第一章:始まり 「日常」
「おい、聞いてるのか怜?」
「あ…あぁ、それで?」
6月の後半、梅雨真っ盛りのこの時期でジメジメした空気が充満している教室で俺たちは机を挟み向かい合う形で話をしていた。
もっとも、俺は窓の外をぼんやりと眺めながら聞いていたので話の内容など半分も覚えてはいない。
「それでよ、志保ったら『慎二くんは運動しかできないんだから体調だけは崩さないようにしないとダメだよ』なんて言ってくるんだぜ?風邪で寝込んでる彼氏に向かってそれはないよなぁ?」
「まぁ、御神さんらしくていいんじゃないか?一応心配されてんだし文句いうなよ」
「そうだけどよぉー、それじゃあまるで俺が筋肉馬鹿みたいじゃんか」
違うのか?と言いかけてやめる。これ以上話を長くする必要もないだろうし、変に挑発的なことを言って口論になるのはもっとめんどくさい。
何より、俺は自分のことで手一杯の状況なのに他人の事になどかまっている暇はなかった。
「何でもいいだろ?それよりこれ以上雨が強くなる前に俺は帰らせてもらうよ」
慎二の答えも待たずに、机の横にかけてあった鞄を持ち上げると中に入っている折り畳み傘を取り出す。そして、目の前で納得のいかなそうな表情をしている男に差し出す。
「ほら、お前今日傘持ってきてないっていってただろ?」
「お、サンキュー!助かるぜ」
傘を渡すと立ち上がり廊下に出ようと歩き出す。
教室のドアに手をかけようとしたら、突然ドアが開いた。もちろんあけたのは俺ではなく、ドアがあった場所の向こう側に居る人の仕業だ。
「あ!朝倉くん朝倉くん、慎二くんはもうもう帰っちゃったかな?」
ドアを開けたのはどうやら先ほど話題にもなっていた御神さんだった。
俺の顔を一瞬だけ見て、質問をしながら教室の中をきょろきょろ見渡している。おそらく慎二と帰る約束でもしているのだろう。
「いや、慎二ならそこにいるよ」
振り返り自分の席の斜め前にある机を指差す。慎二は鞄の中の物を机の引き出しに入れていた。きっと明日授業で使う教科書などが濡れないように学校においていく作戦なのだろうがそれでは家で勉強できないと考えは無いらしい。
(いつも課題をサボっているのだから当然と言えば当然なのか・・・)
「あ、いたいた!朝倉君ありがとね!慎二くん帰ろうよ〜」
お礼を言いつつも顔は慎二の方を向いていた。特に言うことの無い俺はそのまま開きっぱなしの扉を通り廊下に出た。後ろからは慎二と御神さんの楽しそうな話し声が聞こえていた。
階段を下りて下駄箱へと向かう。靴を履き替え傘立てから自分の傘を取り出し玄関の扉をくぐる。さっきまではバケツをひっくり返したような勢いで降っていた雨だが、今では若干雨脚が弱まっている。傘を差すと地面にできた水溜りに入らないように気をつけながら校門を出た。
「あら!怜君こんな雨の日でもご苦労様ね〜」
「どうも。雨だろうと雪だろうと俺は来ますよ、玲子先生」
「ふふふ、美咲ちゃんがお待ちかねよ」
「そうですか、今日もありがとうございました」
「いえいえ〜、これも私のお仕事ですからね♪」
学校からの帰りに保育園へと寄り道をする。もちろん、暇つぶしなどではないく妹を迎えに来ているのだ。それで、今話していたのは保育園で妹の世話をしてくれている人だ。始めのうちは苗字で呼んでいたのだけれど、本人曰く『女の子を呼ぶときは苗字より名前だからね!な・ま・え!』といわれて以来仕方なく名前で呼ぶことにした。理由を尋ねたらその方が可愛いからなどと言っていた。先生という呼び名が似合わない子供のような人だ。
「あー、さとにぃ!おそいおそーい!」
トタトタトタ、バンッ!
