09. 葺合の(自粛)
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「中央区…… **通*丁目*番…… ここか」
ある日の昼下がり、僕は地図を頼りに電話で指定された場所へ向かった。
大きな神社のわき道に入って指定の場所に着くと、そこは元ライブハウスらしき建物だった。看板にかかった名前には、何かのイベント告知で見たような覚えがある。来たことはなかったけど有名なライブハウスで、確か数年前に移転したんじゃなかったかな。ここが指定の場所なのか。
僕はノブに手をかけた。鍵のかかっていない扉は重々しく開き、僕は暗く先の見えない暗がりの中へ入って行った。
…
「やあ、待ってたよ」
ライブハウス特有の薄暗がりの中から気さくに声をかけてきたのは、この前の男性、京井草さんだった。
「まずはじっくり君の話を聞かせてくれるかな?」
京さんは、そう言うと僕に背を向けてステージ横の小部屋に入っていった。中にはパイプ椅子と会議机。いかにも舞台の控え室といった感じだ。
机の上には怪しい仮面やロングコート、そしてボンデージ衣装。その他もろもろの性的異常者アイテムが並んでいた。名前や画像はネットで見たことがあるけど、実際に現物を見るのは初めてだった。しかしこれらは何を意味するのか。
僕は質問した。
「あの…… これは……?」
「露出のための演出アイテムだ。君も見ただろう。”あの男”が使っているものとだいたい同じものを用意してある。露出は高度なパフォーマンスであり芸術だからね。君にも溢れるような躍動感や芸術性を表現する悦びを味わってもらいたいのだよ」
自分から京さんに電話したのは確かだけど、実際に”こういったもの”を目の前にするとさすがに気持ちがひるんでしまう。実のところ、僕は本当に露出行為が性欲を理解することになるのかどうか半信半疑だった。だから目の前のアイテムにすぐさま手を伸ばす気にはなれなかった。
「でも…… 京さんは……」
すると、京さんはとぼけたような表情で思わぬことを言い出した。
「京? 誰のことだ?」
「いえ、だって名刺に名前が書いてあるじゃないですか」
一瞬の沈黙の後、京さんは”やっと”思い出したような大げさなジェスチャーで答えた。
「……ああ、アレか。ははは、滅多に使わないアイテムだから自分でも忘れてたよ。
あれは偽名だ」
その言葉に驚いた僕はつい言ってしまった。
「偽名だったんですか?」
「もちろん偽名に決まっている。当たり前だろう。芸能人じゃあるまいし、あんなおかしな名前があってたまるものか。
名前なんかどうでもいいんだよ。私は、人を教え導くことを生業とし、かつ喜びにしている一介の教育者に過ぎない。だからあんな名前は忘れて”教育者”と呼びたまえ」
「はい…… 教育者さん」
「”教育者”でいいと言っただろう。それ自体が名称であり敬称だからな。まあいい、コーヒーでも入れてこよう。少々待っていてくれたまえ」
「はい……」
僕はうなずくしかできなかった。
そして僕は、狭い控え室の中で以前と同じ話を、今度はより詳しく話した。周囲の友達にからかわれること。アニメに出てくるキャラクターに感じる情動と、実際の女の子へ感じるものとの違い。いまだに何のことだか意味が分からない”男汁”という単語。
教育者は時々相槌を入れながら、じっくりと僕の話を聞いていた。ただ聞くだけではなく、落ち着いた優しい表情を保ちつつも、時々一瞬だけ視線を逸らして真剣な表情で何かを考えていた。心理カウンセラーとして、いや、本当に心理カウンセラーなのかどうかも疑わしいけど、それなりに思うところがあるらしく、真剣に僕の話を聞き続けていた。
…
どれだけの時間が経過したのか自分ではわからないし、筋道立てて話ができたとは自分でも到底思えない。しかし教育者は僕の目を優しく見据えて話を聞いていた。そして僕の話が尽きたころ、その表情を変えないまま僕に言った。
「君の置かれている状況と、君自身が抱える問題については理解できた。何故そういう心理状態になっているかについても。 ……そうだね、君の問題を根本から解決するには、まず”男汁”を理解することだ。性欲と萌えの違いは、非常に瑣末なことであって大差はない。君にとって本当に必要なのは、まず君自身の男汁を獲得することだね」
僕自身の男汁を?
