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東遊園地の悪夢  作者: うさだ
5/9

05. 覚醒

     5


 どん!

 不意に肩がぶつかった。

 ”俺”はふり返って「俺様にぶつかるヤツは誰だ?」という目つきで相手を見た。

 派手な柄のシャツを着たチンピラ風の男だった。が、目が合ったあと何も言わずそのまま去っていった。

 ふん……小物が。


 ……”僕”は。新聞の小さな記事にショックを受けながらも、昨日は朝食を買わずに帰ってきたことを思い出して、朝から近くのコンビニへ出ていた。そして、コンビニを出たところで知らない人にぶつかってしまった。

 でも。何故かその時の僕は僕じゃなかった。”俺”だった。ひと睨みでチンピラが何も言わず去っていく。肩幅が広く、長年の水泳で筋肉質なのが幸いしたようだ。


 僕はおかしくなっている。例のコーヒーの影響がまだ残っているのか、妙に強気だ。


 しかし、わからない。

 僕は本当に気が弱い、はずだ。それに加えて要領が悪いから、色んなことで損ばかりしてきたと思う。だからずっと不満ばかりを抱えて生きてきた。

 なのに。今の僕はどうしたんだろう。

 ”東遊園地の悪夢”になったときの開放感。自分が全能であるかのような錯覚。犯罪という名の甘美な誘惑。逃げ惑う愚かな奴らの後姿。俺は…… いや、僕は犯罪者への道を歩み始めてしまっているのか。


 僕は”俺”と”僕”の間を移ろっていた。

 自分という存在が一体何なのか、だんだんわからなくなってくる。今まででは考えられなかったような強気の言動。でもそれは、僕の中に全く存在しなかったものではないはず。そう。いつか強くなりたいと願う僕が夢想していた強い”俺”。

 例のコーヒー、おそらく何か怪しい薬が入っているであろうあのコーヒーを飲んだ時に、今までどうしても破れなかった自分の殻が初めて無くなった気がした。

 僕は”俺”でありたいんだろうか。なりたかった自分とは……結局は露出好きの変質者なのだろうか。犯罪者が僕の理想なのか。

 自分の行くべき方向が見えないという拠り所の無さが辛い。

 ……でも。

 いくら犯罪だとわかっていても、露出を見て逃げる人を追いかける時の恍惚感。強い”俺”になっている満足感。

 あの感覚だけは。

 リアルなんだと思う。自分の「強くありたい」という切なる願い。

 僕は…… 強くありたい。

 ”俺”でありたい。


          ◇


 気がついたら昼になっていた。それを空腹に気付かされてしまう。

 朝からずっと考えてたのか、俺は…… いや、僕は。

 どんな状況であっても人間、腹だけは減るものだ。冷蔵庫の中を漁ってとりあえずの食欲を満たせるものをこしらえる。


 適当に食事を済ませ、一息ついたらまたこれからのことを考え始めた。

 今日は休日だからまだいい。一日家にいても引け目は無い。

 でも月曜からどうしようか。失職したんだからやっぱりハローワークにでも行くべきなのか。それとも大学の就職課まで足を運んでみるか。

 何故か、今後のことについて今までの僕では考えられないぐらい前向きに考え始めていた。以前の僕なら何日も落ち込んで食事ものどを通らなかっただろうに。

 今の僕は。もしかして”俺”なのかな。


 ピン・ポーン……


 そんなこんなでまた物思いに耽っていると、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。

 郵便? ……いや、そんなわけは無い。日曜だからな。

 何だろう。また例の宗教か。

 でも、今の僕には強気がある。わけのわからない奴は適当に追い返してやればいい。

 ”俺”はとりあえずドアを開けた。


「はい……」

 視界に飛び込んできたのは、カジュアルな服装の男性の胸元、と首。

 ということは僕より二十センチメートルぐらい背が高い。この背丈は……


「やあ、嵩岡君。突然ですまなかったね」


 長袖のシャツにベスト。下は薄い茶色のチノパン。穏やかな大人のスマイル。いかにも休日の若いお父さん、といった身なりで教育者が立っていた。

 そう。”教育者”だ!