玲子先生に連れられ教室をでた美咲は入り口のところに立っている俺を見つけると、廊下を文字道理トタトタと走ってきて足に抱きついてきた。
「わるいな、世界平和のために悪の手先と戦ってたから遅れちまった」
「あくのてさきー?それってわるいひとたちなのー?つよかったのー?」
「あぁ、激強だ。だが俺の足元にも及ばないけどな」
「うー!さとにぃつよいつよーい!」
もちろん嘘に決まっている。だが、このくらいの年齢の子供はすぐに騙されてくれるので少しばかり調子に乗ってしまう。悪いことをしているつもりではないので特に気にも留めないが、いつか自分の調子に乗った嘘がきっかけで大変な事態に陥ったことを思い出したので、今日はこの辺にしておく。
「まぁ、その話はまた今度な」
「こんどこんどー!」
足に抱きつきながらキャッキャと喜んでいる美咲を見ていると少しばかり気が楽になった。
「それでは玲子先生、明日もお願いします」
「大船に乗ったつもりで預けちゃってね♪」
めちゃくちゃ不安だが、今まで何も問題を起こしていないので大丈夫だと思いたい。
足に張り付いていた美咲をはがして片手を取る。そして反対の手で傘を持ち美咲が雨で濡れないように気を使いながら保育園を出た。玲子先生が見えなくなるまで美咲は後ろに向かって手を振り続けていた。
「ただいま」
「ただいまぁー!」
二人仲良く家の中に入ると美咲は靴を脱ぐとすぐさまリビングのほうへ走っていった。俺は傘をしまってから少し濡れてしまった鞄の水を払ってからあがる。廊下にうっすらと残っている美咲の足跡をたどりながら俺もリビングに入る。
「よぅ、怜。今日も美咲の迎えご苦労さん」
「伊月姉帰ってたんなら、姉さんが迎えに行ってくれればよかったのに」
「なんだぁ?弟分のくせにこのあたしに意見しようってのかい?」
「はぁ、めんどくせぇな。そんなんだから彼氏ができねぇんだよ・・・」
「何か言ったか?」
「いや、何も?」
リビングでソファーに豪快に座りながらテレビを見ている伊月姉さん。その横には美咲が無邪気な顔で一緒になってテレビを見ている。一見するとまるで親子のようにも見えるのだが正真正銘の姉妹だ。
伊月姉は今年で二十歳になり俺は今年で十六歳、美咲は五歳だ。
俺と伊月姉はあまり歳は離れていないが美咲だけはかなり差がある。知らない人が伊月姉と美咲の組み合わせを見たら間違いなく親子と間違えるだろう。
「そういえば、怜お前ちゃんと病院に寄ったのか?」
「ん?あぁ、忘れてた」
「おいおい、もし万が一の事があるだろ。今からでも遅くないから行って来いよ」
「今からかよ、しかも雨降ってんのに?」
窓の外に視線を向ける。さっきまでは辛うじて弱くなっていた雨脚も今では前以上の酷さになっていた。
「ほらほら、早くしないと間に合わなくなるよ?あたしは美咲の面倒と夕飯の支度はしとくからさ」
「さとにぃー、はやくしないとダメだよ〜!」
「く、美咲まで言うか…」
最近ようやく伊月姉に対抗できるようになったと思っていたのだが、今度は美咲までもが姉さんの真似をして俺を攻めるようになってきている。流石に小さな子供に対して悪態をつけるはずもなく、伊月姉の命令にしたがうしかなかった。
家をでて歩く事40分ほどで目的地についた。ここ一帯では一番大きな総合病院と言うこともあり、雨の日のこの時間でも出入りする人は決して少ない方では無かった。
自動ドアを通り受付をスルーして廊下の奥の方にあるエレベーターに乗り込む。他に乗っている人はいないく、途中から乗ってくる人も居なかったのでスムーズに目的の階につくことができた。
――26階――
ここの病院は30階建になっていて、通常入院者用の部屋は10〜25階にある。そして俺が今いる所は集中治療室だ。ここは入院患者の家族など許可のある者でないと入れない場所になっている。
エレベーターを出て目の前にある扉を開ける。扉の外側には“関係者以外立ち入り禁止”と書かれた看板があったが無視して進む。何も無い廊下を少し進んだところに受付が見えてきた。
「あら?怜君じゃない、今日は遅かったのね」
「どうも、雨が降っていたので遅くなってしまいました」