「でも…… 僕にはその男汁がいまだにわからないからこそ、こうやって僕はあなたに会いに来ているわけであって……」
そう返す僕の言葉を遮って、教育者は指を組み真剣な表情になって続けた。
「確かにね。君の理解が伴わなければ何の意味も無い。男汁が何者であるかをただ言葉で伝えるだけならば何も難しくはないが、それでは君が男汁の本質を理解したことにはならない。君自身が動いて、実践して、そして自らの五感で男汁を実感しなければ。
そのためには…… どうすればいいか知りたいか?」
その言葉に僕が逡巡して黙っている一瞬の間を置いて、教育者はさらに続けた。真剣な表情から繰り出される視線は鋭い。
「本当にお前は、お前自身を変えたいのか?」
また、ズキン、と何かが僕の心に走った。そうだ。僕に欠けているもの、それが何かを知りたくて今日ここに来たんだ。おそらく、僕には”何か”が足りない。でも自分では何が足りないのかいくら考えてもわからない。どうして同級生にからかわれるのかがいまだにわからない。どうすれば……
いつものように僕が自分の中で考えをループさせかかった時、ふと、微妙に教育者の口調が変わっていることに気づいた。そして伏せた目をその顔に上げると、教育者の表情は熱さから冷たさへ、落ち着いた表情の中にほんの少しの冷淡さを含んだ妖しい微笑へと変わっていた。
しかし、その目は僕の心の中を見透かしていたようで、教育者は僕が目を上げた後、すぐにまた元の落ち着いた温かみのある笑顔へ戻っていた。
「ははは、、、少々きつい言い方になってしまってすまなかったね。しかし君の決心のほどを確かめたかっただけなんだよ、勘弁してくれ」
そういって教育者は優しく笑い、そして続けた。
「しかしだ、私が考えるに、君が君自身の男汁を獲得するためにはある程度強い性的な刺激が必要だ。そう、普通に生活した中で見聞きしたり、本屋の店頭で売っているような週刊誌や成年誌に書いてある程度のものではない、本当の強い刺激が。その刺激が今の君には足りていないんだよ。そのためには日常を超えた体験が必要だ」
日常を超えた体験? 僕は聞き返した。
「日常を超えた体験、ってどうすればいいんですか」
その言葉に呼応するかのように、教育者は答えた。
「”露出”だね。君はまだ自分の殻に閉じこもっている。自分では気づいていないかもしれないが、君自身は傷つくのを非常に恐れている。無意識のうちに自分をガードしている状態だ。しかしそんな状態ではいつまで経っても何も変わらない。自分が知りたいこと、得たいことなど望むべくも無いんだ。全てを曝し、全てを感じることが大事なんだ。開放し、全てを振り払い、全てをさらけ出すんだ」
畳み掛けられる言葉の洪水に僕は気圧されていた。しかし露出ってどういうことだ?あの時みた人みたいに僕にも露出しろだって? でもやっぱり露出するだなんて、そう簡単にYESと答えられない。僕は圧倒的な説得力と、それに相反する理性と倫理観と、いろんな価値観に挟まれて、何と答えて良いかわからずおろおろしていた。
「あの… でも… やはり露出となると…」
僕が逡巡していると、教育者からさっきの強い気迫が消え、冷たいような、それでいて暖かいような落ち着いた表情に戻っていた。そして僕に言った。
「何はともあれ、まず君には色々勉強してもらったほうがよさそうだ。体験や経験だけが全てじゃない。知識を得るだけでも何か気づくことはあるだろう。」