 気付いた瞬間に、俺は”僕”に引き戻されてしまった。驚きと恐怖でせっかくの強気がどこかへ飛んでいた。


「ま、またどうして、ぼ、僕のウチを……」

「言っただろう。”真の教育者にわからないことなど何も無い”、とな。

 今日もちょっと出かけるぞ。すぐに支度をしろ」


 また連れて行かれるのか!?


「ち、ちょっと…… 三日連続ですよ!? そ、それ以前に僕が何やらされたかわかってて言ってるんですか!? 犯罪ですよ! 犯罪者にさせられてるんですよ!」


 もう自分で弱気だとか強気だとかがわからなくなっている。しかし、何も考えられないときには意外と本音がすらすら出てくるものだと初めて知った。

 教育者はスマイルを急に冷たい表情に変えて、僕に言った。

「そろそろ…… 君自身が変化していることに気づいた頃だと思ってね。

 そう、こうありたい”強い”自分に近づいていることに」


 (!)


 心の中が見えているのだろうか。

 悲しいことに、昨日までのことは全てはっきり覚えている。色々聞かされた露出技術の講義も、薬のせいで変質者になっている時のことも。

 でも、”こうありたい”とか理想の自分とかについて会話した覚えは無い。今朝から考えていたことを全て盗聴されているかのようだ。頭の中まで入り込まれて。


「そんなこと……言ったって……僕は……」

「まぁ今日のところは悪いようにはしない。君の”気づき”を助けたいと思ってね。

 君が本当の自分を獲得するためだ。さぁ、お茶でも飲みに行こう」


 逆らえない……


          ◇


 教育者は街中を抜け、どんどん山手に向かって歩いていく。今の僕は、その後をただ付いていくしかない。


 次第にきつくなる坂を上っていくと、異人館街といわれる場所に来ていた。鎖国していた幕末から明治、もちろん飛行機など無いから船旅が主流だった時代に、この港町はヨーロッパ定期航路の終着点だった。だから明治大正の日本にしては珍しいぐらいに外国人が多く住んでいた。そして当時、この土地に移り住んだ外国人が集まって住んでいた頃に作られた洋風の建物が、百年経って観光名所になっている。地元では有名な観光地だ。

 しかし来るのは初めてだった。わざわざ自分の住んでいる場所の観光地に足を運ぶ人などそうはいない。


「異人館街……」

「そうだ。おそらく来たことはあまり無いはずだ。地元の観光地なんてそんなものだ」

 考えていることがわかるのか? いや、表情を見て判断しただけだろう。

「こんなところで…… また犯罪を!?」

「そう警戒するな。今日は君の変化について話をしようと思っているだけだ。

 この二日で”強い”自分に近づいたんじゃないのか? なりたかった自分に」


 確かに、その言葉に弱かった。今の僕は。


      …


 欧風の石畳と階段。区画全体が斜面に沿って作られている。大小雑多な建物が入り組んで、まるで迷路のようだ。中に入れば入るほど、車の通れない道が多くなってきた。所々にある古びた洋館が例の異人館なんだろう。休日とあって観光ムードの人がたくさん歩いている。

 教育者は通り沿いのオープンカフェに腰を落ち着けた。


「コーヒーでも飲むか?」

「いえ! コーヒーはもう結構です!」


 即答。さすがに三回目にもなれば警戒しないほうがおかしい。


「ははは、、、無理もないな。じゃあ紅茶にしよう。古き良き異国情緒を感じる為には紅茶でなくてはね」

 そういうと、教育者は座ったばかりの席を立った。僕も釣られて立とうとしたが

「いや、君は座っていたまえ。少しばかり用がある」

 と静止された。


 教育者は店の脇へ入って行った。と思ったら、白いエプロン姿の女性店員と何か話をしている。妙に親しげだ。店員も妙に馴れ馴れしい。付き合ってるのかな。中身はともかく、見た目はあの背にあのマスクだからな…… さぞかしモテるんだろうな……

 ……あれ? 店員が手を顔に当てて泣き出した。それを教育者がなだめている…… ていうか何してるんだろう? 何でいきなりそういう展開?

 ちょっと待て、そもそも何で僕はここに座ってるんだろう……?


