6 20歳×2
講義が終わり、教室を出ようとすると震える携帯電話。表示されているのは真木ちゃんの、文化祭でメイドのコスプレをした時の写真。
「着いたよ」
「駅ね。ちょっと待ってて」
「いや、門のとこ」
真木ちゃんの大学はここから結構遠いのに、わざわざ来てくれたばかりかきっとすごく心配してくれている。
人混みの中でもすぐ目に留まるのは、彼女の美人故の特権だろう。薄紫に染まり始めた空。 真木ちゃんと倫子と金石君まで来てくれていた。
「女だけじゃ危ないでしょ。とりあえず駅前の居酒屋でいいよね」
金石君はね、前から真木ちゃんにベタ惚れだから真木ちゃんの頼み事を聞かなかった事は無い。
「大丈夫?怖い思いしたって聞いたけど」
久しぶりだけど、あんまり変わってなさそう。まあ、2年だもんね。そんなにいきなり変わらないか。
「うん、まあ...」
「ストーカーって三上なんでしょ?」
倫子は不機嫌そうに言った。
「たぶん...」
言葉を濁したのは、私が三上君に対して罪悪感を感じてもいるからだろう。昨日煩く連続で鳴らされたチャイムの後、窓の外に見えたのは、よく似た兄弟がいるんでなければ彼に間違いない。
高校2年の秋に別のクラスだった三上君に告白をされた。三上君の事はそれまで知らなかったし、恋愛するつもりも無かったから断った。でもうまく断れていなかったらしく、後をつけられたり、私の行動を調べられたり、付きまとわれるようになった。「晴子がはっきり言わないから。押せば脈があると思わせてるからいけないんだよ。ああいうタイプは相手が自分より弱いと思ったら、強くなるタイプなんだから」と真木ちゃんにも言われたけれど、だって私は出来るだけ人を傷つけたく無かったのだ。
高校を卒業してからも何度か、一人暮らしを始めた私の家の近くで三上君の姿を見た。
「金石が彼氏の振りするってのは?」
「それ一番危ないんじゃない?ずっと一緒にいられる訳は無いし、ばれたらどうなるか」
「警察に言うのが一番いいんじゃないの?」
「高校の時に一度言ったんだけど、役に立たなかったもん」
実際はもっと酷かった。一途に君の事が好きなんでしょ、会いたくて家に行っちゃうなんて普通だよ。そこまで思ってくれているのに犯罪者呼ばわりして相手にしない君の方が加害者じゃないの?というような事を言われたのだ。
私は確かにそうかも知れないと思ったけど、倫子は警察が言う事じゃないってすごく怒っていた。
「お、カネじゃん」
居酒屋から出て行こうとする人達の、一人が金石君に手を振った。
「おー、サネ?」
「お前こんなとこで何してんの?」
どうやら金石君の友達らしい。ちょっと遊んでそうな感じ...お笑い芸人の誰かに似てる。何だっけ...名前出て来ない。
「で、こっちがその被害にあってる佐藤さん」
何時の間にか紹介されていた。私は慌てて頭を下げる。
「それは怖いだろうね。俺この辺だから、何かあったら連絡しなよ」
と言って名刺をくれた。名刺と言っても、名前と電話番号が書いてあるだけだけど。
藤田実直さん。実直とは...名は体を表してはいないかも知れない。
「携帯でやりゃいいのに」
金石君が言う。
「いや、会ったばかりの人に自分の番号教えたくないでしょ。何か不安を感じてる人は特に」
「そう?皆教えてくれるよ」
「お前とは目的が違うんだよ」
「でも俺ら皆遠いからさ、連絡されても間に合わないしサネに電話しなよ。何かあったら」
そんな知らない人にまで迷惑をかけていいのだろうかと思いながら顔をあげると、サネ君は見た目の印象に合わない優しい顔で笑っていた。不思議とどこか懐かしい笑顔だった。
そうだよ、サネ君に電話すれば良かった。すっかり忘れてた...私。
あの人お風呂場で何してるんだろう。家中漁られているみたいだし、嫌だな...。手足と口に巻かれているガムテープが、汗で湿っている。
殺されちゃうのかなぁ。怖い。嫌だ、怖い、怖い、死にたくない!
後ろに回された手が動かない。日記を書くのも無理。でもやってみよう、携帯も壊されてあそこに落ちているし、もうそれしか逃げ道が無い。私は床を這って、本棚に近づいた。重いから下の方にしまって置いて良かった。棚を使ってなんとか立ち上がり、日記帳を探る。布張りのおかげで、感触だけでもこれだとわかる。少しずつ手で持ち替えて引き出して行く。
ドサッと音を立てて床に落ちた。
しまった。あいつが怒声をあげて部屋に戻ってきた。私は本棚に凭れかかったまま凍り付く。私を見て激昂した三上は、私の前で手を降りあげるー。
もうどうにもならない。助からない。
お願い、戻って!どこでもいいから戻して...
