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国捨て人

 王都の中心に屹立する王城を一言で表現するならば、「壮観」の一言に尽きる。石塀と城壁の二層に囲われた王城は華奢な尖塔を幾つも備え、その全てが磨き上げられた白亜の大理石で精緻に造り込まれ、その周囲にふんだんに配された緑が見事なコントラストを醸し出す。王城の一番高い尖塔の先端まで入れれば全高は軽く六十メートルは超える。

 一夜を過ぎて荷物を纏め、城壁の大門を通過したスパルナの前方には王城がその威容を示すかのように凛然と屹立していた。九時の空模様は薄曇りで、灰色の空の下の王宮内はすっぽりと朝靄に覆われ、時々雲間から差し込む朝の陽光が空気中の細かい粒子を乱反射させることで一帯をレモンイエロー(青龍公国での表現なら梔子色)に染め上げていた。

 そんな景色の中央に聳える王城を目視した時、スパルナの胸中に一種の感慨が満ちた。長いようで短かった二年間の果てにようやく辿り着いた場所の冷たく乾いた空気を大きく吸い込み、気持ちを引き締めると大きな一歩を踏み出した。

 裾の長い儀典衣に身を包んだ侍従頭に連れられて王城に足を踏み入れる。王城内部の壁には数多の調度品や高価な硝子窓が幾つもあり、廊下を構築する床には恐ろしく長い毛足の真っ赤な絨毯が敷き詰められ、そこ以外は純白の大理石で造られている。十メートルは優に超える天井を支える石柱はおそよ直径一メートル以上で、だだ広い床は端から端まで五十メートルは下らない。

 異様な静謐に包まれる廊下を黙々と追従していく。やがて廊下の突き当たりにある一際巨大な両開きの扉の前に到着すると、御前に出る前の最後の確認として王女に危害を及ぼす物がないかを検められる。検分を担当する侍女たちの瞳には一様に畏れと怯えが揺れていて、慣れた反応であろうとも少々気が滅入った。

 ――英雄が半獣人ハーフと言えど、そうすぐに半獣人ハーフへの対応は変わらないか。帝国に住む半獣人ハーフの中には人間社会に馴染めず、元より気性が荒いこともあってか鬱積を溜め込み、その果てに女子供を強姦する輩もいて問題とされているが……。王国でも少なからずそういう話は聞くのでこの反応も宜なるかな……。

 と半獣人の今後の行末を憂いている間に検分が終わり、帯刀を許された近衛兵付属の武官が大扉をゆっくり押し広げた。瞬間、黄金色の色彩に目を射られて思わず目を細める。足を踏み入れた奥の間は恐らく謁見の間であろうことは室内の豪華絢爛さから一目で判った。

 辺り一面の床も壁も天井もその全てが目が痛くなるほど鮮やかな金色で構成されている。軽く三十メートルを超える天井は吹き抜けとなっており、鮮血色の絨毯が敷かれた最奥部は、せり上がるように一段高くなっていることからあれが玉座だと判断できる。そこに至るまでの道中の両脇をずらりと固めるのは、華麗な装飾を施された長剣を腰に佩く近衛兵士たちだ。一様に山吹色の薄手の鎧で身を固め、一分の隙もなく直立するその姿はかすかな圧力を漂わせており、こちらをじろりと見据えている。

「申し上げます! スパルナ・シュバルツ、姫殿下の召喚に応じて参上しました」

 よく通る大声を張り上げた侍従頭はそう口上を述べると、そそくさと脇に下がる。一人残されたスパルナは跪いて恭しく頭を垂らす。周囲を敵に囲まれて尚且つ敵地のど真ん中と言うこともあって、背中に冷や汗がたらりと流れる。自然と顔が強張り、ごくりと緊張で喉を鳴らす。

「第一衛士、スパルナ・シュバルツ。姫殿下の命により馳せ参じました。謁見の許可を」

 芯の通った声を張り上げて返答を待つ。数瞬後、冷然かつ厳かな響きを帯びた声音が降り注いだ。

「面をあげなさい」

 ゆっくりと顔を上げて声の主を視界に収める。玉座に続く小さな階段は金色の世界で唯一純白で構成され、異様に目立つ。それの奥の壇上にある玉座の高い背もたれや肘掛けは明るい朱色の繻子で作られ、太い脚は金箔を存分にあしらわれている。布張り以外の部分は朱雀の優美な羽を模した彫刻が施され、素人目にもそれが一流の細工師によって彫られたことが判る。

 その豪華な玉座にゆったりと腰かけているのが、ローゼ・ゴルト・ラオプフォーゲル王女。朱雀王国の最高戦力の戦姫は玉座に負けず劣らずの煌めく金髪を腰元まで流し、揃えた小さな膝の上で白く華奢な掌を組み合わせている。深い碧色の瞳は一切の感情を覗かせることなく、こちらに冷淡な視線を注いでいる。

 朱雀王国の国旗と同色の烈火の如し紅のドレスで、すらりと細い矮軀を包むローゼは昨日と同じ装いではあるが、玉座に座していると言うこともあって気品と一種の神々しさを漂わせている。頭の両側に垂らされた金色の髪、上品さを醸し出す眉、小ぶりな鼻と桜色の唇、小さな卵型の顔立ち、非の打ち所のない美貌は笑えばきっと可愛いのだろうが今は冷徹な鉄面皮に覆われている。

 ――彼女の笑顔を、見てみたい……。

 そこではっと気を取り直してぼんやりとした思考を打ち切る。標的相手に何を考えているのかと自身を叱責する。スパルナのそんな内的葛藤を知る由もないローゼは淡々とした口調で沈黙を破る。