 わけのわからないまま昼ドラの一シーンを見せられた後、店員は泣きながら店の奥へ下がっていき、教育者は面倒くさそうに頭を掻きながら戻ってきた。

 時計を見る限りでは十分もかかっていないようだけど、遠目に気まずい雰囲気を感じながら待つ時間はあまりにも長く感じた。


「いやいや、待たせてすまない。ちょっと手間取ってしまってね」

 悪びれもせず、教育者は平然とそう言い放つ。

 何をしてきたのかは気になるけど、他人のプライバシーだしなぁ…… とか僕が考えているうちに、注文の紅茶が出てきた。

「お待たせしました。レモンティーお二つですね」

 紅茶を運んできたのはさっきの店員だった。泣き腫らしたようで目の周りが赤い。僕に関係は無いはずなんだけど、なぜか激しく気まずい。


 ……ちょっと待て。

 この紅茶を飲んで大丈夫なのか? また何かを入れられているんじゃないか? また”東遊園地の悪夢”に変身してしまうんじゃないのか?


 僕がカップを前に逡巡していると、教育者が気づいた。

「”これには”何も入っていないがな。気になるようだったらこうしてみるか?

 行儀が悪いのは勘弁してくれ」

 と言って、二つのカップを持って交互に注ぎながら混ぜ合わせた。数回繰り返した後には、また同じくらいの量の紅茶が二つ、になっていた。

「レモンティーだからあまり空気に触れさせるのは良くないんだがね。これで信用してもらえたかな?」

 教育者は柔らかい大人のスマイルだった。

 それで安心した僕は紅茶を口にした。酸味の混ざった普通の味。身体の中で何かが燃え上がることも無かった。


      …


「で…… 君は”俺”である瞬間に気づいた、と言うんだね?」


 教育者との話は、自然とカウンセラー相手の会話みたいになっていた。

「ええ。変質者になるわけではありませんが、何か妙に強気で、まるで怖いものが無くなったような…」

「その時の君の感情は? その状態でも落ち着いていたとか、気づいた瞬間にうろたえたとか」

「どちらかというと平静を保っていましたね。まるでそれが当たり前のように」

「じゃあ違和感は無かったんだね」

「はい、ありませんでした」


 教育者は眉間を押さえている。何かを考えているようだ。

 そして教育者は顔を上げて言った。

「……そうか、、、わかったよ」

 僕は釣られるように聞き返す。

「何が……わかったんですか?」

 教育者は顔の前で指を組み、まっすぐに僕の目を見ていた。

「君は真の自分の姿に気づいたんだ。君の中に”俺”という存在が既にあって、それが真の自分だったんだ」

「真の自分…… ですか……?」

「そうだ。君は自分に自信が無いと言っていた。確かに表面的な感情としてはその通りなんだろう。しかし、常に”強くなりたい”という思いが心の底にあったはずだ。それが夢の中に現れ、妄想に現れて。君は夢の中で正義の味方やヒーローになっていたような覚えは無いかな?」

「そういえばありますね。僕は強くなりたいと思ってます……」

「そうだろう。思いはあっても、残念なことに”強くありたい”と思うだけで強くなれるわけではない。気持ちだけではなく肉体面での頑健さも必要だ。

 しかしだ。幸運なことに君は強い肉体を持っている。水泳で鍛えたその筋肉があればそもそも恐れるものなど何もないはずだ。違うかね?」

「確かに…… 力にだけは自信がありますが……」

「精神面だけで本当に強くなることは出来ない。それを支える肉体あってこそだ。そして君は既にその素質を持っている。つまり君は本当は強い。自分の強さに気づいていないだけなんだよ」

 教育者は熱く語る。雰囲気に呑まれて、こちらもだんだんそんな気がしてくる。

「そんなもんでしょうか……」

「君の中には”俺”という人格がいる。いや、むしろその”俺”のほうが本来の人格なのだ。本当は強い自分がいる、と気づくだけで君は変われるんだ。自信無げにおどおどしているから得たいものも得られないんだ。”俺”の自信をもってすれば、再就職すらすぐに叶うはずだ」