それから、教育者は僕に淡々と露出や露出に使うアイテム類の説明をした。僕がこれで本当に性欲を理解できるようになるのかどうか。疑わしくは思いつつも、なんとなく学校の授業のように黙って大人しく聞いていた。そういえば教育者の話し方も、どことなく学校の先生っぽかった。
話自体も目新しいものばかりで、所々面白い内容もあったから僕は眠気も感じずに聞いていた。
「…露出にも度合いがあって、より高度かつ効果的な露出を目指すために、一定の評価基準がある。それが”露出度基準”だ。一覧にするとこのようになる。
露出度0・人は露出を感じない。
露出度1・その場にいる人の一部が、わずかな露出を感じる。
露出度2・その場にいる人の多くが、露出を感じる。
露出度3・その場にいる人のほとんどが、露出を感じる。恐怖感を覚える人もいる。
露出度4・かなりの恐怖感があり、一部の人は、身の安全を図ろうとする。
露出度5弱・多くの人が、身の安全を図ろうとする。一部の人は行動に支障を感じる。
露出度5強・非常な恐怖を感じる。多くの人が、行動に支障を感じる。
露出度6弱・見ていることが困難になる。
露出度6強・見ていることができず、はわないと動くことができない。
露出度7・露出にほんろうされ、自分の意志で行動できない。
周囲の反応をこれらの基準で評価し、演出の効果を定量的に判断することでより効果の高い方法へと発展させ、最終的には露出度7を目指さなくてはならない……」
…
一通りの話が終わった頃には、さらに一時間半近くが過ぎていた。
「そういえば喉が渇いたな。飲み物も出さずすまなかったね。待っていてくれたまえ。いま淹れてくる」
そういうと教育者は控え室のようなところに入っていった。
何分経ったかは分からないが、さほど時間の経たないうちに、教育者はトレーにコーヒーを載せて戻ってきた。
「砂糖もミルクも無いんだがね。君はブラックコーヒーが苦手だったかな?」
話を聞いていただけだが喉に渇きを覚えていた僕は、何も考えず皿ごとコーヒーを受け取った。
「いえ、大丈夫です…… どうも……」
僕は受け取ったコーヒーを飲みながら色々と考えていた。知識、はいいんだけど本当に露出までやるのかな。それって犯罪じゃないのかな。それはそうとして、なんだかコーヒーの味が違うな。飲んだことのない味だ。何か珍しい種類の豆なんだろうか…
……どくん。
僕の体の中で”何か”が弾けた。
……どくん。 ……どくん。
熱い。体の芯が熱い。
何かが体の中で燃え上がってくる。
そして、体は熱いのにふっ、と気が遠くなった……
…
「気分はどうかな?」
気がつくと教育者は正面に座っていた。無表情で指を組んだままこちらを見ている。
それとは無関係に、何かとっても気分がいい。心の底からウキウキしてきた。うーむ、コーヒーがうまい! 笑いが止まらない! 僕は思わず口にしていた。
「むひょひょひょひょ…… こりゃいいねぇ……」
そう言うと、教育者は無表情を崩し、ふっと軽く笑った後にこう言った。
「君はもう大丈夫だ。あとは実践で学んでもらおう。そうそう、大事なことを忘れていた。私を”現場”で呼ぶ時は教育者でなく”K”と呼びたまえ。む、甲府で同じ”K”は都合が悪いな。では私は君を”F”と呼ぶから。では少々待っていたまえ」
意味が分からん。わからんなぁ。でもとりあえずKと呼べばいいのか。などと考えている間に教育者、いや、Kは隣の部屋へ出て行ってしまった。
…
ほどなく教育者は青い作業着に着替えてきた。そして大きな茶色のボストンバッグを持ってきた。おそらくあのアイテムの数々が入っているんだろう。しかし理由は分からないがとにかく気分がいい。思わず笑ってしまう。こんなに楽しい気分は初めてだ。
