の菊乃。
『何もないまま 気付かぬふりで 主のお側を離りゃせぬ』
三味線を爪弾きながら、菊乃が唄う。
ああ、今日もいい声だねぇ。
だが、恋の唄はいけないねぇ。ちょいと切なくなりすぎるよ。
聞き惚れる若旦那は、今日も料亭泊まりだ。
翌朝のこと。
「ちょいと、若旦那! もう、お天道様も高ぁいお空にいらっしゃいますよ。
そろそろ起きて、お帰りにならないと」
階段を上る気配で、若旦那は既に目覚めていた。だが狸寝入りを決め込む。
「もうちょっと優しく起こしてくれないかい?」
「駄目ですよ。優しくしたら、いつまで経っても、ここに居座るでしょう?
お店で大事なお仕事があるんですから」
「菊乃が家までついて来て、ずっと面倒を見てくれるんなら、走って帰るんだけどね?」
「もう、まだお酒が抜けないのかしら?
お味噌汁をもらってきましょうか?」
「ふふ、わかったよ。今、起きるから」
シャキシャキと布団を畳み始める菊乃に、若旦那は優しい目を向けていた。
どうしたら、もっと、菊乃の近くにいられるんだろうかねぇ。
芸者の仕事にしても、料亭の手伝いにしても、彼女は今の仕事に満足している。
金に物を言わせて妻にしたとして、菊乃は幸福にはなれないだろう。
若旦那がゆっくりと玄関に着く頃には、菊乃も見送りに降りてきた。
「若旦那、また、お越しくださいませね」
客を送る時に使う、ありふれた言葉だ。
『だけど、少しは勘違いしたって、いいじゃないか』
これから店に帰って仕事だというのに、若旦那は次に料亭を訪ねる時の、菊乃への土産を考えていた。
『菖蒲を模した上生菓子。うん、季節柄それがいい。
帰ったら新太を菓子屋に使いに出そう』
若旦那は、次に菊乃に会える時を思って、少しばかり足取りを軽くした。