8 26歳→45歳
一体、何処なの此処は。風が吹いてる。
私は目を開けた。
目を覚ませ!と誰かの声が強烈に響いたようだった。夢だったんだろうか。
夜空だ。何処かで賑わっている音が聞こえるけど、此処は静か。地面は少し湿っている草っ原だ。
起き上がろうと身体を動かすと、頭を何かにぶつける。半分位残った日本酒の一升瓶。
頭がふらふらする。なんだか夢の中に居たみたいな気がする。
「晴子さん」
名前を呼ばれた方を見ると、気持ち良さそうに風を浴びて座っているサネ君がいた。彼に名前で呼ばれる事ってあまり無い。心置きなく話せる親友となった今でも、佐藤さんと呼ばれている。
そうか、今日は夏祭りで二人で食べて、呑んで、私は潰れて寝てしまったんだ。来年はもう一緒には遊べない。サネ君はお坊さんの修行でお寺に入ってしまうのだから。
「俺と結婚して下さい」
独り言を呟くように彼は言った。甚平の生地が気持ち良さそうな大きな背中。「ダメだな...」とまた呟く。
「はい」
彼は驚いて振り返る。
「あれ、起きてたの?」
お酒が強いサネ君も流石に酔っているみたいで、顔が赤い。
「うん」
「いつから?」
「眠っていないと言ってくれないの?」
私が詰め寄ると、いつもは明朗な彼が珍しく口篭る。
「でも、佐藤さんはそういうの望んでいないでしょ?」
確かに私は恋愛をする気は無かった。サネ君と仲良くなったのもストーカー事件があったからで、そういう事を全部知っているから。
「それに寺の奥さんは大変なんだよ。俺のおふくろは離婚して出てったんだ。朝は夜明け前に起きなきゃいけないし、色々作法もあるし、男社会だし」
「修行中は結婚出来ないんだよね?」
「...もし結婚するなら修行に出ずにうちでやればいいって親父が言ったんだ。親父は世襲だったから、俺が継ぐなら結婚して欲しいと思ってるんだろうね。うちはおふくろが出て行って女手が足りないし。佐藤さんの事、気に入ってるみたいで」
「私はサネ君だったら、頑張れるよ。サネ君は私の事をどう思って居るの」
彼は私の両肩を掴み座らせて、自分の居住まいを直した。一升瓶の転がる草っ原に二人で正座で向き合っている。遠くで笑い声が聞こえる。提灯が木の向こうでぼんやり光っている。
「晴子さん、好きです。俺と結婚して寺に入って下さい」
と言って頭を下げる。ちょっと遊んでいた時期もあるけど、実直という言葉はこの人の為にあるみたい。
「はい」
26歳の夏祭りの夜だった。
よく晴れた日の朝。
長男は中学校に、次男は小学校に元気良く出掛けていった。義父と夫は朝の御勤めをしている。雲一つない、澄み切った空。
昨日、古い友人のお通夜があった。
夫が明日のお葬式に呼ばれている。喪主は金石みゆき。連絡を受けたのは3日前の事だった。
飲食店を営んでいた二人と一緒に働いていたパートナーが15年前に詐欺にあっていて、被害が発覚したのが5年前。ずっと借金の返済に頑張っていたのだが、ある日夜逃げしてしまって保証人をしていた金石君が多額の借金を負ったのが2年前の43歳の時だったそうだ。お店も手放す事になり、みゆきは昼夜問わずに働いていたのだが体を壊してしまった。一方で金石君はなかなか仕事が続かずに、塞ぎこむようになって、みゆきが家に帰った時首を吊った状態で発見したという事だった。
43歳の時は私に子宮癌が見つかり、幸い早期発見であったものの手術をしたりで、友人には連絡が取れていなかった。
お葬式には苗と安藤君も日本に戻ってくるという。
夫も非常にショックを受けているようで、連絡を受けてから夜中に起き出しているのを私は知っている。仏門の身なれば、と心血注ぎ込むようなお経が今日も聞こえるのだ。ショックなのは亡くなった事だけではない。去年金石君が相談に来た事があったらしいのだが、内容は話さずお金の相談だけだったのでうちも工面が出来ず、追い返してしまうような形になったのが最後だという事だった。精神の苦しみを聴くことが出来なかった、と。
私は。
昨夜は眠れないでいた。ずっと、考えていた。みゆきの事を思い出していた。隣で眠る子供達の顔を見ていた、私には、もしかしたら出来る事があるけれど、15年前にはまだ子供達は生まれていないのだから、それに関わる事でこの今が失われてしまうのではないか、と。
刺繍仕上げのの装丁をそっと撫でる。一日三行ずつ記された私の人生。自分に不都合な事が起こる度、何度も消しゴムをかけてきた。そうして掴んだ失えない大切な人たちと歩む生。だけど…。
読経が終わった。
「ご苦労様でした」
出てくる僧侶の方々にご挨拶をする。
「実直さん」
夫を呼び止める。彼は私の持っている日記帳に気が付いた。
26歳の時に婚約して以来、書き続けてはいるけれど一度も魔法は使っていない。夫は日記の秘密を全部知っているけれど、あまり気にしていない。
「晴子」
私の考えを察したのか、彼は私の両肩を強く掴んだ。思い留まってくれと言っているのが伝わる。
15年前、まだ正直と太陽は生まれていない。戻してしまって生まれてくるかもわからない。実直さんが修行を終えて戻ってくる頃だから私達が結婚することは間違いないけれど、金石君の運命を変えようとしてしまって、元に戻るかどうかなんて約束できない。
「晴子、私はもし自分の妻として無ければ、君の他人を助けようとする行いを素晴らしい事だと感動していたかも知れない。それはとても徳の高い事だと」
私は黙って頷いた。
「自分の子供と比べる位なら、カネなんてどうでもいい。彼自身の人生なんだ、彼らの運命なんだよ」
「それでも、みゆきの不幸を見ぬ振りをして生きていく事は出来ません」
「わからないだろう。わからないんだよ。今は悲しくても、それでも強く生きていく事が出来れば、彼女の人生は決して不幸で終わるわけじゃない」
「けれど、金石君は失望のうちに亡くなったのです。死んでしまったら、もうその人を救う必要は無いのですか?彼を取り残して私たちは生きていくんです。それはどうしようもない事です。でも私には彼を救えるかも知れません。これを見過ごしたら私、孫に最高に幸せだったとは自慢できません」
そう。私が大丈夫だと思える確信は、そこに戻っても実直さんがいる事と、いつか見た私の孫の夢。昨日迷っている時に突然思い出したの。道を指し示すかのように彼女は既に存在していると私に告げた、だったら子供は揺ぎ無く存在しているはず。日記帳を作った曾祖母よりも強い力を持った私の孫娘。
「君が決めなさい。私には、何かが変わってもわからないから。私も息子も在るべき様に、在るべき姿で存在しているだろう」
「実直さん…ありがとう、サネ君!」
私は彼を抱きしめて、日記帳を開いた。これで魔法を使うのが最後であってくれますように。救いたい人を救い、この現在が幸せな形で戻ってきますように。