 再就職、という言葉がズキンと心に響いた。

 そうだ。ここで自信をつけなきゃ今までと何も変わらない。

 強くなるんだ。本当の”強い自分”になるんだ。


 うつむいて色々考えていると、ふと気がついたら教育者の話が止まっていた。

 教育者は僕が顔をあげるのを待っていたようだ。

「フフフ…… 色々と思い当たるところがあるようだね。

 それはそうとして、私も少し喋り過ぎたようだ。喉が渇いていかん。追加を頼もう。 ……あ、君! いいかな?」

 教育者はそう言って店員を呼んだ。


 すぐに店員が来た。さっきの女性店員だった。なんとなくこっちは気まずい……

 教育者は何も気にせず、明るい表情で追加の紅茶を頼んだ。

「今度はミルクティー二つだ。大事な友人だからね。彼には”スペシャル”で頼むよ」

「・・・確かに。少々お待ちください……」

 店員は暗い表情のまま奥へ下がっていった。事情は知らないけど、本当にこの人は得体が知れない。裏で何をやっているかわからない。


 紅茶二つはすぐにやってきた。

「お待たせしました」

 件の店員がティーカップをテーブルに置くと、いきなり教育者は店員の手を掴んだ。

「”スペシャル”…… わかっているだろうね?」

 教育者は店員を睨み付ける。店員は下を向いて泣きそうな顔で答えた。

「はい……」

 そう聞くと、教育者はふっ、と柔らかく表情を崩した。

「ありがとう。今夜連絡するから」

「待ってます……」

 店員はそう言い残し、顔を伏せてトレーを抱きしめたまま店の奥へ戻って行った。

 なんだかなぁ…… 僕は関係ないはずなんだけど、妙な罪悪感がある。


「いいんですか?」

「いいんだよ。あれで」


 教育者は、また硬い表情に戻ってミルクティーに手をつけた。

 僕もさっきまでの緊張感で喉が渇いている。こういう店で紅茶なんて滅多に飲まないし、今朝から悩んでたことも言えたから少し気分がいい。

 一口飲んでみると。牛乳の柔らかさと甘い香りの中に少し苦味が……あれ? ミルクティーってこんなもんだったかな? 久しぶりだから味を忘れてるのかな?


 ……トクン。


 ”何か”が体の中で小さく動いた。

 少しずつ体温が上昇してくる。


 ……トクン。 ……トクン。


 (まさか!)


 しかし、コーヒーの時ほど急激に上ってくる熱さは感じない。むしろ体全体がゆっくりと変化していくようだ。気分は…… 次第に冴え渡ってくる。

 そう、今は”俺”だ。


「ふむ…… やはり紅茶だと大した量を入れられないからな……」

 そう教育者はつぶやいていた。やはりコイツの仕業か……

「しかしだ。もうそろそろ気づいてもいい頃なんじゃないか、タカ? それが真の自分の強さだとな。今の”俺”とさっきまでの”僕”は連続しているはずだ。違うかな?」


 そういえば意識が遠くなった覚えが無い。

 俺は、俺と僕の間をさまよっていた状態から完全に”俺”になっていた。


「ああ、おかげで俺の迷いは消えたよ」


 俺がそう言うと、教育者は苦笑していた。

「それは重畳。どうだ、あの娘のスペシャルミルクティーはすばらしいだろう?」

「そうだな、悪くはない。いや、むしろ最高だ」

「それが真の君、いや”お前”なんだよ。もう本来の強い自分でいることに迷いは無かろう。明日からの再就職活動も胸を張ってあたれるはずだ。私に感謝するんだな」

 俺の再就職のためだったのか? そのために露出させていたのか? いや、変質者に変身させる意図はずっとわかりかねているし、再就職のため、というのも単なる俺の思い込みかもしれない。

