自分・死文/性分・生文=遺文(駄文)
父母へ。先立つ不孝をお許しください。
私の生きた22年は紛れもなく幸せなものでした。人に恵まれ、環境に恵まれ、運に恵まれ、大した努力を経ることなく何一つ不自由のない生活を送ることができたと言い切ることができます。故に、独りになることがこの上なく恐ろしい。そのくせ、他者の顔色を伺い立てて波風を起こさずいることも苦しい。つまりは生きることが煩わしいのです。人はいつか死ぬという当然の事実を甘美に感じるほどに、生きることで降りかかる数多の災難が恐ろしい。事に大小はあれど、それは間違いなく私を傷つける。癒す薬も数多あれど、ひとときの誤魔化しだと思えてならない。甘えだと思われることでしょう。私もそう思います。とにかく伝えたいのは、私の死は誰のせいでもなく私自身の決断であるということです。こうして書いている間にも、もしかしたら自分にはとんでもなく幸福な未来が待っているような気がしています。同時にどうしようもなく絶望的な未来が見えるような気もします。それが私自身に起こる幸福なのか宇宙規模で起こる不幸なのかはわかりませんが、どちらにせよこれ以上先を憂いることには辟易しています。多くの人が、お前のような矮小な小市民の若輩者風情が何を馬鹿げたことを、とおっしゃることでしょう。私もそう思います。私ごときが考えることなどはいかに壮大な計画を描こうとも所詮は妄想に過ぎません。話が脱線しましたが、つまりは生きる意味を探すことに恐怖を感じます。同時に生きる意味を持たずに生きることに嫌悪を感じます。それが普通だと、皆が葛藤するのが普通だとおっしゃる方がいるならばそうなのでしょう。死にたければ死ね、と宣うことは無責任ではありません。私ごときがどうなろうと大局に影響はありません。真理です。悟ったようなことを抜かすなとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。この一文は、私を止めてくれという、自死を迫る理性に歯向かう生存本能が成したものでしょう。つらつらと述べてきたこの駄文も、目の前に一生を保証するに足る金銭かそれに比肩する何かを置かれれば簡単に吹き飛ぶことでしょう。結局、私もただの動物。人間は他の動物よりも生きるための手段が複雑なだけで、本能には抗えないのでしょうか。自ら死を選ぶ人を私はどうしようもなく羨ましく思います。本能に逆らい、理性をもって生存という痛みを克服する。これ以上人間的な行為があるでしょうか。生きる目的を探し続ける人々を私は尊敬します。言い換えればただ生きているだけの人々を私は尊敬しています。人間に生まれた以上何かを成さねばならないと思うと同時に何もできない己に痛みを感じます。彼らはその痛みに耐え、ただ生きている。なんと忍耐強いことでしょう。私には耐えられない。何者でもない空虚な自分を晒して生存することは辛すぎるし痛すぎる。何者でもないならば、何者にもならず無に溶けたい。神ではないので私はせめて人間が考えつく安直な死を選ぶのだと思います。長々と書いてきましたが私自身、誰に何を伝えたかったのか判然としなくなってきました。生存本能が度々私を阿呆と罵っている気がします。甘え、病、意味不明。理由はわかるようでわかりません。わからないフリをしているだけな気もします。人間でいることは、どうしようもなく幸せで、どうしようもなく絶望的です。思考が堂々巡りを始めたので筆を置きます。
生きていても死んでいても良い。ただ動物として、人間として、生きるのが苦手で下手で甘ったれだっただけだから。無になれるならそれで。
遺稿のつもりで書きました。文章は支離滅裂ですが物好きな方は説教か、共感でもしてください。