「本日付けであなたを私の護衛に任じます。昇進したからと言って鍛錬を怠らないように」

「は!」

 ローゼは畏まるスパルナを冷たく一瞥すると、傍らに立つ初老の男性に視線を投げかける。

「ペンウッド」

「は、姫殿下」

 名指しで呼ばれた男は胸に片手を添えつつ会釈を返すと少し前に出て、後は全てその男が取り持った。「護衛の心構え」や仕事内容などの基本的な情報の提示に終始する男性を、スパルナは詳細に観察する。

 後ろで括られた総髪は純白の白髪で、目尻や口許に刻まれた深い皺が年齢を語り、推定六十歳くらいである。くっきりとした眉の下の瞳は鳶色で、柔和な印象を与える。尖るような顎先、口許と顎に蓄えられた白い髭、両手を腰の後ろで組む悠然とした立ち姿から只者ではない気配が滲み出ている。

 ――間違いない。彼が朱雀王国の宰相、ペンウッド・J・バイス。機甲兵を除いて唯一あの戦闘兵器の存在を知っていたと言われる人間。危険人物の一人だ。

 朱雀王国の経済と外交を取り仕切る、まさに王女の右腕的存在。たかが二年と少しで王国がある程度まで復興できたのも彼の力が大きい。玉座と同じ壇上に立つことを許されているということは、つまり王女の遠縁に当たる貴族だと言うこと。

 王国の行政の仕組みを頭の中で反芻する。六家と呼ばれる六つの上級貴族で構成される貴族議会(その中に王家であるラオプフォーゲル家も混ざっている)、そこでの厳正なる協議の結果が内政に反映される。そして彼は六家の次男であり、経歴が軍属上がり。過去には智将と評されるほどの采配を見せ、その頭脳を王国に役立てていた名軍師。若かりし頃は徒手格闘において上位の成績を修めていたようだが、この要素は除外してもいい。

 ――俺の素性を一番に勘ぐりそうな男だ。これからは今以上に振る舞いを気を付けねば。

 彼をエドワード以上の要注意人物と認定したスパルナは、傍からは視認できないほど小さく唇を噛む。護衛に任命されたことで難なく王城に侵入成功し、役職上ローゼとの接点も格段に増えるため僥倖以外の何物でもないが、同時に更に身の振り方に留意しなければならない。

 ペンウッドは間違いなく切れ者である。ほんの些細な挙動からこちらの身辺を窺ってくるだろう。あの柔和な瞳にはこちらを見透かすような鋭さがあることを、スパルナは本能的に悟った。

 護衛としての心構えを聞き流しながら、頭の中で暗殺者としての心構えを反芻するスパルナはここに至り、明確な敵意を肌で感じ取った。意識した瞬間、一気に全身が総毛立ち思わず軽く身構えてしまう。弾かれたようにその方向に視線を飛ばす。

 ペンウッドの後ろに控える女性がこちらを注視していた。長身痩軀をぴったりとした海色の衣服に包み、ふわりと広がるロングスカートも深い青色だ。こちらをじろりと睨め付ける女性の正体を探ろうと、獣人独特の視力の高さと持ち前の観察眼を動員する。

 その凛然とした立ち姿と剣帯に吊るされた紅色の鞘から、彼女がペンウッドの護衛であることは察せる。真珠色に青の差し色の制服の下の肉体は、無駄な筋肉などないように引き絞られているように見える。

 今度は視線を上昇させてその風貌を見やる。利発さと誠実さを同居させる切れ長の双眸は理知的に光り、鋭い眼光を飛ばす。流麗な眉に少し高い鼻梁と色の薄い唇が続き、口許は固く引き結ばれている。

 そして何より目を引くのは、後ろに結われて波打ちながら腰近くまで流れる燃えるような赤毛だ。ローゼのドレスといい勝負をするくらいの鮮烈さで、初見では目に焼き付くこと請け負い。そこまで注視すると、髪とよく似た色の赤っぽい瞳から突き付けられる視線が更に鋭さを増したので、取り敢えず視線を泳がせる。

 そうこうしている間にペンウッドの説明が終了し、降って湧いた謁見は有無を言わさず終わり告げ、壇上から降りて来たローゼがこちらに歩み寄ってきた。

すっと立ち上がり相対してやっと分かったことだが、ローゼは少女にしても小柄な方だった。身長が百七十はあるスパルナの胸元くらいの身長しかなく、ローゼが見上げてくると自然と上目遣いになり少々心臓が高鳴る。スパルナはとにかく気を紛らわせようと口を開く。

「……発言の許可をもらってもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「……私を護衛に選出された理由をお聞きしたのですが……」

「心境の変化よ。悪い?」

「いえ、全く。光栄の至りです」

「そう」

 冷然と言葉を返すローゼはそこで会話を打ち切ると、スパルナの脇を通り過ぎて謁見の間から出て行く。壇上から降りたペンウッドの隣に並ぶ炎髪の女性が未だにこちらに敵愾心に満ちた瞳を向けていが、護衛である以上ローゼの後を付いていかなければならないため後ろ髪を引かれる思いで、スパルナも体を反転させて粛々と後に続く。

 幅広の廊下や階段を何度も行き来して王城の上階へと進んでいき、一際大きな扉の前で立ち止まった。何の気なしにスパルナは片手で扉を半開きして、入室を示す。ローゼが短く礼を言って部屋に入ったのを確認してから扉を閉めようとする。すると振り返ったローゼが無機質な声で告げる。

