07. オタク少年
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今日も学校でからかわれた。「男汁を知らないのか?」って。
知らないよ。男汁って何だよ。意味わかんないよ。おそらく性的な話の何かなんだろうけど、僕には何のことだか全く分からない。
それより「萌え」がわかんないってほうがどうにかしてるよ。ジフブキさんのメイド服姿に萌えなくって何に萌えるんだよ。机の上にジフブキさんのフィギュアがあるだけで僕はこんなに幸せなのに……
僕は甲府御岳。ちょっとアニメが好きな”だけ”の普通の高校生だ。…だと思う。
普通に、高校に通って、普通に、帰りにアニメショップへ寄るだけの”普通の”生活を送っている。でも最近周りの言うことが気になって……
そうだ。僕は”性欲”というものが理解できない。
以前は”萌え”が性欲のことだと思っていた。でも最近になってどうもそれが違うらしいとわかり始めた。
一応、言葉としては知っている。もう高校生だから”好き合った男女がどういうことをする”かぐらいは理解している。でも、僕は同級生の女の子たちを見ても何とも思えないし、何も感じない。もちろん男に対してもだ。
二次元の世界の女の子たちはあんなに魅力的だし”萌え”るのに、どうして現実の女の子たちにはその魅力が無いんだろう? なぜ”萌え”ないんだろうか?
なぜだろう。なぜ僕は性欲というものが理解できないんだろう。僕に人間として何か大事なものが欠けているんだろうか。僕は欠陥人間なんだろうか。
そんなことを考えながら。
それはそれとして、今日も学校帰りのアニメショップ参りを終えて、僕は家に向けて市役所横の大きな公園、東遊園地を通り抜けようとしていた。
…
いつもどおり、公園の南側を通り抜けようとしたら、噴水広場のほうから誰かの悲鳴が聞こえた。
何? 何か事件? そういえばつい最近も何か騒ぎがあったと聞いた気がする。
怖いなぁ。幸い、僕はやせっぽちだけど背だけは高いから変なのに絡まれることはまず無いけど、本当に事件に巻き込まれたらどうしようもない。
僕が噴水を避けてイベントステージを抜けようとしたとき、悲鳴の原因が目の前で飛び跳ねていた。
怪しいマスクで顔は分からない。時折、遠目に翻るロングコートの中には何も着ていないようだ。もちろん”見えてしまう”んだろう。そして手にはキノコ状の何かを持って、周囲の人を追い回している。変質者だ!
僕は、早く逃げなきゃ、と直感的に思った。
しかし。
と、同時に。性的な欲求、おそらく性的な欲望に衝き動かされているであろう露出狂を前にして、僕は身動きできずにいた。
僕は初めて見た。本物の露出狂を。
コートの影が翻る中には、足”三本”の影。もちろん真ん中は足ではない。
美しくない。けっして美しくはないのに、躍動感にあふれる動きと降り注ぐ液体。
液体は空中で霧となり、暗がりの街灯を反射して星のように宙を舞う。
僕は魅了された。
これが露出か。これがヘンタイか。
あまりにも異様でありながら、それでいて妖しい輝きを放つその光景を前にした僕は、身動き一つすることができずに立ち尽くしていた。
そう。魂を抜かれたといっても過言ではない。
…
「君も……」
何分そうしていたかは分からない。でも精神が離脱していた僕の耳に、突然誰かの声が響いた。
「え……?」
僕が振り向くと、間近のベンチには青い作業着の男性が腕を広げて座っていた。
その男性はにこやかに笑いながら僕に言った。
「演らないか?」
「や、性交らないか!?」
激しい動揺が僕を襲った。ネットでは見たことがある、例の有名な”男同士のアレ”なんじゃないのか。僕は狙われているのか!?
「ぼ、僕にはそんな趣味は、あ、ありませんよ!!」
突然の”お誘い”に動揺する僕を気にもかけない素振で、その男性はベンチからゆっくりと立ち上がった。……高い。背が高い。僕より背が高い人なんて久しぶりに見る。
その作業服の男性は、僕の前に立ちはだかって言った。
「何をアレに見とれてたのかな? 男の子なのに男性のアレに興味が?」
僕は慌てて否定した。
「ち、違います! 僕はそんな趣味ありません! ただ……」
「ただ……ただ、何かな?」
落ち着いた声、ゆっくりとした優しい口調。よく見れば柔らかで知的な風貌。初めに恐怖を感じたのは気のせいだったのか。少なくとも怖い人ではなさそうだ。
ふっ、と動揺が解けた瞬間。僕はその人に問いかけてしまっていた。
「アレは…… 性欲を満たしているんですよね?」
「ああ、そうだよ。露出狂とは概してそういうものだ。何せ”変態”だからね」
その人は僕の変な話にも平然と答えた。それに呼応するように、何故か僕は瞬時に聞き返してしまっていた。
「性欲があったからって、どうして露出したくなるんですか? 露出したことで性欲が満たされるんですか? 僕は…… そういうのがわからないんです」
「そういうの……? 君は露出の意義が理解できないというのかな?」
「いえ…… そうではないんです。僕は……」
僕より高い背に動揺して萎縮したのか、落ち着いた優しい表情に惑わされたのか。
理由はわからないが、僕はその人に”僕が性欲というものを理解できないこと”を包み隠さず話してしまっていた。学校でからかわれたことなども……
…
「やってみればわかるよ」
その人は一通りの話を聞いた後、思いもかけなかったことを僕に言った。
「え……?」
「君もアレと同じことをやってみればいい。そうすれば露出する意味と性欲が理解できるんじゃないかな。おそらく露出することで…… 君は本来持っている感覚を呼び覚まされるだろう。もちろんそれは性欲に他ならない」
僕に露出を勧めてきた。そんな! とんでもないことを!
僕は即座に拒否した。
「いえ。僕はそんなことしません。露出なんて……」
その人はにこやかな笑顔から少し硬い表情に変わり、僕の目を見て言った。
「もちろん無理にとは言わないよ。
でも、、、本当に君はそのままでいいのかな?」
ズキン、と僕の心に何かが走った。確かに、僕には何かが大事な物が欠けているんじゃないかと思っている。性欲を理解できないことが異常なんじゃないかと。
じっと僕を見つめるその人から目をそらすことも出来ず、少し上目線のまま僕はその場に立ち尽くすしかなかった。
すると、その人は冷たい視線からまた優しい笑顔に戻り、すっ、と僕に名刺を差し出した。
「もし気が変わったら連絡してくれたまえ。私が力になろう。
きっと、、、君は変われるよ。私が責任を持ってサポートしよう」
僕は名刺なんて初めて貰う。どうするんだっけ、こういうときには。このまま受け取っていいものか。片手じゃダメだとかなかったっけ……?
こうしている間も、視界の端では変質者が飛び回っているし、悲鳴も聞こえている。そんな中にも関らず、突然のことに戸惑っている僕の耳に大きな声が聞こえた。
「待ちたまえ! 東遊園地の悪夢! 生田署だ!」
僕たちがふり返ると、一人の男性が変質者の前に立ちはだかっていた。
すると突然、目の前にいる背の高い人は僕に名刺を押し付けて
「む、、、状況が変わったようだ。私は用があるので失礼させてもらう。では」
と言って、どこかへ立ち去ってしまった。
…
僕は頭の後ろで繰り広げられている騒ぎも全く耳に入らない状態で、名刺を見つめて考えていた。
(僕は…… 本当に僕は変われるんだろうか……
性欲を理解できるようになるんだろうか……)
名刺には
「心理カウンセラー ・ 京 伊草」
そして電話番号だけが書いてあった。