教育者はボストンバッグを抱えて言った。
「じゃあ、行こうか」
「むひょひょひょひょ…… 行こうか、って、いったいどこへ行くんですかねぃ?」
教育者は、にやっと笑って言った。
「君のための特別ステージへだよ」
◇
2人でやってきたのは駅から海岸線までのビル群。昔は中央の道路を挟んだ東西で別の区だったらしいが、東側は中心駅に近い街中なのに企業ビルとマンション、そしてなぜか宗教団体の大きな会館が複数、そして結婚式場までが立ち並ぶ。住宅地なのか商業地なのかもよく分からない、巨大な建物ばかりが渾然と交じり合った不思議な空間だ。高い建物ばかりでなんだか空が狭い。が、やっぱり気分は最高だ。
「むひょひょひょひょ……」
空に浮かんでいるような夢見心地は今も変わらない。なぜこんなに気分がいいのかについては、もう考えなくなっていた。
教育者は肩の荷物を下ろしながら言った。
「君は東遊園地の悪夢を見たことがあるね? あのように露出は目と心を奪われる最高の芸術でありパフォーマンスだ。しかし、私も同じだが体格の大きい者にとって身の隠し場所の少ない東遊園地はいささか具合が悪い。このビル群のほうが路地も多く君にとっては色々と都合がいいのだよ。ちょっと準備をするから待っていたまえ」
そう言うと、教育者は大きなボストンバッグを開いた。中からあのアイテムが出てくるかと思ったら、大きな2Lのペットボトル。ラベルは剥がされて中には正体不明の白い液体が入っている。スポーツドリンクだろうか。しかしボトルの注ぎ口は太い縄で括られている。これまでの話からして、もちろんこれがスポーツドリンクのはずはない。
「これが君の、そう、君だけの男汁だ。現地で作ると時間がかかるので、予め昨日のうちに作っておいたのだよ」
ボクちんだけの男汁! いいねぇ。
「むひょひょひょひょ…… こりゃ嬉しいねぇ」
「今の服を全部脱いでこれに着替えたまえ。私のお古だがサイズは合うはずだ」
教育者はボストンバッグの底から取り出した黒い服を差し出した。ボクちんはその服に着替えた。頭まで全身を覆う真っ黒なスーツだ。形はダイビングスーツのようだが生地はさほど厚くはない。そして”肝心の場所”には穴が開いて大事な棒は風に揺れた。
「仮面はこれだ」
イタリアのお祭りで使われる仮面、マスカレードか。白っぽいので怪しさは抜群だ。全身黒スーツで顔はそのまま出ていたが、これなら肝心の場所以外は全てが隠れる。
「うむ、イメージどおり」
「むひょひょひょひょ…… 我ながらかっこいいでないの」
「腰にボトルを結びつけろ。そして得物はこれだ」
巨大な”針の無い注射器”を手渡された。そして準備を整えると教育者は言った。
「もうそろそろ陽も落ちる。暗がりから現れて、まず通行人に仮面と肝心の場所を見せつけろ。偉大なる開放だ。暗闇では顔と肝心の場所だけが浮き上がって見えるだろう。
そして、その男汁をばら撒け。相手からすれば君の男汁がかかったように思うはずだ。
”君の”男汁がな」
うひょう! ボクちんの男汁だ!
小躍りするほど嬉しかった。ボクちんの! ボクちんの男汁!
大きな注射器のようなものを抱えてくるくるとダンスしていたら、教育者はボストンバッグから水筒を取り出した。
「まあ軽くコーヒーでも飲んでから行きたまえ」
差し出されたコーヒーを一気に飲み干した。
おお! おお!
さらに体が熱くなるぅぅぅ! 気分は! もう!
!!!!! エクスタシィィィィィ!!!!!!!!