「あなたも入りなさい」

「いえ、しかし」

「ペンウッドの話を聞いていなかったの? 護衛役は護衛対象の私室に入ることが許可される。侍女たちにも似たような権限が与えられているのだから、別に珍しいことではないわ」

 スパルナは別に聞き流していたわけではなかった。ただ、会って間もない女の子の部屋に入ると言うのは腰が引ける。しばし躊躇しているとローゼが痺れを切らしたように殊更冷たい声で催促する。

「入りなさい」

 ドスが効いた上に命令口調だった。すぐさま部屋に入り扉を閉め、振り向いて部屋を見渡して思わず嘆息する。

 ベッドがあることからこの部屋は寝室なのだろうが、それにしては広い方だ。大の大人が十人入ってもまだ余裕があるほどで、ベルセルクの寝室に負けず劣らずの広大さである。天井にあるシャンデリアの蠟燭と壁際に据え付けられたランプが温かい色調の炎を揺らしている。

 磨き抜かれた鏡台や上質な布張りの高い背もたれを備えた椅子に瀟洒な純白の丸テーブルなどからは高級感が滲み出ている。壁際には多くの樫の木の彫刻が見られ、それらは一流の木彫り師が彫り出したであろう造形美だ。

 部屋の東側にある差し渡し十メートルはあるであろう円形の寝台は染み一つない清潔な白絹の敷布が覆い、黄金の柱が金張りの天蓋を支えており、そこからゆったりと垂れる純白の薄布が小さく揺れる。

 扉の前で立ち尽くすスパルナを尻目にローゼは小さな丸テーブルを囲う二脚の古風な椅子に上品な仕草で座り、木の葉のようにひらりと対面の椅子を示す。

「座ったら?」

「い、いえお気になさらず。私はこのままで……」

「今のあなたは私の護衛、立場的には王国軍を掌握するエドワードと同じくらいなのよ。だから、そう畏まる必要はないわ」

 英雄と同等の立場とは随分と出世したものだ、と他人事のように思うスパルナは戸惑いつつも一礼してから椅子に腰掛ける。すると正面に座るローゼが意味深けに見つめてきたので、遠慮がちに質問する。

「あの、なにか……?」

 少々間を置いてからローゼは答える。

「…………あなた、剣術の腕が低いのね」

 溜めてからの駄目出しとはこんなにもきついものなのか、と思い知らされたスパルナは項垂れつつ少し唇を尖らせる。

「ええ、まぁ……。剣はどうしても性に合わず……」

「けど、体捌きの方が熟練者ね。帝国にいた頃から体術の鍛錬をしてきたの」

 当たり前のように自身の経歴を知っていたのは驚かない。だが、呟かれた言葉は質問の意ではなく、確認を示すものだと悟ったスパルナは体を硬直させる。昨日の立ち合いをやけに観察していたとは言え、高速での挙動を見てそこまで見通すなんて只の少女ではない。ローゼは王女にして戦姫、つまり戦闘への洞察力と興味関心が半端ではないという片鱗を見せつけられたスパルナの鼓動が跳ねる。

 ――まさか、俺が刺客であることも見透かしている。いや、そんな筈はない。ここで下手に動揺すればそれこそ看破されてしまう。冷静になれ、普通に振るまえ。

 瞬時に自身に言い聞かせたスパルナは、落ち着き払って無難な返答する。

「はい、少々齧った程度ですが……」

「青龍公国では謙虚さは美徳とされているようだけど、私はあまり好きではないわ。媚びへつらっているようで、見ていて吐き気がする」

 氷柱のような台詞を吐き捨てるローゼに、スパルナは意外の感に打たれた。先刻もそうだったが、ローゼは表情が一変しないだけで感情表現は人並みにするようだ。今の台詞は一国の王女としてどうなんだと思わなくもないが、スパルナとしては人間味が感じられて好印象である。

 ――いや、だからなんで好印象なんだ。ベルセルク様も言っていたじゃないか。標的に心許すべからずと。一定の距離を置くべきなんだから、いちいち反応してどうする。

 再び自身を叱責するスパルナと鉄面皮のローゼの耳に硬質な音が届く。続いて「姫殿下」という声がした。ローゼは扉の方に視線を転じると平素を変わらない声音で入室の許可を飛ばす。

「失礼します」

 扉を両手でうんしょと押し開けたのは少女だった。白いワンピースと白いフリル付きのエプロン、そして同じくフリル付きのヘッドドレス。それらが清潔感を漂わせ、朱色のリボンと碧色の留め具が付属してある。少女は栗色の髪を頭の高い位置で括って垂らしており、似たような色合いの大きな瞳は驚愕の色を帯びている。

 何度か目を瞬かせた相当に小柄な少女――おそらく侍女は気を取り直したように慌ててぺこりと一礼するとおっかなびっくりテーブルまで歩み寄ってくる。

「私の侍女のエステルよ」

「は、初めましてっ。侍女のエステルです。お初におめにかかります、スパルナ様」

 紹介されたエステルは畏まって頭を下げる。様、という言葉がむず痒くてスパルナはぽりぽりと頬をかく。

「様付けはやめてくれませんか。立場的なことはあるでしょうけど、何だが背中が痒くなるというか」

「いえ、そんな恐れ多いっ」

「いや、ほんとにそんな畏まらなくていいですから」

「さっきまで畏まっていたのは、どこの誰だったかしら」

 恐縮し合う二人にローゼがぴしゃりと一言を放つ。思わず押し黙った二人は曖昧な笑みを浮かべる。降って湧いた沈黙を埋めるようにローゼが口を開く。

「エステル、スパルナ。読み終わった本を書庫まで運んでくれないかしら?」

「は、はいっ。畏まりました」

 ――え? 俺も?