 しかし、その時の俺は強い自分に満足していたから、素直に感謝していた。


「ああ、感謝するよ。俺が俺になれたんだからな」


      …


 そのスペシャルミルクティーを飲み続けていてよかったものかどうか。後から考えれば疑問も湧くが、それから少しの間、二人とも黙ってただミルクティーを飲んでいた。

 それから、教育者は十分にミルクティー、おそらくスペシャルではないミルクティーを味わった後、また話を切り出した。

「基本的に、これで今日の用件は終わりだ。再就職活動の首尾については後日聞かせてもらうよ。私の大事なサンプルだからね」

 このとき初めて、自分が何かの実験台だったことに気づいた。が、既に俺は”俺”になっていたし、実験台だろうなんだろうが今の自分には満足している。文句は無い。

「わかった。明日からハローワークだろうが何だろうがどこでも行ってやるぜ!」

 俺は気炎を上げた。教育者は上体を背もたれに委ね、腕組みをして俺を見ていた。その細めた目は満足そうだった。しかし……

「しかし……」

「しかし、、、何だね?」


 同時に俺の中で”ある衝動”が起こり始めていた。

 体が熱い。この熱さから開放されたい。いや、開放したい。

 どうすれば……


 そうだ。俺は露出したい。全てを曝け出したい。


 薬がキマッているせいか、俺は昨日までの露出で味わった快感を思い出していた。そして、その快感をもう一度得たいという欲望が体の心から湧き上がっていた。

 しかし、ご丁寧にわざわざ教育者へ言うべきことだろうか。コイツも澄ました顔をしているがたいがいおかしいヤツだ。コイツに変なことを言ったらまた何をさせられるか分かったもんじゃない。

 心の中があれこれ衝動とも思考ともつかない状態で、俺が何を言い出したらいいものか躊躇していると、教育者はそれを見透かしたように切り出した。

 その声に俺が顔を上げると、さっきまでカウンセラー然としていたその表情は、東遊園地で何度も見た怪しい薄笑いに変わっていた。

「ククク、、、何を考えているかは表情を見れば分かるよ。・・・ふむ。意外なほど副作用が残ったな。必ずしも、とは思っていなかったのだが、、、 面白い。ではとりあえず必要なものは用意しよう」

 すると教育者は立ち上がり、店の奥へ行った。俺は何も言っていないのに、一人で勝手に何か納得して何かを始めようとしているらしい。


 それからすぐに見覚えのある茶色のボストンバッグを担いで帰ってきた。

「こういうこともあろうかと、予め預けておいたんだよ」

 誰に、は聞くまでも無いんだろうな。何が”こういうこともあろうかと”なのかは聞いてみたいところだが、なんだかコイツに疑問を抱くこと自体が無意味のような気がしてきた。

 何はともあれ、準備があるなら話は早い。


 俺が決意を持って見上げると、教育者はバッグから地図を取り出した。

「想定するステージはここ、異人館街だ」

 地図を広げると、今いる場所の近辺が載っていた。所々赤で印が付いている。

 いきなり話を切り出せるぐらいだから相当な準備がしてあるんだろう。この傾斜地にどうやって地下道を掘ったのかには興味が湧く。

 俺は敢えて横柄な態度を示すように、腕組みをして聞いた。

「じゃあ、とりあえず地下道の入り口の場所を教えてもらおうか」

 しかし教育者から帰ってきたのは意外な言葉だった。

「地下道など無い。あるわけがなかろう。こんな傾斜地に地下道が作れるか、馬鹿者。考えなくても分かるだろうが」

 一瞬ひるんだが、俺は罵倒にもめげず、つい、ふてくされたように返した。

「だったらどうやって脱出するんだよ」

 教育者は、にやっと笑った。

「地下がダメなら空中があるさ」


 空中?


「街路が細いのは見てのとおりだ。さらに傾斜地ゆえに家の壁や擁壁の上の空間が路地の間を複雑につないでいる。つまり、家と家との間の壁の上を通ることで複数の道をまたいでいくんだ。お前の跳躍力なら難しくはないはずだ。一見回り道が必要なこの路地とこの路地も、この位置から壁を登れば一瞬で渡れる。他にも、ここと……ここから……この間もだな。路地の間のパスがこれだけ存在するわけだ。で、最後はここから……この場所を経由して、この家の壁の上を走る。そして……こう、この位置に出てくる。これがメインの脱出路だ。もう一つは……こう。いずれにしてもゴール位置がビルの裏だから人目にはつかない。ここで着替えれば脱出可能だ」


 地図上を指でさし示しながら、最後に教育者は脱出ルートを説明した。大きくは二ルートあるからどちらでも構わないが、最終的には同じ場所に出てくる、とのこと。

 地図を見ているうちに、俺のほうも次第に気分が乗ってきた。今から露出するんだ。

 ”犯”るんだ。


「うへへへへ…… よーし……」

 自分でも目つきが変わっているのがわかる。体中のあらゆる箇所から炎が上がって全身が包まれるような錯覚に陥る。


 しかし意外なことに教育者は、その気分の盛り上がった俺にいきなり水を差すようなことを言い出した。

「しかしだな。すでに変態を遂げたお前にはもう露出行為でハジける必要性は無いはずなんだがな…… 元からそこまでの性癖を持っていたことを私が見抜けなかっただけのことかもしれないが……」