全身を駆けめぐる高揚感。ボクちんは物陰に隠れているのを忘れて思わず叫んでしまうところだった。
ふと、向こうから見覚えのある制服の女の子が一人歩いてきた。ボクちんの通っている高校の制服じゃないか。 ボクちんが気づくのと同時に教育者も気づいたようで、教育者は後ずさってビルの陰に隠れながら言った。
「今回のターゲットはあれだ。
行ってこい。」
…
ボクちんは飛んだ。飛んでるのは気分だけかもしれないが、それでもいい。生まれ変わったような幸福感で満たされている。ボクちんは歩いてきた女の子の前にそっと出た。
「むひょひょひょひょ…… こんばんわぁ…」
!
「きゃあぁぁぁぁぁ!!!!!!」
闇を黄色い悲鳴が切り裂いた。むひょひょひょひょ、いい声だ。
よく見ると同じクラスの女子でないの。いつもはツンと澄ましてボクちんのことなんか気にも留めないだろぅに。ほーら、仮面とアソコだけがきーっちり見えるだろぅ? キューッキュッキュッ。ボクちんの男汁をお見舞いしてやるですよぅ?
「むひょひょひょひょ…… そーれ! エクスタシィィィィィ!!!!!!!!」
◇
私は身を隠しながら被検体Fの様子を伺っていた。
「むひょひょひょひょ…… こんばんわぁ…」
「きゃあぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「むひょひょひょひょ…… そーれ! エクスタシィィィィィ!!!!!!!!」
巨大な注射器”のようなもの”から白い液体がほとばしった。白い液体は、異常な事態に直面して身動きが取れなくなっている通りすがりの女の子を、一瞬のうちに汁まみれにしてしまった。
(うむ、想定どおりだ)
すでに嵩岡で自説を実証していた私は、甲府の成功を冷静に受け止めていた。
(東遊園地の悪夢に対して”葺合の男汁”といったところか。彼の場合は精神的な鎖だけでなく肉体的な鎖もあるようだが、この実験によりどのような成果が出るか楽しみだな。)
甲府は踊りながら腰につけた”彼だけの男汁”を振りまいていた。全身汁まみれになった制服姿の女の子は既に逃げ去ってしまっているようだが、甲府はそんなことは気にも留めず得物を振り回して踊り続けていた。
ふと気がつくと、仮面と共に浮かび上がった甲府の”棒”が天を向いて屹立していた。
(む、こんなに早く”繋がった”か)
私は彼に陰萎問題があるかもしれないと察していた。急激な肉体の成長に各部の成長のバランスが取れていないのだろう、と。もちろん体格に見合わぬ精神的な未熟さについてもカウンセリングから伺えていた。精神的なショックはあくまで精神面での成長しか促さないのだが、肉体面での変化に繋がったことは非常に興味深い。
もうそろそろ頃合いかな、と思って甲府に撤退指示を出そうと思ったその時、不意に女性の高い声が響いた。
「警察です! 抵抗をやめてください!」
私は身を隠しながら声のした方を覗き見た。小柄な影が何かを甲府に差し向けていた。
(しまった、警察か!? こんなに早く来るとは予想していなかった。警察手帳らしきものを構えているようだが、あのシルエットは婦警の制服ではないな。私服の刑事か? しかし、この声はどこかで聞き覚えがあるような…)
私が状況分析していると、甲府は慌てふためいて私の隠れる物陰めがけて逃げてきた。
(バカモノ! 私のほうに逃げて来るやつがあるか!)
