突然に変わった日常
忘れもしない。中学卒業の日。
友人が少ないため、卒業アルバムにコメントを書きあうというビッグイベントを早々に終えた小林晴は一人、まだ夕方だというのに帰路をたどっていた。
平日の三年間、いつも通っていた道は真っ赤な夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。今まで何とも思わず、当たり前のようにこの道を歩いていた。
この道をよく観察しながら歩いたのは、ちょうど三年と一か月前のことだとしみじみ思う。
もう、この銀杏並木(秋は腐った銀杏が落ちて、とても臭かった)や、迷惑な鳩屋敷、何故か住宅街の真ん中にポツンとある激安自動販売機を見なくなると思うとなると、なんだか寂しいような気もしたが、冬の整備されていない雪道を一時間半もかけて歩かなくて済むのは、清々した。
それでも、一人でその日の総括をしながら通った通学路は晴にとって学校以上に思い出がある場所でもあり。
少し感傷的な気持ちで、道を見渡すと家の間にいたんだろう黒猫がしなやかに遠くに走っていくのが見えた。
三週間後からは、高校生か・・・・・
晴は、良くも悪くも凡庸な人間だった。
いや、帰宅部で友人が少なくて何事にも消極的だから、平均よりも下かもしれない。
無論、決まった友人はいないし、クラスが変わるごとに仲良くする友人が変わる。
その友人も新しい環境になかなか馴染めないカースト下位の奴らで、たまに話す程度。晴は、普段から目立たないように気を付けて生活していた。
目標はいつだって、クラスで居たか居なかったか分からない位の空気人間になること。
まあ、卒業式の後一人で帰るのに、引き留めてくれる奴がいない時点でその目標は叶ったんだろうな。
後悔はしていない。これで良かったんだ。
後悔はしていない。が、やるせない気持ちはあった。
三年間で、卒業後もつるむような友人が一人もできない。
ホッとする事でもあるが同時に、当然悲しい事でもあった。晴はひねくれた人間だったが、普通の思春期を迎えた青少年でもある。一般的に悲しいことは、晴にとっても悲しい。
別に一人が好きでこんな風になったんじゃない。関わらないようにしていただけで、人間嫌いではない。
ただ、面倒になってしまったのだ。人間関係が。
この世界は、全てにおいて異端を排除したがる。
勿論、天才や鬼才などといって持て囃されるケースもあるがそれは、珍しいケースで、大抵は“変な人”といったレッテルを貼られ、あらゆるところで煙たがれる。
そして、一番の問題は、いい意味で変わっていようと悪い意味で変わっていようと同じように扱われることだ。
晴には、大事な友人がいた。彼は晴の自慢で大好きな人だった。
彼は、非常に優れた人間だった。顔も頭も性格も運動神経も家柄も、全てにおいてパーフェクトで。だからこそ、異端とされ排除された。
彼を恨んだ人間が在らぬ噂を立て、彼を孤立させたのだ。
今まで彼に向いていた羨望や憧れの眼差しは、一気に妬みや恨みに変わる。彼は、あまりにも完璧すぎて、排除されようとされていた。
晴は、いつまでも彼の味方だった。
彼の友人が晴以外全ていなくなり、晴にも被害が出るようになってからしばらくして、彼の両親にそのことがばれて、彼は転校していった。
彼の両親は権威ある人だったので彼を苛めていた奴らはきついお灸が添えられた。それでも晴は、嬉しくない。なんで、今更と。
晴はその騒動以降、友人が彼以外いなくなってしまった。つまり、彼が転校していなくなったら本当に独りぼっち。それに、彼のことが本当に好きで、親友だと思っていたから。彼がいなくなることが悲しくて、不安で。転校しないで欲しかった。
優しい彼は、晴を気遣い転校はしないといったが彼の両親がそれを許すはずもない。晴も今更、クラスに戻っても簡単に受け入れられるとは思えず、彼のためには転校した方がいいと気付いていた。だから、彼を信じて助言したのだ。転校した方がよいと。
彼は、「いつまでも僕たちは友達だから」と言って去って行った。それが小学四年生の時。
晴は独りぼっちになって、そして小学6年時。彼からの手紙が完全にこなくなっていたその頃には人を信用できなくなっていた。
もう、誰にも期待しない。誰ともかかわりたくない。
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感傷的になっていたら、いつの間にかトラウマを思い出していた。
別に特別酷い経験でも、珍しい経験でもない。誰にでも起こりそうなちっぽけな絶望。けれど、これまたちっぽけで臆病な晴の心にヒビを入れるには充分なモノだったから。
でも成長した晴は、そんな弱さの象徴であるトラウマを持っていることさえも赦せない。
確かに、通学路としてこの道を使うことはなくなるが、この道はなくなることはない。
何を感傷的になっているんだ、俺は。
一回、悪いことを思うと止まらなくなる。それを学習していた晴は、慌てて頭を振った。
……思い出したくもなかったのに。
嫌な思いを振り切りたくて、晴は歯ぎしりしながら立ち止まった。
目の前に広がるのは、人気のない寂しい路地裏と小さい頃によく遊んでいた公園。
葉が風に舞い上がる音と、微かな土の匂い。
つまらない事を考えていた間に、もうこんなとこまで来ていたのか。
耐えるように目をギュッとつぶる。眼の奥でキラキラと行き来する赤と緑の光。しばらくそれを眺めて心を落ち着かせた。こうすると世界が自分ひとりだけのように思えて少しスッキリする。
そして、思いっきり目を開けると、目の毛細血管が縮まり、最初の数秒目が見えなくなって。
徐々に真っ暗な視界に、世界が見えてくる。
ああ、これが現実。自分以外の誰かがたくさん存在するクソみたいな現実。
確かめるように、噛み締めるようにあたりを見渡した。
そして、気付く。
……さっきの黒猫?