 という呟きを漏らすことはせずスパルナも黙って頷く。部屋の隅の幅広の円卓に積まれた本を持って部屋を出る時にスパルナはぼんやりと思った。

 ――記念すべき初仕事が本運びって……。なんだが釈然としないなぁ。



廊下に半ば押し出されるような流れで出てきた二人の間に、気まずい雰囲気が流れる。その雰囲気を壊す意味も含めてスパルナは隣に立つエステルに問いを投げる。

「あのさ、書庫ってどこにあるんだ?」

「中央塔の地下にあります」

「ちなみにここは?」

 把握していたが取り敢えず聞いてみる。

「東塔の最上階です」

 王城がだだ広いのでかなりの距離がある。スパルナとしては王城内を視察できるので願ったり叶ったりではあるが。

「いつもこんな仕事をしているのか?」

「えっと……基本は姫殿下の身の回りのお世話をさせて頂いています。こういう重い物を運ぶのは初めてですけど……私は楽をさせて頂いていますが……」

 申し訳なさそうにエステルはちらりとスパルナの手元に視線を飛ばす。スパルナの両手には計二十冊の分厚い書物。対してエステルの華奢な両手には五冊のみ。ローゼがスパルナに多く持つよう指図してきたのだ。

 ――まぁ、全然重くはないんだけど。帝国にレディ・ファーストなんて言葉があるし、その概念はきっと王国も共通なのだろう。

 スパルナの表情をどう解釈したのか、エステルはあわあわと弁明するように続ける。

「たぶんこの量ですと誰かに手伝ってもらわないと大変ですから、姫殿下はスパルナ様にも頼まれたと思いますけどっ」

「偶然にも男手がいたから俺に頼んだ、と。いや、嫌味とかじゃないからな。すごく重いってわけじゃないし、それに王城の見学もできるし。そういう考えなら俺が一人で運ぶのに」

 エステルがしゅんと肩を落としたので本音も交えて弁解する。

「護衛は雑用係ではないので、姫殿下はきっと『侍女の手伝い』という名目にされたかったのではないでしょうか」

 そう言うとエステルは微笑んだ。どうやらローゼは気持ちを見透かされるのが嫌らしく、先ほどの言葉も不器用な取り繕いであったようだ。

 ――素直じゃないな、彼女も。あの方と同じく。

 そう思いつつローゼのあの無表情を脳裏に描いて、小さく吹き出すスパルナは微笑み混じりに呟く。

「優しいんだな、姫殿下は」

「はい……ここに来てからずっと良くして頂いています」

 安らかな微笑を頬に浮かべるエステルは、冷血な雰囲気を放つローゼを畏怖してはいないようだ。

「エステルは何時からこの城に仕えているんだ? エステル、年は幾つ?」

「十五です。王城には十一の頃から仕えさせて頂いています」

 ――十一才と言えば、まだベルセルク様の元で訓練をさせて頂いていた頃だな。

 目的地に向けて歩き出してから、エステルは仄かに頬を紅潮させて恥ずかしそうに付け加える。

「兄妹が多いので、長女の私が出稼ぎに出されまして……。そうしたら、年が近いという理由だけで姫殿下の侍女に任命されて。スパルナ様はお幾つですか?」

「俺は十六だ。姫殿下は確か十七才だったか。姫殿下は、その、昔はどういう感じだったんだ?」

 会話を続けるために、またローゼの何か弱点となるものがないかを探るためという二つの理由で訊いてみる。するとエステルの顔から赤みが消え失せ、さっと陰が差す。栗色の双眸をわずかに伏せて訥々と語る。

「私がこのお城に仕えさせていただいたころには、すでに姫殿下は表情をなくしておいででした。……正直に言いますと、最初は怖かったです。声も表情も硬くて何を考えているのか分からなくて、それこそお人形さんみたいで……」

 感情の浮かばぬ蒼穹の瞳、陶磁器のように滑らかで白い肌、表情は水晶のように透き通り、平坦で冷淡な声音、人形という表現は実に的確であった。

 だがスパルナは知っている、彼女が時折見せる仕草にはしっかりと感情が乗っていることを。声音や表情が凍てついているだけで、その内にある心は暖かい筈なのだ。

 神妙な顔で傾聴するスパルナをちらりと一瞥したエステルは、一転して穏やかな笑みを見せる。

「けど、今は怖くないです。身分が天と地ほども違う平民の私にも分け隔てなく接してくださいます。時々あの蔑称を耳に挟んだりもしますが私、姫殿下にお仕えさせていただいていることを誇りに思っています」

 幼さを漂わす両の瞳に強靭な意志の光を宿し、エステルは告げた。その気持ちにスペルナは痛く共感していた。

 ――主君こそが我が誇り、その想いに国や種族の違いなどありはしない。

 それから暫く角を曲がり階段を降りて、右手で本を持ち左手に四面角柱のランタンを提げたスパルナは、エステルと共に地下に続く湿った石製の幅広の螺旋階段をゆっくりと降りていく。等間隔で円周の石壁に据え付けられた松明の炎が怪しげに揺れて、二人の陰影を伸縮させる。二つの硬質な足音が殷々と反響し、薄暗さも手伝ってエステルが怖がるように肩を震わせていた。