…
甲府は私のいるビルの隙間に逃げ込んできた。
「むひょひょひょひょ…… ど、どうしたらいいにゃぁ?」
「(とりあえず仮面と棒を隠しながら暗がりを伝ってこの場を離れろ! 北隣のビルの脇の階段から地下に入れば見つからないから着替えて後でアジトに集合だ!)」
私は焦る気持ちを静めつつ小声で甲府に指示を出し、着替えの入ったボストンバッグを渡した。ビル街の隙間にいくらでもある暗闇では、真っ黒にさえなってしまえばすぐには見つけられない。この場さえ離れれば、後は得物と仮面をボストンバッグに入れて着替えるだけだ。
「むひょひょひょひょ…… りょーかいわかったなりー」
甲府は私からボストンバッグをひったくるように受け取り、隣のビルの陰へと消えていった。
「(さーて、ちょっと時間を置いてからそ知らぬ顔で出て行くか)」
予想外のアクシデントに少々動揺が隠せないが、ボストンバッグを甲府に渡してしまって手持ち無沙汰な私は近くのビルへ身を隠し、気持ちが落ち着くのを待つことにした。
◇
「だめだあ、逃げられちゃったよ…」
怖かった。やっぱり怖かった。でも警察官なんだから放ってはおけないよね。本当はすぐに応援を呼ばなきゃならないんだけど、そんなことしてたら間に合わないし… そういえば被害にあった女の子も既にどこかへ行ってしまってる。被害調書すら取れなかったなんて…
やっぱりだめだなぁ、ボクは。市民の生活安全を守らなきゃなんないのに。
研修の半年間住むことになっている警察寮への帰りに、ボクは変質者に遭遇した。
刑事ドラマみたいに威勢良く言ってはみたものの、足がすくんで動けなかった。犯人にもすぐに逃げられてしまった。少なくともこの前見た東遊園地の悪夢とは別の変質者みたいだ。犯人の顔は仮面で分からなかったし、暗がりだから特徴といってもあいまいだし、被害者もいなくなってるから、今から応援読んで現場検証してもそもそも何が起こったのかすらよく分かってないから、何を検証したらいいかも分からない。
だめだ… 警察官として、結局何にもできてないじゃないか。明日何て脇浜課長に言えばいいんだろう… 自分のふがいなさを嘆くしかない。嘆くしかできない。
犯人も被害者もいなくなった現場に少しの間立ち尽くしていたが、ここでただ立っていても何もできない以上、また寮に向かって歩き始めるしかない。
ボクは明日何て報告するかを考えながら寮へ帰ることにした。
帰ろうとして、うなだれて地面を見たまま歩き始めると、
どん!
ビルの角を曲がったときに不意に誰かにぶつかってしまった。前も見ずに歩いていたことに急に気がついた。
「あ、失礼」
「す、すみません! ボクのほうこそ! 前も見ないで歩いて…」
と、ぶつかった相手の人に謝ろうと顔を上げたら…
目の前にあったのは作業服の胸元だった。なんだか背の高い人みたいだ。もっと上に顔を上げたら、なぜかその作業着の男性は顔を背けてボクの方を見ようとしない。その人は顔を背けたまま
「う… いやいや、こちらも不注意だったわけだから… では…」
と足早立ち去ろうとする。顔を背ける、というよりむしろ顔を隠しているようだ。背の低いボクの視点からは隠す手で顔がよく見えない。
「すみません… ボクの不注意で…」
と、言いかけて。
ふと、その声にどこか聞き覚えがあることに気がついた。
「いや… 気になさらずに。 では…」
と言って、その背の高い作業着の男性が立ち去ろうとしたときに、ボクはその声の主を思い出した。
「……先生……?」
そうボクが呼び止めると、そそくさと立ち去ろうとしていたその人は足を止め、観念したかのようにゆっくりとこちらに向きなおした。
眼鏡をかけていないのと、青い上下の作業服。ボクが覚えている先生とは全体的に印象が違う。先生によく似たのそっくりさんなんだろうか。
いや、でもこの背丈、こんな背丈の人なんてそうはいない。そしてこの声。ボクの覚えている大好きな先生の声だ。
「高広君か… いやあ、奇遇だね… こんなところで会うなんて」
その人、いや、ボクの先生は何故か気まずそうにそう答えた。
やっぱり先生じゃないか!