 ごちゃごちゃと何を言ってやがる。

 俺が感じたリアル。それは露出だ。

 圧倒的な力。体中から湧き上がる躍動感。そして犯罪という甘美な麻薬。

 俺は、力強く言い返していた。どことない苦手意識をいまだに感じるこの男に。


「何言ってんだ。そもそも犯れって言ったのはアンタだろう。俺は自分自身を曝け出すことで初めてリアルを感じることが出来るんだ。俺が俺であるためにな」


 教育者は、さっきまで地図を片手で熱心に脱出路を説明していたくせに、今は面倒くさそうに頭を掻いていた。

「私もこういうお遊びは嫌いじゃないがね。一度や二度ならともかく、あまりにも連日だと生田署も本腰を入れてくるだろう。それで後ろに手が回ることにもなりかねない。私は別にわが身を破滅させたいわけではないからな」

 つまらんヤツだ。この場に及んで保身か? こんな下らんヤツの保身のために俺は俺のリアルを捨てるつもりはさらさら無ぇなぁ。

「ふん。俺は俺のやりたいことを”犯”るだけだ。アンタの指図は受けねぇ」

 頭の先まで全能感に満たされた俺に怖いものなど何も無かった。

 そんな俺に、教育者は一つ溜息をついてからこう言った。

「わかった。まぁ仕方なかろう。乗りかかった舟だ。私が犯りかたを説明しておいて歯止めをかけるのも殺生な話だしな。お前が望むなら脱出までのサポートはしよう」


 それから一瞬の間をおいて教育者は身を前に乗り出し、俺の目を見て続けた。

「しかしだ。昨日までの私のオーダーと違って、今日はお前自身の意思だ。その違いは分かっているのか?」

「ああ、わかっているさ」

「その上で、だ。既にお前は自由だ。曝すも曝さないも全て自身で判断できる。だから私はオーダーを出さない。曝すことでお前が何を得て何を失うかまでは関知しないから後は好きにしたまえ。

 曝すなら。脱いだ服ぐらいは私が脱出場所まで持っていこう」

 まっすぐ目を見て、それでいて”どうにでもしろ”といった投げ槍ぶりで教育者は言い放った。

 それでも俺の意思はとっくに決まっている。俺は心の中でつぶやいた。


(ふん… たしかに、こいつは素敵だ)

 言い方はともかく、要は脱出場所までのサポートがあるってことだよな?


「なら、曝さなくっちゃな!」


          ◇


 青いコートを翻し、俺は空へと飛んだ。


 気づくと、起伏に富んだ異人館街にはさまざまな足場が存在した。街灯、塀、階段の手すり。時には上から民家の屋根へ飛び移ることも可能だった。

 休み気分で他所から観光に来ていると思しき腑抜けた連中相手に俺は”全てを曝し”、そして風のように飛び去る。それを繰り返した。

 現れては消える青い影。そして一瞬のうちに脳裏へ焼きつく、コートの中の”あの”映像。せっかくの休日を満喫しているのに、予想外の衝撃に悲鳴をあげる観光客。

 一つ隔てた路地では悲鳴を聞いて不安に惑う姿。残念ながらその不安が現実となる瞬間。響き渡る悲鳴の連鎖。


 狭く急な石畳と階段が迷路のようになった街は、混乱の坩堝と化した。

 その甘美な悲鳴に酔いながら、俺は空中を縦横無尽に駆けていた。

 すばらしい。俺は翔んでいる。空を翔んでいる。

 これが俺のリアルなんだ。

 この街の地図を頭に浮かべ、路地から路地へ、空中から空中へ。

 ”俺だけの道”を。


 もう俺は…… 僕ちゃんには戻らない。戻れない。


      …


 気がつくと、件のオープンカフェの椅子に教育者の姿は無かった。さっきまで悲鳴しか聞こえなかった観光客たちの中からも、次第に正気を取り戻して俺の行方を追い始めるやつが出始めた。そろそろ潮時か。