強すぎる想いは呪いにもなるのよ
その相手を縛るの
私たちは日記に書かされているのよ
私は玄関の前に立っていた。
意識が戻ると同時に、激しい動悸に襲われる。鍵穴に鍵が挿さっていて、私の手はそれを掴んでいる。いつもより刺さり難いと思いながら、今無理矢理捻じ込んだばかり。よく見ると鍵穴にいっぱい傷が付いている。
この手首には、ガムテープの感触も跡も無い。首筋に冷たいものが流れる。すごく汗をかいていた。
このノブを回すとどうなるか、私には全てが解っていた。
部屋に入って荷物を降ろす。少し落ち着いてから、被害のメモを残す為に日記に鍵穴の事を書く。洗濯物を取り込む為にカーテンを開けると、そこには三上君がいる。
私はドアから離れ、アパートの階段を駆け降りる。
体験したばかりの恐怖が頭を混乱させる。落ち着かなくちゃ。鞄から携帯電話を取り出して、登録しておいた藤田実直の名前を出し、震える手でコールボタンを押した。一応登録しておいて本当に良かった。
呼び鈴が鳴っている間、とても緊張する。一度顔を合わせただけだから...それでも遠くの親戚より近くの隣人、こういう緊急事態には。
「はい、藤田です」
取り敢えず出てくれただけで、少し安心する事が出来た。こにドアの向こうにあいつがいるのだ、まだ安心は出来ない。
「あの、帰ったら部屋に誰かいるみたいで...あ、ごめんなさい。私、金石君と一緒にいた佐藤です」
慌ててしまって言葉が出て来ない。
「佐藤さん、家の外ですか?周りには人が居ますか?」
サネ君の指示で私は辺りを見る。
「何人か歩いています...車も通ってる」
「すぐに行きますから、人がいるところで待って居て下さい。近くにお店とかありますか?」
「角にコンビニがあります、表町店」
コンビニにサネ君が来てくれる。私は電話を切ると、通りの角まで走った。
サネ君は警察に連絡をしてくれて、刑事さんと一緒に部屋の鍵を開けた。部屋の中はヒステリーでも起こしたように荒らされていて、お風呂場を使われた形跡があった。侵入者は合鍵を持っていて、ベランダから逃げたのだろう。刑事さんは指紋や何やらを取って行き、容疑者に話を聴きに行くそうだ。事情聴取で私はすっかり憔悴してしまった。私がいつも何をどこに置いていて、侵入者がそれをどこに動かしたか。今までどんなおかしな事があったか。そんな事を全部逐一確認して被害届を書かなくてはいけなくて、私はここまで荒らしてくれた三上君を酷く恨んだ。
サネ君は最後まで付き合ってくれて、私を実家まで送ってくれるという。その前にお腹が空いたので何か食べよう、と言ってファーストフードのお店に入った。
「本当にありがとうございました。殆ど知らない私の為に」
お礼に奢らせて貰ったのだけれど、だったらもっといいお店に入ったら良かった。
「こちらこそ、一度しか会っていないのに電話してくれてありがとう。部屋の外で気が付いて本当に良かった」
サネ君は、服装がこの間と違うせいか印象が違うように思えた。地味な格好をしていると真面目そう。
「私、部屋に入ったらどうなるか解ったんです」
私はとってもこの人の事を信頼してしまっていて、秘密を打ち明けたいと思っていた。サネ君には何でも話してしまいそうになる、不思議なオーラがある。
「11歳の時もこんな事があったの。皆が出かける夜、家で一人になったら強盗に襲われた。だからその前の日に戻って皆と一緒に出かける事にしたの」
こんな話をしたら迷惑かな、と思ったけれど、サネ君は興味を持って聞いてくれた。
「今回も、本当は部屋に入って酷い目にあったの。それで戻ってきたから、部屋に人がいる事がわかった」
「それは、未来を予知しているという事?」
「ううん。過去に戻っているんだと思う。日記を使うと、戻れるの」
私は魔法の日記の事を説明した。毎日三行の日記を書き続けると魔法が使えるようになる。今までは「戻りたい」という呪文が必要なんだと思っていたけれど、今回は書けていなかった。きっと手から落ちた日記帳が今日のページで開いていたんだ。戻りたいと強く願ってそのページを開き、眠るか意識を失うと、そのページの私に戻っている。
私は今までの朧げな記憶、多分三上君と結婚した未来や、恋愛で失敗したりした事もあったような気がする事を話した。
「だから私は中学生の頃から、人の言う事を聞いて友達を大事にしようと思って生きているの」
「それって凄い幸運だよ。仏教的に考えると確変天国モードじゃん」
「え?」
私がキョトンとしていると、「いや、何でも無い」と言って、コーラを飲む。
「仏教では魂は何度も生まれ変わって徳を積む修行をしているって考え方があるんです。そう考えると、佐藤さんとして生まれた一度の生を何度も経験し、また自らの過ちを直せるという事は大変な幸運だと言えます。命の危険を回避するだけじゃない。実際にお友達を大切になさっている訳でしょう、その前の経験よりも善い行いをしていると考えられますね。素晴らしい事ですよ」
「そんな事、考えた事もなかった...なんかサネ君ってお坊さんみたい」
口調を変えて気取っていうのがおかしくて、内容は感心したのだけれど、笑ってしまう。
「仏教大学で勉強中なんだ。ねえ佐藤さん、俺の事覚えていないかな」
「ええ?何?」
「この前もなんだか覚えがあると思ったんだ。家で卒業アルバム見てね、さっき事情聴取の時、下の名前も書いていたから間違いなく解ったよ。俺、駒木。中学の時、一緒だった」
「えー!?」
駒木君という名前を聞けば、薄っすらと思い出すのは坊主頭の駒木君。下の名前までは憶えてなかった。
「親が離婚して名前が変わったんだ」
「そうだったんだ。へー、大分雰囲気、変わったね。全然解らなかった」
「母親に連れられて寺を出たからさ。それまで厳しかったのが自由になったから高校ではやりたい放題遊んだんだけど、やっぱり坊主になりたいと思って」
そう言って優しく笑う顔はどこか懐かしい、言われてみれば駒木くんの笑顔だった。それは子供の頃に遊び場にしていたお寺の住職さんの顔にもそっくりだった。