微かに甦る記憶
しばらくその景色を眺めていると、遠慮がちに古遠部さんが僕の指に触れてきた。
驚いて振り返ると古遠部さんは頬をほんのりと色付かせて僕を見つめていた。
「この場所ではじめてキスをしたの」
「そ、そうなんだ……へぇ」
「キス、してみる?」
「ええっ!?」
「へ、変な意味じゃないよ。キスしたら記憶が甦るかなって思って。ショック療法みたいなもので」
十分変な意味だ。そんな理由でキスをするなんて聞いたことがない。
思わず古遠部さんの唇を凝視してしまい、緊張で身体が硬直する。
「いや、さすがにそれは……よくないよ」
キスがしたいとかしたくないの問題ではない。いや、嘘。したい。
しかしこの流れでキスをするのはおかしい。
「大丈夫。これはキスというより唇を合わせて確認する実験みたいなものだから……」
ぎこちない笑みを浮かべて古遠部さんが顔を近づけてくる。
「やめよう、こんなこと」
肩を掴んで引き離す。
驚くほど僕の感情は高ぶっていた。
「前世の恋人なのかもしれないけど、こんなことはおかしい」
「私は拓海君に思い出してもらいたいの!」
「思い出したからってどうなるんだよ。前世がその哲也だとしても、いまの僕は、磯辺拓海だ」
僕は完全に嫉妬していた。その『哲也』という男に。
自分が自分に嫉妬しているなんておかしな話だ。
でも古遠部さんは前世の記憶に囚われすぎている。僕ではなく前世の僕に恋をしているようにしか見えなかった。
「そっか。そうだよね。ごめん。怒った?」
「怒ってはいないけど……」
気まずい空気のままその場を離れ、湖のほとりを散歩した。
でももう、ここについた当初の清々しい気分にはなれなかった。そんな僕らの心を現すかのように空模様もどんよりとしてくる。
と、そのとき突然──
ドンッ!!
ゴロゴロゴロゴロッ
「きゃあっ!?」
急に辺りが暗くなったかと思うと雷鳴が轟いた。
そして一気に雨が降ってくる。
「ヤバい、どこかに避難しよう」
「うん」
慌てて森に入り、雨宿りできるところを探す。
しかし辺りはなんにもなかった。
幸い森の中は木々の茂みで雨を防いでくれるが、葉っぱに溜まった雨粒がボタボタと落ちてくるので結局は変わらない。
突然のことで焦ってしまい、つい僕は急ぎ足になってしまっていた。
「きゃああ!」
「古遠部さん!」
無理に急ぎすぎたのか祟り、古遠部さんが濡れた地面で脚を滑らせて転んでしまった。
「大丈夫?」
「うん。でも脚をくじいたみたい」
「ごめん。僕が急ぎすぎたから」
「拓海君のせいじゃないよ」
このままここにいたらずぶ濡れになり風邪をぶり返してしまう。かといって捻挫した古遠部さんを歩かせるわけにもいかない。
「悪いけどちょっと我慢してね」
そういって僕は彼女を背負った。
「無理だよ。拓海君も転んじゃう」
「平気だよ。さあ、急ごう。さっきのログハウスなら雨がしのげるはずだ」
転ばないよう、慎重に足を進める。
なんとかキャンプ場のログハウスまで辿り着いた頃はびしょ濡れだった。
幸い鍵はかかっておらず中に入れる。
「ごめんね、ありがとう」
「足は大丈夫? 骨折とかしてない?」
そろっと慎重に古遠部さんを下ろす。髪は濡れて乱れており、ワンピースも絞れるくらいだった。
濡れた生地が身体に張り付き、身体の線がはっきりとわかるはおろか、下着まで透けてしまっている。
慌てて目をそらすと、事態に気付いた古遠部さんは身体を隠すように踞って顔を赤らめた。
「い、一応タオルはあるよ」と古遠部さんは鞄からタオルを取り出す。
しかし二人で拭くにはあまりにも心もとないサイズだった。
「ありがとう」
それを受け取り、背後に回って古遠部さんの髪を拭いた。
「私はいいからまずは拓海君が」
「僕は大丈夫。濡れるのは釣りで慣れてるよ。それより古遠部さんがまた風邪をぶり返す方がまずいから」
濡れた長い髪からは甘いシャンプーの香りが漂ってきた。
タオルで乾かすのにも限度がある。
取り敢えず拭けるだけ拭いてあとは乾くのを待つしかない。
僕らは身体を寄せあって寒さをしのぎながら雨に煙る森を眺めていた。
「さっきはごめんね」
言いそびれた謝罪を伝えると「ううん」と古遠部さんが微笑んだ。
「私が悪かったんだよ。ごめんね。前世の記憶を取り戻して欲しくて焦りすぎていた」
「古遠部さんだけ覚えてて僕がまるっきり忘れてるんだから焦るのも仕方ないよ。逆の立場なら僕もきっと焦ると思うし」
「ありがとう。でもこれからはなるべく前世のことは言わないようにする。無理せず、ゆっくりとでも思い出してくれたらいいの」
「うん。分かった」
通り雨だったようで、既にその勢いは弱まっていた。
湿った空気の中に雨に濡れた土や草の香りを感じる。
その瞬間、なにかが脳裏に過った。
「あっ……」
「どうしたの?」
「ここ、来た記憶がある……待てよ……そうだ!」
脳の奥が熱を帯びて疼く。
全く記憶にないことが、なぜか生々しく脳裏に甦ってきた。
これが前世の記憶を取り戻すということなのだろうか?
記憶を頼りに僕はログハウスを飛び出し、裏手に回る。
「どうしたの?」
「あった! ほら、ここ!」
ログハウスの壁の隅、ナイフの傷跡があった。
色んな名前が彫られている。
その中に──
テツヤ コトコ
カクカクした二人の名前の間には『△』に『|』を足しただけの簡易な傘の絵も描かれていた。
「これって……」
「僕がナイフで彫ったんだよ。突然思い出したんだ」
「すごい! この存在は私も忘れてたよ」
古遠部さんは愛おしそうに何度もその文字を撫でている。
目にはうっすら、涙を浮かべて。
前世の記憶なんてあるはずない。
僕はそう思っていた。
でもここに、確かに存在していた。僕が前世を生きた『記録』が。
それは雨の湖畔が見せてくれた、小さなちいさな奇跡だった。
少しだけ記憶が甦った?拓海くん
躊躇いながらも古遠部さんに惹かれていく!
更に甘く、ハプニングも起こります!
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