 やがて長い階段を降りきった二人は十メートルほど前方に続く廊下に辿り着く。廊下の天井と壁は古びた板張りで、床も同じく木製である。突き当たりにある扉は、古色蒼然とした廊下とは違い真新しい白木で造られている。おそらくあの扉が書庫の入り口なのだろう。

 扉の隙間からは温かみのある橙色の光が薄く漏れ、そこから古い紙を思わせる匂いが漂ってくることを獣の明敏な嗅覚が察知した。階段は冷たく湿った空気だったが、廊下の空気は言うなれば本の香りに満たされている。

 すんすんと鼻を鳴らすスパルナは板張りの床にブーツを底を弾ませつつ、扉の前に行き着く。左手のランタンを床に下ろして扉を押し開け、そして視界に飛び込んできた光景に思わず息を呑む。

「はぁ……」

 感嘆のため息が口から漏れる。心ここにあらずと言った感じでふらふらと足を踏み出すスパルナの後にエステルが続いて、静かに扉を閉めた。

 本棚と本の世界が果てしなくどこまでも広がっていた。茫漠と広大な書庫の構造は円周形で、湾曲する壁面に沿って階段やら通路が隘路のように幾重にも張り巡らされ、それらの両側に恐ろしく巨大な書架がずらりと並んでいる様は圧巻の一言である。

 二人の立つ場所から彼方の天蓋までは軽く四十メートルを越えている。奥の奥まで伸び上がる回廊はまさに立体の迷路であり、不用意に立ち入ればそれこそ二度と出てこれないであろう。

 スパルナの感嘆に染まった表情を見て、くすくすと笑うエステルはその表情から傍らの少年の心情を読み取ったように告げる。

「私の後に付いてきたくださいね。はぐれちゃいますから」

「ああ、もちろん」

 スパルナは眼前を小さい歩幅でとことこ歩く少女の後追って進みつつ、時折周囲を見回す。ぎっしりと書架に収められた蔵書の数は到底推し量れず、それ故にスパルナの好奇心をくすぐった。通路は幾度となく分岐や上昇と下降を頻繁に繰り返し、二人はどんどん隘路の最奥部へと入り込んでいく。

 忙しく視線をきょろきょろさせるスパルナの行く手に、周囲を本棚に囲まれた差し渡し七メートルほどの円形の広間が現れた。その中央には木製のテーブルがあり、それを瀟洒な二脚の椅子が囲んでいる。

 そのテーブルに計二十冊の本を置いたスパルナは改めて周囲を見渡す。円形の広間からは十以上の廊下がまっすぐと伸び、それを挟むようにして凄まじく高い本棚が屹立している。

 スパルナと同じく本を置いたエステルはほっと一息吐き、こちらに向き直った。

「スパルナ様、ありがとうございました。ここからは私がしますので、スパルナ様はお部屋にお戻りになってくださいませ」

「いや、俺も手伝うよ」

「お気遣いありがとうございます。ですが、スパルナ様は姫殿下の護衛なのですから、姫殿下にお供しなければなりません」

「たぶんだけど姫殿下はもう部屋にはいないんじゃないかな。ぽっと出の護衛を律義に待てるほど暇ではないだろう」

 実権を持っているのはローゼだ。そんな悠長に護衛を待てるほど暇ではない、そのことをエステルも理解しているらしく、言葉を淀ませる。

「それは……そうかもしれませんが……」

「なら、いいじゃないか。どこに戻せばいい?」

 片手でひょいと五冊ほど持ち上げて機先を制する。エステルは尚も恐縮するようにおどおどと視線を彷徨わせていたが、堪忍したのか首肯で同意を示した。それからエステルに先導されて数ある内の一本の廊下を進んで行き、とある地点で足を止める。エステルは両側に聳える書架の示して説明する。

「この一帯に姫殿下がよくお読みになられる本が収められています」

 運ぶ途中で確認したところ、大抵の本は帝王学や政治学やら心理学やらと言った小難しさを漂わす本であった。それらの分野はベルセルクから英才教育を受けたスパルナでも専攻してはいなかったので、試しにぱらぱらと頁を繰り読んでみたが内容は殆ど理解できなかった。迅速かつ確実に標的を仕留めることが仕事であるスパルナには必要のない知識だったのだ。

 スパルナは片手に一冊持ちつつ眼前に聳える本棚を見上げて問う。

「この本はどこら辺に戻せばいいんだ?」

「えっと……あそこです」

 別段迷うような仕草も見せずにエステルは即答して、細い指先で指し示す。視線を追えば確かにそこには大量の本に紛れて間隙があり、二人がいる場所から三メートルほどの高さだ。

「少し急ですが梯子を使えば届きますので……」

「いや、その必要はないよ」

「え?」

 目をぱちくりさせるエステルを尻目に、スパルナは両足に力を大きく溜めて一気に解き放ち跳躍した。人間では到底真似できない驚くべき高度の跳躍でぴったり三メートルまで到達すると、驚異的な滞空時間を駆使して丁寧に本を差し入れる。そして驚くほど軽い音を立てて床に着地してすくっと立ち上がる。

 エステルは呆然とぽかんと口を開けて、スパルナの澄ました横顔を数秒に渡って穴が空くほど凝視し、感嘆とした息を漏らす。

「すごい……」

「これくらい大抵の半獣人ハーフなら造作もないよ。それにこっちの方が早く事が済む」

 約七年に渡り肉体の鍛錬を続け、かつ半獣人ハーフの身体能力の限界に到達し得るほどの研鑽を実直に繰り返せば造作もない、という話だ。並み大抵の半獣人に真似できることではない。

