THOU SHALT NOT KILL…EXPECT
薄暗い洞窟に果実の弾ける音が響く。
一定間隔で設置された松明の灯りがその光景までも照らし出す。法衣に身を包んだ若い聖職者、けして背は高くなく、流れるような金色の髪と青く深いサファイアブルーの瞳が晴れ渡っている様は曇りない心を表しているように思える。しかし顔は返り血で汚れ、純白だった法衣も自身のまき散らした臓物と鮮血でどろどろに汚れていた。
頭を握りつぶされたゴブリンの亡骸を無造作に投げ捨てる。
十歳前後の男子と同じほどの重さがあるにも関わらず、少女は右腕だけで事切れた小鬼の残骸を通路の脇に放り捨てた。べしゃりと肉の叩きつけられる音を立てて岩肌の上を転がっていく。指を鳴らして威嚇もせず、聖職者は穏やかに微笑んだ。物陰や小道に隠れて隙を窺う他のゴブリンたちが挑発されたと怒り狂って飛びかかる。
連携など彼らの言葉に存在しない。
少なくとも寒村しか襲えない小さな群れでは、その言葉を耳にすることもあるまい。
拾いものの棍棒や粗悪な短剣を手に飛び出す。真っ先に一撃をお見舞いしたのは棍棒だった。可憐な顔のど真ん中へ重量に任せた打撃を叩き込む。兜どころか額当てすら身に着けていない状態だ。即死はなくとも昏倒はさせられよう。法衣をはぎ取って身ぐるみを全て奪い取ったら気が済むまで嬲り殴ってやる。邪悪な快楽に思いを馳せて顔をニンマリと歪めた棍棒持ちはハッとした。
顔を正面から殴られて平然としている。
出血こそしているが、微笑みは先ほどよりも穏やかだ。
「この痛みも主のお与えくださった罰なれば」
人間の言葉を解さないにしても、明らかにまともでないのは即座に理解出来る。
あちこちを槍やナイフで刺されても強がる素振りも見せやしない。人間の言葉で何事か呟くばかり。それもどこか恍惚としている。
重傷の身体で一歩踏み出すと、聖職者の脚が消えた。直後に槍持ちの身体も消える。「グピュエッ」と肺から空気が漏れ出す音が聞こえただけで、姿が見当たらない。ふとナイフ持ちが上を見上げて、天井に上半身だけめり込んだ姿を見つけ、注意を逸らしてしまった。
「この身は激痛の福音を授かりし法悦をもて、邪なる魂に正なる義と戒律とを授けん」
まるで敵意を感じさせずに次々と仲間を肉塊へ変えていく少女が恐ろしい何かに見えた。
ゴブリンをしてこの人間は正気を失っていると理解させる聖職者は、振り上げた足をそのままよそ見している間抜けの頭上へ振り下ろした。婦人としてはしたない所作ではあるが、全ては偉大なる女神の愛を教え諭すため。この身が如何に恥辱でまみれようと構わない。より多くの魂を救うため、御国へ至らしめんためと思えば恥じらうことなど何もない。
最後の一匹はようやく自らの置かれている状況を理解した。
些かの混乱を挟んでしまい判断が遅れたのは否めない。しかしそうと決まれば逃げるのみ。
業腹だが巣穴に貯め込んだ食糧も財宝も捨てていく。不本意ながら、攫った女もまたどこかで代わりを探せば良い。やむを得ない、彼女たちに孕ませた我が子も母と同じくいくらでも取り替えが利く。
ここは勝手知ったる洞窟迷宮、小道に抜け穴、隠し通路なんでもござれ。息を切らして入り組んだ通路を走り、地図にない秘密の小道を通ってほうほうの体で抜け穴までたどり着く。
蓋をしている板石を押し上げると外の空気が流れ込んでくる。
時刻は夕時、通常なら飲め食えやの宴を終えて眠りに就いている時間だ。昨日までの遊興に満ちあふれた生活を台無しにされた怒りがこみ上げてくる。しかし冷静なことに、今はその機でないと割り切っていた。怒りに我を忘れることなく復讐の炎を滾らせ、棍棒持ちはそそくさと巣穴を後にする。また新しい住居を探さねばならない煩わしさも怒りの炎を激しく燃え上がらせる。
より多くの人間を襲い、奪い、犯し、殺す。
矮小な身体を憎悪と憤怒で満たした生き残りは、天敵の気配を察知した。
しかし草木が僅かにあるばかり。逃げ場もなければ武器もない。
立ち向かうことも再び逃げることも許されず、命拾いした矢先に剣の一閃で落命した。
頭部が首から転がり落ちる。糸の切れた身体が力なく崩れ落ち、どす黒い血が吹き上がる。
「大したヤツだ、生き残ったとは。だが運がない」
剣に着いた血を拭き取って黒髪の少女剣士は抜け穴へ入る。
背をかがめれば通れなくはない。
もぞもぞと身体をよじり真っ暗闇の先にある通路へ出ると、松明に飾られた人骨を見る。頭蓋骨は左右に延びた通路の右を見つめている。
ゴブリンたちは財宝や食糧などの貯蔵庫がある方向を仲間で共有するためこうしたサインを残す。
辺鄙な土地で寒村ばかり襲っていた小物揃い、財宝についてはそう期待できない。
ともかく一匹残らず駆除せねばと剣士は通路の右へ向かって足を進める。
ご丁寧に人骨つき松明のおかげで視界には困らない。さらには洞窟内の気温が一定に保たれるため、嗅覚も外と大差なく機能する。徐々に排泄物の悪臭は強さを増していく。そちらの趣味はなくただただ深い極まるが、かすかに金属の軋む音がする。キィ、キィ、とか細い音だが間違いない。
扉もなければ出入りは自由だ。
突き当たりの先に広がる空間へ踏み込むと、なるほど悪臭は犠牲者の亡骸が腐敗しているためだった。肉が溶け白骨が覗くものまでいる。奥には鎖に繋がれ奴隷同然の――実際は獣欲の捌け口であるから奴隷以下である――扱いで拘束された村娘が数人転がっていた。幸い眼球は無傷のようだが、暗所に放り込まれて長い時間が過ぎているせいか、視界含め身体が弱まっている。
衣服の一切をはぎ取られて横たわる娘たちの背後で闖入者の姿を窺っているのは――
「見ィつけた」
ゴブリンの子どもたち。
無表情に声だけで笑って見せた剣士は、娘たちを穴蔵の外へ運び出す。
人間の赤子と同じかやや大柄な小鬼の童子たちはただ軋むような声で鳴くばかり。
視線は少女の目を見つめていた。
「可哀想に。ゴブリンでなければ長生きできたものを」
鞘から抜いた剣を逆手に持って、少女剣士は喜びに声を震わせていた。
「少しでも長生きさせてやろう。二度とこの世に生まれたくないと思うほど」