3 30歳
私は不思議な日記を持っている。
11歳の頃、私は死にそうな目にあった。違うな。死ぬ可能性が私にはあった。
夢だったのかもしれないけれど、母と些細な事で喧嘩をして家に一人で居た時、多分強盗に入られて私は殺されたのだ。多分というのは、何が起きたかもわからなかったから。
目が覚めたのはその前日だった。何も起きていない部屋で 、けれど私はその日学校で起こる事を知っていて、それは全て合っていた。日記の魔法を確かめようと取り出すと、日記帳は思っていたよりも随分薄くて...次のページで終わっていたの。
でも実際は、まだ使い続けている。子供の記憶だから、やっぱり夢なんだと思う。
それから私は真面目に生きた。男なんて絶対に作らなかった。私は男で失敗する気がしたから。何も無かったわけじゃないけど...例えば高校の時に好きな人くらいは居たし、告白だってされたんだから。でも断った。不順異性交遊だもん。大人が禁止するのも解るわ。絶対、碌な事にならない!
だけど、そんなこんなで私は...
「30歳、よねぇ」
TVで親子特集が流れているのを見ていた母が、物言いたげの視線を向けた。
「お母さん。それは言わないお約束」
「でも、彼氏の1人くらい...」
「忙しいの!生徒の事で手一杯なの!別にいいのよ、色々と問題がある彼氏で悪い事したり悪い事が起きたりして自暴自棄になって自殺するよりよっぽどマシでしょ?」
「あんた恋愛恐怖症なの?」
「仕事と結婚したの。永久就職なの、放っ置いて」
「...まぁー。放っ置きますけどね」
母に珈琲を渡し、テーブルに向かう。いれたての珈琲の香りが一番落ち着くわ。明日の抜き打ちテストのプリントを作らなきゃ。余計な事を考えてる暇なんて、無い、無い...
パソコンにメッセージが届いていた。
「真木だ」
同窓会。やろうよ、仲良かったメンバーで。
彼女は高校の時の同級生。
...皆、結婚してんのかな。倫子はした、蛍は子供いる、真木はしてない...行こうかな。
会場は新宿の無国籍料理店。卒業してからすぐの頃はこの辺りもよく来たものだが、すっかり落ち着いてしまった最近は人混みに入るだけで目が回ってしまいそう。
昔っから地図を読むのは苦手なの。そうだ、真木に電話しよ...。
「佐藤さん?」
彼女ったらすっかり期待外れなんだから。独身仲間だと思ったのに、参加の連絡をしたらば金石君と付き合っているらしい。だから同窓会をやろうって事になったんだって。「男の方は結構独身いるよ」って、何がいい機会、よ。
「佐藤晴子さん」
「は?」
振り向くと、同年代っぽいスーツの男性。仕事帰りなのか、営業鞄を持っているけれど背が高くて...髪型も清潔感があってカッコいい。
「え?安藤君?」
大人っぽくなってはいるが、顔は全然かわっていない。高校三年間片思いし続けた、安藤弘樹に間違いなかった。
懐かしい面々と近況を語り合う。会の始めこそ皆の変わり様に大人になった事が身に染みるけれど、高校時代の思い出話なんかが始まると高校生に戻ったような気分になってしまう不思議。
「晴、安藤君と一緒に来たの?」
真木が脇腹を突ついてくる。
すっかり酔っ払っちゃって、アルコールを控えるこの身としては鬱陶しい事この上ないが、それでも憎めないのは美人の特権であると思う。
「外で偶然、会っただけ」
「嘘でしょー。晴、安藤君の事好きだったじゃない」
「高校の時の話でしょ...」
「ふーん。ふーん、そ。あ、カシスオレンジ」
グラスを下げに来た店員にすかさずお代わりを注文。もうやめといた方がいいんじゃないかしら。
「同窓会しようって言ったの安藤なんだよ」
「いいから、私の事はー」
私達のテーブルに人影が落ちる。
「みゆきちゃん、また際限なく飲むんだから。カネが呼んでるよ」
「何よ安藤......はいはい、はいはい、邪魔者はあっちへ行きますー」
真木はニヤニヤしながら私の肩を叩き、金石君のところへ戻って行った。真木の座っていた席に安藤君が座り、私と二人残される。
「さっき、いきなり、声かけてごめんね」
そう言って グラスをあげるので、つられて私もグラスを傾ける。二人で乾杯して、緊張のあまり笑ってしまう。緊張?やだ、ちょっと、ドキドキしないでよ。
「ううん。よくわかったね、十年ぶりくらいになるのに」
安藤君はバスケ部だった。背が高くて、一際目立っていた。うちの学校は別に強く無かったけど、倫子がその頃バスケ部の先輩と付き合っていたから、付き合いの振りして応援に行ったっけ。よく怪我して、心配したりしたな。
「うん、そうだね。変わってないから...や、きれいになったと思ったけど。あー、佐藤さんは俺にとっては特別な人だからね」
「はい?」
安藤君も大分酔っ払っているようだ。
「いや、俺、高校の時、佐藤さんの事が好きだったんだよね」
な...