 そのことをスパルナは理屈の上ではわかっているものの、自分以外の、特に同世代の半獣人に出会った経験が皆無なこともあって、なんとなく「自分にも出来るから他の半獣人ひとにも出来る筈」と考えてしまうのだ。

 それから同様の方法でどんどん本を戻していく。時折エステルが送る羨望やら憧憬やらが多分に込められた視線を受けたスパルナは、無性に背中が痒くなった。畏怖や軽蔑の視線を向けられることは数あれど、このような正の感情を送られたことはそうなかった。それらを向ける相手もベルセルクや孤児院の子供くらいである。

 広大な書庫は王国の図書館も兼ねているため、国のあらゆる文献が保管されている。巨大な書庫のあちこちを行ったり来たりした二人はものの数十分で全ての本を収納し終えると一旦あの円形の場所に戻り、椅子に腰を落ち着かせて一息吐く。

 一仕事終えたスパルナは正面に座る小柄な侍女に、一つの疑念を投げかける。

「君は……俺を怖がったりしないんだな。エドワード殿の影響か?」

「もちろんそれもありますが……。何より半獣人ハーフの方たちが本当は怖くなくて、見た目はちょっと違うけど私と同じ人間だってことを知っていますから。だから全然怖くありません。むしろ力持ちだったり足が速かったり、あとスパルナ様みたいに高く跳んだりするところ見てすごいなって尊敬します。私、運動が苦手なので」

 そう言うとエステルは控えめにはにかむ。

 得体が知れないから極度に恐れる。だからこそ、知識を保有していれば恐るるに足りない。それはごく当たり前のことなのかもしれない。しかし今までスパルナが出会ってきた人間の殆どは知識を識る努力をしない、それ以前に知ろうともしない。分かりやすい共通概念で一括りにして思考を停止させ、世評に頼ってその価値を判断する。その判断に本人の意思は介在せず、周囲が「そういうもの」と断じた価値観を鵜呑みにして理解した気になる。

 ――思考し続ける人間もいることは、理解していた。けど、実際に会ってみてやっと実感が湧いた。……この国にも俺自身に目を向けてくれる人間は確かにいたんだ。

 ローゼ以外にもそういう人間がいたという事実を知ったスパルナの胸中に、穏やかな感情が満ちた。自然と口から本音が零れ落ちる。

「エステルは、優しいな」

「え? どういう意味ですか?」

 きょとんと首を傾げるあたり、先ほどの言葉は本心からきたものなのだろう。エステルの問いにスパルナは仄かな微笑みを返す。軽い沈黙が二人の間に満ち、スパルナは頃合いを見計らってさも自然に切り出す。

「……エステル、あの本ってどこのやつだっけ?」

 エステルの後方にある本棚の中で一冊だけ収納されていない本がある。指し示されたエステルはふいっと振り向いて席を立って歩いて行き、本の表紙を確認した。

「これは物語ですので、所定の本棚は少し遠いですね。私、戻してきますからスパルナ様は先にお戻りになっていてくださいませ。お部屋は姫殿下と同じ階層ですので」

「いや、待ってるよ。俺さ、まだ王城の構造を把握してないからエステルが先導してくれないと帰れる気がしない」

 取ってつけた理由に疑念を抱くこともなく、エステルは「急いで戻してきますっ」と早口で言うと足早に本棚の狭間に消えていった。小さな足音が遠ざかっていくのをピンと立つ黒い獣耳で確認しつつ、スパルナは視線を向かって左方向に滑らせる。

「気配を消すのがお上手ですね、ペンウッド様」

 人の気配が皆無な書架の間からゆったりとした足取りで一人の男性が姿を現す。深い緑と白を基調とした紳士風の服装で長身痩軀を包み、温和な雰囲気を漂わすペンウッドは「相席してもよろしいですかな?」と問う。スパルナが黙って頷いたのを認めると「では、失礼して」と言って椅子を引いて腰を下ろす。

「流石は姫が選ばれたお方、初めから気付いていられましたか」

「謁見の間であなたの匂いを記憶していたので、なんとか気付けました。それがなければ気配を察知することはできなかったでしょう」

 妙に勘ぐられぬよう嘘をつく。巧妙に気配を消してはいたが、如何せん向けられる視線を肌が感じ取った。この場所に来た時点で勘付いていたので、スパルナは彼と話すために敢えて本をあんな見える場所に置いた。そしてそれをエステルが戻してくるように仕向けた。本を運ぶ中、わざと遠い書架から本を抜いてくるという抜かりなさだ。

「つかぬことをお聞きしますが……何故この場所にいらしたのですか?」

「仕事が煮詰まっていたもので、気分転換をと思いましてな。最近は文字が見えづらく困ったものです」

 ほっほっほと愉快そうに笑うペンウッドに、スパルナは曖昧な笑みを返す。スパルナが書庫に来ることを見越してここで待っていたのではないか、と勘繰ってしまうほど目の前に座る初老の男は侮れない。全ての言動が打算であると暴露されてもスパルナは驚かない自信がある。

「そういうスパルナさんはエステルさんのお手伝いですかな。いやはやその紳士の態度、見習わせていただきますぞ。……それはそうと、何か私に聞きたいことでもあったのではないでしょうか」