「今日はもう来ないかと思ってたわよ」
「そのつもりだったんですけどね、姉が行けってうるさくて」
「相変わらずお姉さんには頭が上がらないのね?」
「そういう言い方はやめてくださいよ、新城さん」
「あら、ごめんなさいね」
俺の姿を見るなり、受付に居た看護婦さんが話しかけてきた。俺がここに来るようになってから毎日顔をあわせるようになっていたので、少し前くらいからはいろいろと話もできるようになっていた。
「それじゃ、行きましょうか」
「はい。お願いします」
新城さんが受付に居たほかの看護婦さんたちに一言二言話してから廊下へ出てくる。一般の病室なら受付などに言わなくても見舞い客は面会時間内なら自由に出入りできるのだがここは違う。普通よりも面会時間は短くされていて許可の出されている者でも、その階にある受付にいき病院のスタッフと同行しないといけないのだ。
しばらく廊下を歩いたところでひとつの扉の前に立つ。
「何度も来ているからわかるでしょうけど、携帯電話などの電子機器の電源は切ってあるわよね?」
「はい、もちろんです」
「中に入ったら決して大きな声や音を出してはいけません。また勝手に医療関係の機械もいじったり・・・」
「わかってますって、今日でそれを聞くの何回目だとおもってるんですか?」
「一応説明する規則になっているのよ、ごめんなさいね」
俺が来るときに同行してくれるスタッフはほとんど新城さんだったので俺はこの無駄な説明はいらないと考えていたが、スタッフ側にしてみれば必ず行わないといけないことなのだろう。
「それでは中へどうぞお入りください」
新城さんが一際頑丈そうな扉を開ける。中に入ると三畳ほどのスペースの空間で、入り口の向かい側の壁には大きなガラスがありその隣にはもうひとつの扉があった。
「まだ、変化は見られません。いつ目を覚ますかはわかりません。もしかしたらこのまま…」
「変化が無いことを確認しに来ただけですから、大丈夫ですよ」
ガラスの向こう側には真っ白い部屋があり、中にはベッドに寝かされた一人の女の人に何本もの線が刺さっていて、顔には呼吸をさせるための機械が取り付けてある。そして患者の名前が書いてあるネームプレートには
“朝倉裕美”
と、書かれている。一言で言うと、俺の母親だ。
しばらくガラス越しに母親の様子を見てから部屋を出る。新城さんはまだ居てもいいと言ってくれたが、これ以上見ていても何も無いと言って今来た道を戻る。
「それじゃ、俺はもう帰ります。お仕事がんばってくださいね」
受付が見えてきたところで隣に居た新城さんに挨拶をする。新城さんは少し困った顔をした後にいつものような笑顔に戻ってから受付の中に戻っていった。
エレベーターを呼ぼうとボタンを押そうとしたときだった。突然、エレベーターの扉が開き中から中年の男女が勢い良く出てきた。いきなりのことに驚いて後ろに倒れて尻餅をついてしまったが、その人たちは俺のことなんか視界に入ってないかのように気に留めることも無く受付のほうへ急いで向かっていった。
「なんなんだ、あれは?」
少しの間唖然としながら地面に座っていたのでエレベーターが下りていってしまったことに気がつかなかった。
しばらくして座った状態でボタンを押してから立ち上がろうと足元を見ると、見慣れないペンダントが落ちているのに気がついた。それを拾い目の高さまで持ち上げて観察する。十円玉くらいの大きさの楕円形の金色の金属枠に輝石のようなものが等間隔に埋め込まれていて、中央部分にはガラスのようなものが埋め込まれていた。どこぞの屋台で売っているようなもののようだ。
「さっきのひとたちのか?」
後ろを向いて受付に引き返そうと扉に手をかけようとしたとき、エレベーターがきてしまった。ここで乗り過ごすとまた何分も待たされてしまうと思った俺は、明日また来たときに受付の人に渡せばいいと考えてそのペンダントをポケットにしまい込み、エレベーターに乗り込んだ。
その選択が俺の人生を左右することになろうとは当時の俺は夢にも思っていなかった。
そう、これが全ての始まりだったのかもしれない―――