「な、何それ。冗談言っちゃって」
「ははは、だから俺、今日佐藤さんが来て嬉しいんだよね。会いたかったし」
「...そう、なの。ありがとう」
何言ってんの私。
え?何?どうすればいい?
「報告したかったから」
「?」
安藤弘樹は次に、全く予期しなかった言葉を吐いた。
「三枝苗木」
「え」
「知ってるでしょ」
「苗木って、苗ちゃん?」
小学校の時に仲良かった所謂、幼馴染。
「結婚するんだ今度、彼女と。びっくりするよね?この前、招待する人を考えてた時、佐藤さんの名前が出てきたから驚いたよ。世間は狭いよね」
そう言って、鞄から白い封筒を取り出して私に差し出した。封筒の裏には筆文字で、安藤弘樹、苗木と連名が記されている。
「嘘ぉ、凄い出逢いだね!おめでとう!」
私の脳みそは完全に思考停止。バックアップシステムが自動的に適当な言葉を吐き出す。
「え、何々。どした?」
思ったより大きな声で言ったらしい。真木が慌てて戻ってきた。
あ、思い出した。真木に昔、言われたっけ。あんたがでかい声を出す時は必死に自分を取り繕ってる時だって。
「あのね、安藤君が私の幼馴染と結婚するんだって!凄い偶然じゃない?」
うわ、声でっか。言いながら自分でわかるくらい。真木の顔が、一気に酔いが覚めたみたい。青ざめる。
「何だよそれ、言えよ!」
「お前、抜け駆けしやがったな」
男どもが集まってくる。その後、同窓会は安藤弘樹の結婚祝いの場となった。私は何も考えてなかったけれど、多分社交辞令的に笑っている。
結婚式の会場はプリンスホテル。式の日は8月22日。入籍は今月、7月28日。懐かしい響きのこの日付は、9年間毎年必ずお祝いしていた三枝苗木の誕生日。
パソコンに向かってはいるものの、ただため息をつくばかりで両手がたまにキーボードの上を遊ぶだけ。
「ただいまー、晴ちゃん」
お母様のご帰還です。珈琲入れてと頼まれる前に、入れて差し上げる事にしましょうか。
母が行って来ますと言ってから、どの位の時間が経ったのかしら。その間、私が白い封筒と睨めっこするだけで何もせず時間を無為にしたという事になる。
「ねえ、今日苗ちゃんのお母さんから電話あったのよー、懐かしいでしょ、覚えてる?」
「はぁ...」
母は傷付いた娘の心を言葉のナイフで抉り取る。私はテーブルにある例の封筒を指差した。
「あら、あんた招待状」
「当然でしょ。私、二人にとって特別な存在なの」
「ごめん、本当にごめん!」
あの日の真木の気まずそうな顔。 気まずいのはこっちだって言うのよ、散々お膳立てしてくれちゃって。
安藤君は大手企業の、今はプロジェクトのサブリーダー。日夜忙しく飛び回るそんな彼の支えとなったのが食堂で働いている栄養管理士の苗木。入社した会社の廊下で彼女に一目惚れした彼。毎日足繁く通い詰めて、顔を覚えて貰う事からスタートした二人の恋愛。返却した食器に置かれていた、「いつも美味しいです」「今日も美味しかったです」のメモ。それに仕事の喜びを得ていた彼女。
何て美しい純愛物語。披露宴がさぞ盛り上がるんでしょうね。
別に私、この前まで片思いし続けていた訳じゃあないし。でもね、何でなのよ。だったら今更、昔好きだったなんて言う必要ないじゃん!
じゃあ高校の時、両想いだったという事でしょ。どうして言って来なかったの。所詮、その程度の気持ちだったって事じゃない。
まだ昼だけど日記を書こう。それでもうこの話はおしまい、忘れよう。私は友人として式に出席。二人を心の底から祝福しよう。
「あれ?珈琲入れてたんじゃないの?」
二人の結婚式、とっても楽しみ。
大切な二人が出逢っていたなんて嬉しい。
...私の右手が止まる。
解ってる。馬鹿げてる。
でも日記に書くだけなんだからいいじゃない。
別に、本当にそうなるわけじゃ無いんだし。
二人の結婚式、とっても楽しみ。
大切な二人が出逢っていたなんて嬉しい。
高校時代に戻りたい
私はページを捲る。安藤君、安藤君、毎日飽きずに何度もその名前が出てくる16歳のページ...。