 朗らか笑みを収めたペンウッドの柔和な瞳が仄かに鋭さを帯びる。さすがこちらの意図を見透かしていたかと思うスパルナは、頷くと予定通りの質問を投げかける。

「姫殿下はいつ頃から表情を失くされてしまわれたのでしょうか?」

 打算を見透かされぬよう真面目な顔を取り繕い、真剣な声音で問い掛ける。

 今までは暗殺のために目立たぬように振る舞ってきたが、今は勝手が違う。ローゼの護衛になってしまった以上、もうこの策は使えない。昨夜に新たな策をいくつか練ったスパルナは、消去法で妙案を採用した。

 暗殺というのは基本的に相手が油断をしているところを狙って奇襲を仕掛け、素早く仕留める。第一段階としてまずは相手を何らかの方法で油断させてその一瞬で殺す、或いは油断しているところを襲撃する。例としては就寝時、或いは用を足す時、もしくは風呂での入浴時などの気を緩めている場面を狙うのが定石である。

 一見、護衛という立場から確実性の高い方法のように思えるが、相手が戦姫とあらば話は別だ。ローゼは戦姫としての経験がただの一度もない、それはつまり戦闘力が如何ほどかを判断するほどの情報がないということだ。ベルセルクのように咆哮が攻撃手段というのも十分考えられるが、火の鳥と称される朱雀となると他の能力があっても何ら不思議ではない。

 例えば体に触れられた瞬間、発火現象を引き起こして相手を焼死させたりとか。

 故にこの定石は危険性が高すぎる。よって今回は前者を採用した。相手を油断させる、つまり気を許せるような信頼関係を構築する必要がある。その一環として相手の過去を知り、どこかでその話題を提示し共感することで親密な関係に発展させる。距離を縮めれば自ずと暗殺の機会は巡ってくる筈だ。

 もし仮にそれが失敗し、後者を選択するしかなくなり戦姫の能力で逆に殺されてしまったとしても、目的は達成される。

 あくまで任務の内容はローゼの暗殺だ。そこにスパルナの安否は含まれていない。要はローゼを殺害できればそれで御の字なのだ。

 ――いつでも死ぬ覚悟はできている。あの方の悲願に少しでも貢献できるのなら本望だ。

 スパルナが決意を新たにする中、ペンウッドは鳶色の瞳を細めつつまっすぐにスパルナを見つめる。そしてふうと短く息を吐くとゆらりと顔を上向けて、虚空に視線を投げかけつつ鳶色の瞳に哀愁を浮かべた。

「いつから、であったでしょうな。昔は大層よく笑う子でしたが、今では喜怒哀楽のどの感情も発露させることはありません」

「やはり朱白戦役がきっかけで?」

「父親が国外逃亡をした事実が大きかったのでしょう。けれど当時は殊更に笑顔を見せておられた。無理をしての笑顔であったことは明白ですけどね。しかし休戦協定を結んで暫くしてから、急に笑わなくなってしまわれた。それでも多少なりとは表情の変化や声に抑揚があったので、それらで機微を察することができましたが今ではそれもままなりません。表情はさらに凍てつき、声も淡々としていられる」

「過去に何か転換点となるような出来事が起こったのでしょうか?」

「心当たりはないのですけどね。確かに国の立て直しに入った時期で多忙ではありましたが、それが理由とは思えません。……今では鋼鉄の荊という不名誉な異名がつけられ、王城の外にまで広がっている始末。なんと嘆かわしいことか」

 針が落ちる音さえ聞こえそうな静謐の中で、ペンウッドの口から穏やかだが、どこか哀切を帯びた声が流れ続けた。沈痛な面持ちで語ったペンウッドは一転して真摯な表情になると視線を動かし、まっすぐにスパルナを見つめる。

「だからこそ、私はスパルナさんが姫を変えてくれるのではないかと密かに期待しているのです」

 不意を突くような言葉にスパルナは思わず鼻白む。

「私が、ですか?」

「左様。姫が年頃になってから権力や地位、財産目当てで近寄ってくる男性が大勢いましてな。そのせいで男性不信気味で、父親の逃亡がきっかけでさらに男性への猜疑心に拍車がかかってしまったのです。おまけに頑なに護衛を付けようとはしなかった姫が、ここにきて男性でしかも同世代の方を護衛に任命するとは……。これは期待せずにはいられません」

 スパルナは、にやりと笑うペンウッドの視線に耐え切れず目を逸らす。そんな役目を押し付けられてもありがた迷惑もいいところであったため、半ば抗弁するように言い返す。

「しかし、それは困難ではないでしょうか。噂で聞いたのですが、前国王は王妃様の護衛から王家に婿入りする形で国王となり、財産や権力や地位を手に入れるための口実として王妃様とご結婚された、と。それが事実ならば今の私は前国王と重なりますゆえ、尚の事姫殿下は私を拒絶されるのではないかと存じます」

「心良く思っていないのなら、なぜ姫はスパルナさんを護衛に任命されたのでしょうな?」

「それは……心境の変化だとご本人が仰っていました。これを機にさらに男性のことを嫌いになろうとしたのでは?」

「スパルナさんは、姫が伊達や酔狂で護衛を付けると思いますか?」

「…………いえ、全く」

 スパルナの完敗だった。勝利を確信したペンウッドは目を細めてほっほっほと愉しそうな笑みを見せる。この宰相、どうやらただの生真面目な老人ではないらしい。負けず嫌いのスパルナは珍しく仏頂面を決め込み、そっぽを向く。他人におちょくられるのは不愉快極まりない。