「先生、お久しぶりです…… こんな場所で…… そうですよ、こんなところで何をされてるんですか?」
「な、何を言ってるんだ、高広君。君こそここで… いや、そんなことは今はどうでもいいのか…」
先生はひどく狼狽していた。久しぶりに会ったっていうのに、どうしてこんなにそわそわしているんだろう。ボクは今まで先生のこんな姿は見たことが無い。おかしい。それにこの作業着姿は何だろう。
ストレートにボクは聞いた。
「どうして作業着を着ているんですか?」
すると、先生は余計に慌てふためいたような様子になった。つい畳み掛けるように聞いてしまった。
「大学での研究に何か関係が?」
すると、急に先生は背筋を伸ばし、でもちょっと不自然な明るい表情になってボクに向き合った。
「そう! 研究だよ! 君の一つ上の年度の学部生が卒論でフィールドワークを元にした論証をしていただろう? 街へ出て人間観察することも大事な研究活動の一環だからね…… しかし…… 君はどうしてここに?」
「警察寮に帰る途中だったんです。今週から生田署で研修を受けてるんです。そういえば先生は、ボクがT大卒業後に警察庁に入庁したことはご存じありませんでしたよね」
ボクは学部で先生の研究室を卒業後も心理学の研究を続けたかったけど、通っていた大学には大学院の心理学研究課程が無かったから、関東のT大大学院を受験して心理学を専修していた。T大の院で特に犯罪者の心理について興味を持ったことから、警察の科学心理捜査班を目指して国家1種を受験して、警察庁に入庁した。確かにT大の院に行ってから先生と連絡を取ることは無かった気がする。
「そうか! 高広君。君は警察庁を希望したんだね。国家1種を目指しているというのは誰かから聞いた気がするが。そうか、警察庁だったとはね。そうかー、高広君も立派に警察庁キャリア組というわけだ」
昔のように子供の成長を喜ぶ親のように喜んでくれるのは変わらない。でも。今の先生は何かがおかしい。どこか、何か嘯いているような、必死に何かを隠しているような気がしてならない。
相手が先生だからか、ボクは思ったままを口にしてしまった。
「先生… 何かボクに隠してませんか?」
すると、いつも冷静沈着な先生がぐっ、と詰まったようになって、でも急に何か気を取り直したように落ち着いた表情でボクに言った。
「何を言ってるんだ、高広君。どうして私が君に隠し事を? 君に隠すようなことは何も無いに決まってるじゃないか。 うん… まあそうだね。確かに久しぶりに会えたのは嬉しいが、私も少々取り込んでいてね。君とゆっくり話をしていられないのは名残惜しいが、今日のところは失礼させてもらうよ。」
「先生!」
ボクは引きとめようとしたけど、先生はゆっくりとぎこちなく、しかしとても大きな歩幅で地下街へと下りて行ってしまった。
その大きな背中を見つめることしか、ボクにはできなかった。
◇
「むひょー アイツは何でサツと知り合いなのかにゃぁ?」
ボクちんがビルの物陰で着替え終えて、普段の服になって出て行こうとしたその時。誰かの話し声が聞こえたので、さっと近くのビルに入って階段を上がり身を隠した。ビルの窓から声がした方を見ると、なぜか教育者とさっきの背の低い警察官が親しそうに会話していた。
「サツと知り合いーーぃ?? アイツは何者なのかにゃぁーー??」
ボクちんは教育者が何者なのか知らない。名前すら知らない。何のためにボクちんに露出をそそのかしているのかも。しかしなぜだろう。今はなんだか難しいことは考えられない気がする。まーーいーかなー、どーでもー。
とかいって、色々考えながら様子を伺っているうちに、教育者は逃げるようにその場を立ち去っていってしまった。
ボクちんも、ちっこいサツがいなくなったのを見計らってボストンバッグを肩にかけ、アイツのアジトに戻ることにした。