さっき見かけた黒猫がこちらをジッと見ているのだ。
さっき見た黒猫だという確信はない。猫なんて触ったこともないし、顔の違いなんて分からない。だけど、なんだか、そんな気がした。
普段なら追いかけない。気にもしない。
だが、その日は卒業式だった。過去の自分を捨て新しい自分を作り直す機会。
自分のリセット。
晴は、いつもより浮足立っていたのだ。
もしかしたら、この自分の持っている薄暗いちっぽけなトラウマが一掃される“良い出来事“が起こるかもしれないと、心の奥底で期待していたのかもしれない。
黒猫は、こちらを度々振り返った。そして、晴が着いてきているのを確認するとまた歩き出す。
走ることはしなかった。黒猫とはある一定の距離を置いてただ無言で着いていく。
ただの興味審だ。黒猫が走っていたら、早々に諦めていた。
なんか、頭がお花畑の奴みたい。
時折、冷静になり恥ずかしくもなったがこんな貴重な体験を自ら手放すのも惜しくて、黒猫を注意深く見ながら足を前に進める。
一体どこに行くのだろう。
いつの間にか晴の全く知らない道に出ていて、少し不安になりながらもケータイがあるから大丈夫だろうと黙々と着いていく。
しばらく歩いて、もうどれほど時間がたったのかも分からない。住宅街や商店街の賑わった場所など疾うに過ぎ、気付けば田んぼがぽつぽつとある田舎道で。家から見たら、遠かった山が今は目の前にある。
「ここは……」
なぜか、晴には既視感を感じた。といっても、何て事はない。幼稚園の時に一回遠足で来たことがあっただけで、微かに記憶に残っていたのだけだ。
確か、彼と並んでこの道を歩いた。まだ、幼かったから二人手を繋いで。
トラウマを無くす為に着いてきたのに、思い出しては本末転倒。すぐにそれを頭の中から追い出し、どこへ向かうかへの推理で頭をいっぱいにしようとぼけっとしていた頭をフル稼働させる。
そうだ。確かここに階段のバカ長い神社があった。
晴には黒猫の進んでいる道が、確か山にある神社に進む道だった気がして。もしかして、そこに行くのかもしれない、と。なんとなく期待した。それならば、あと少しでゴールだ。
そして、やはり。
黒猫はそこに向かっていった。
黒猫は、長い階段を前に晴の方へ振り返りじっと顔見つめてきた。それはまるで「覚悟しろ」と言われているようで、無意識のうちに口に溜まった唾液を飲み込む。前に向き直した黒猫は急に歩みを速めて、神社の階段を軽やかに駆けていく。
晴もその黒ネコを見失わないように階段を二段飛ばしで急ぎ駆け上がった。
普段、運動をしない晴はそれだけで辛く、全身で息をしながら200段近くもありそうな階段をただひたすらに上る。これも、普段なら諦めている。
だが「こちらに着いて来い」という態度の黒猫に着いていったら神社にたどり着いたのだ。晴は仏教徒でもないが、なんだか意味がありそうな気がした。
これこそが、微かに願っていた胸の内の黒い塊を一掃する"良い出来事”のきっかけなのだと思ったのだ。
あと、十数段。もう、社の屋根が見えている。
あと八段。あと六段。
あと四段。
最後の力を振り絞る。
「やっ」
最後の二段を一気に飛び越え、晴には珍しくやった、と感嘆の声をあげようとした。
そう、あげようとしたのだ。実際にあげることはできなかった。
なんでここに黒猫が!?
そこに黒猫がいたことは必然である。彼は、その黒猫を追いかけてここに来たのだから。
ただ、場所が問題だった。
晴は勢いよく階段を上っている。急に止まることができない位、勢い良く上っている。
晴の予想では、最後の一歩を強く踏みしめ、肺からたっぷり吐き出した酸素をこれまたたっぷり吸い、落ち着いたら目線をあげ、またちょっと先にいる黒猫を見る。
そうだったはずなのに。
黒猫はすぐ、目の前にいた。正しくは、晴が最後の一歩を踏む予定の場所。
勢いは殺せない。
このままでは、黒猫を踏んでしまう。
晴は、考える間もなく踏むはずだった場所より少し右に狙いをつけ、足をつけた。
たん、と地面を踏む音が鳴る。
これで黒猫を踏んでしまうことはなかったが、予想外なことがまたあった。
「あっ……」
運動不足の晴の体は、その予想外の行動に耐えられなかったのだ。
踏み込んだ右足首がカクン、と垂直に曲がり体は後ろに傾く。
あ、落ち
思考の中でも落ちる、と言い切れないほどの一瞬のことだ。
スローモーションのように、体が地面から離れて浮き上がる。
後ろには、200段近くもの階段。物凄い高さだ。
晴は、走馬燈なども見えず、このまま死んでしまうと焦ることもできず、放心したまま落ちようとしている。
すべての動きが止まり、音が消えた。
地面の感触がなく、静寂の中で、彼が最後に見たものは太陽が沈みかけ、灰色に染まった雲ひとつない空だった。
そう、この実世界の夕焼けを見たはずだった。