 俺は教えられた脱出ルートをたどって一気に混乱の中から脱出した。

 大したもんだ。一瞬で騒ぎが遠く頭の後ろへ離れていった。


 最後に指定されたビルの裏へ壁から飛び降りると、そこには教育者が待っていた。路地裏の陰へ長身を隠すように、人目のつかない場所で壁にもたれたまま。


 待っているときの腕組みを崩さず、教育者は聞いた。

「首尾は?」

「上々だ。誰も追って来れるわけねぇ」

「意外と長くお楽しみだったようだな。着替えはこっちに用意してあるから二分で着替えろ。脱出するぞ」

「おう」


 元の服に着替えると、週末気分の漂う街中の雑踏を俺たちは平然と混じって歩いていた。一台のパトカーがサイレンを鳴らしながら異人館街へ向かっていくのを横目に見ながら。さっきまでのことがまるで夢のように感じる。

 並んで歩きながら教育者は、バッグから何かを取り出した。

「もう必要ないと思うがな。お前に一応これを渡しておこう」

 白い包みが連なった医者にもらうような粉薬。十ばかりある。

「もし、以前みたいに気分が落ち込むようならな。これが何かは言うまでもあるまい。コーヒー一杯に一袋だ。半分も入ってれば十分効くがな」

 おそらく今日も飲まされたあの薬だろう。もう、僕ちゃんを捨てた今の俺には必要ないのかもしれないが、くれると言うものをわざわざ断る理屈も無い。

「ありがたく貰っておくぜ。俺の意思としてな」

「まぁ必要ないと判断したなら使う必要は無いんだが、好きに使え」

 そして教育者は俺に薬を手渡すと、更にボストンバッグの中へ手を入れた。引き出したその手には、さっきまで羽織っていた青地のコートがあった。

「これも私からのプレゼントだ。まぁ変身のお祝いとでも言うかな。既にお前専用のようなものだし。そう安いものでもないんだぞ。柄に見覚えがあるはずだ」

 俺はこの数日間を共にしたコートを受け取った。改めて見てみると、色々思うことが湧きあがってくる。そのせいか、素直に礼を言う気にはなれなかった。

「礼は言わないぜ。これは俺自身みたいなものだからな」

「ふん、礼など別に構わん」

 教育者は憮然として応えた。


 その直後、交差点で別れる場所に差し掛かった時に教育者は付け加えた。

「礼など構わん。その代わりに、だ」

「その代わりに、何だ?」

「このコートでお前が”犯”るときには私に一報入れろ。電話番号は昨日かけたときのアレだ。わかったな?」

 相変わらず意図も理由もわからないが、深く考えずに俺は即答していた。

「ああ、わかった。犯る時には電話するよ。俺の雄姿を見せてやる」

「ふっ…… まぁその雄姿とやらを見せてもらうよ」

 教育者の、人を小馬鹿にしたような態度は最後まで変わらなかった。


          ◇


 東遊園地のベンチに私服でさりげなく座っていた俺のイヤホンで警察無線が鳴った。


”……緊急指令。生田署所轄内の異人館街にて公然わいせつ犯が出没しました。担当者は速やかに現場へ急行してください。”


「何ぃ!? 異人館街だと!? ”東遊園地”の悪夢じゃなかったのか!?」

 完全に裏をかかれてしまった。

 何のために俺は朝の7時から東遊園地に張り込んでいたんだ。何のために京町交番の連中に職務質問を受けてまでこの場所にとどまっていたんだ。


 完全に”奴”にしてやられてしまった。


 俺は咄嗟に立ち上がっていた。こうしちゃいられない。異人館街へ急行しなくては。

 しかし所轄範囲の南端にある東遊園地から、同じく北端にある異人館街へはどう急いでも十五分はかかる。

 それでも俺は走った。


      …


 現場に着くと、とっくに騒ぎは収まっていた。さすがに遅かったか。

 付近への聞き込みでは、確かに昨日まで出没していた東遊園地の悪夢に間違いないようだった。


 俺は悔しさに歯ぎしりするしかなかった。


          ◇


「加納は?」

「一応、異人館街へは向かったみたいですね」


 その時の生活安全課では、慌てる様子も無くお茶を淹れていた。

 脇浜は茶菓子に手を伸ばしながら言った。

「若菜君。とりあえず露出狂の件は加納一人でさせておけばいいから、君は来週の空き巣防止啓発講習会の準備を進めてくれたまえ」

「了解しました」


 若菜巡査が出て行き、生活安全課から人がいなくなると脇浜は窓の外を眺めて一人でつぶやいていた。

「目には目を…… か……」



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