 ――このまま言い返すこともせず、引くのは癪……だが。敵前逃亡は趣味じゃないけど、今回は相手が悪い。……違う、これはあれだ。戦略撤退と言うやつで、勇気と蛮勇は似て非なるものなんだ。

 依然としてペンウッドの視線に居心地の悪さを感じたスパルナは、内心で言い訳を述べつつ逃げる口実を作り、さも自然に侍女の消えたいった方向を気遣わしげに見やる。

「エステルの帰りが遅いですね。……ペンウッド様、私はエステルの捜索に当たりますので、これにて失礼します」

「ほう、確かにそうですね。この書架は広いですから、慣れているエステルさんが迷子になっている可能性がありますな。女の子を一人にしておくのは、私としても忍びない。私は近日の謁見の打ち合わせがあるゆえ、この件はスパルナ様にお頼みします」

「畏まりました」

「ふむ、それでは」

 椅子から腰を上げた二人はそこで会話を打ち切り、ペンウッドは踵を返して出口へ歩を進め、その背中に向けてスパルナは仰角四十五度の綺麗な礼を送った。ペンウッドの長身の背中が見えなくなるまでお辞儀をし続けたスパルナは姿勢を戻すと、足早にエステルの元へと向かった。

 道中に残るエステルのかすかな匂いを鋭敏な嗅覚で追跡すること数十分。かなりの距離を踏破するスパルナが半ば焦り始めた頃、ようやく紺色と白を基調とした侍女服を視界の端に捉えた。本棚を迂回し、こちらに小さな背中を向けて立ち往生するエステルに呼びかける。

「エステル」

「ひ、ひゃい!」

 頓狂な声を上げてびくっと軽く体を飛び上がらせたスパルナは、おずおずと振り向く。声の主がスパルナと分かると怯えた表情を安堵で弛緩させ、ほっと息を吐いた。

「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。なかなか帰ってこないから気になってな」

「も、申し訳ございません。あの本が保管してある場所はあまり行ったことがなかったので、辿り着いたまでは良かったのですが帰り道が分からなくなってしまって……」

 しゅんと頭を下げるエステルに何を言ったところで下手な気休めになってしまうだろうと推測したスパルナは、眉を下げつつ黙考する。そして脳裏にベルセルクとの過去の光景が過ぎり、それを実践してみる。

 右手を栗色の頭の上に掲げ、そして髪が乱れない程度に撫でる。幼少の頃にことあるごとにベルセルクがスペルナにしてきた行為だった。スパルナ自身これをされると心が安らぎ、落ち着いたので有効なのではないかと判断した。

 右手を退けると、顔を上げたエステルは仄かに頬を染めていたので有効だったようだ、と判断したスパルナは「行こう」と声をかけて踵を返した時に重大な失敗に遅まきながら気付いた。後に続くエステルがスパルナの背中にぶつかり「あうっ」と小さく呻く。

 ぎぎぎと軋む音が聞こえてきそうな動作で、体をゆっくりと反転させたスパルナをエステルは不安げに見上げる。

「……スパルナ様……もしかして帰り道が分からなく――」

「そ、そんなわけないだろ。仮に道を忘れたとしても、俺は半獣人ハーフだ。空気の流動や匂い、音の反響などから出口を推測するなんて造作もないっ」

 取り繕うが、気の動転は隠し切れていない。意地でも事実を認めたくなかったスパルナは嗅覚を総動員して匂いで帰り道を探索した。

「よし、こっちだ」

 重層に張り巡らされる隘路をエステルを連れて突き進む。数十分後。

「どこですか、ここ?」

 目の前には先ほどと似たような書架が聳える。

 スパルナは送られる不安げな視線から顔を背けつつ、今度は遠吠えてみる。甲高い咆哮が停滞した空気を鳴動させ、書庫内を殷々と反響していく。瞼を閉じて意識を集中させ、高く尖る獣耳をそばだてる。そしてカッと開眼する。

「よし、こっちだ。今度は間違いない」

 大人二人が通れるくらいの幅の板張りの廊下を進むこと更に数十分。

 眼前には床と同じく木製の円形の壁が広がっている。

「あの、スパルナ様……。更に遠くなっている気がします……」

「っ次こそは当てる」

 再び吠える。反響を分析する。違う道を進む。

 今度は書架が立ち塞がった。端的に言ってまた間違った。

「あの……」

 エステルの栗色の瞳に仄かに憐憫めいたものが浮かぶ。

「今度こそ!」

 壁。

「次こそは……!」

 本棚。

「……当たれ……!」

 書架。

「頼む……」

 壁。

「…………」

 壁。

「……スパルナ様。今度は私が先導いたします。よろしいでしょうか?」

「……はい、どうぞ……」

 結局、巨大な書庫から脱出できたのは太陽が中天を到達したくらいの時刻だった。職務の間に一旦部屋で休憩していたローゼは疲れ果てた二人が戻ってくると、無表情のままに告げた。

「……スパルナ、あなた自分の役目を言ってみなさい」

 その表情は普段の数倍凍てついており、それなりに修羅場を潜ってきたスパルナであってさえ、大量にだらだらと額から頬へ冷や汗を流して表情を硬直させ戦慄するのだった――――。



 数日後。時告げの鐘が十時を知らせた時、スパルナは《紅玉宮》と呼ばれる華麗な尖塔を持つ宮殿内の真っ赤な絨毯が敷かれた幅広の廊下を歩いていた。朱雀を象徴するようなこの巨大な真紅の宮殿は国外からの客を迎えるための建物であり、雲上人が人を迎えるに当たって使用する三つの建物の内、最も王城から遠い位置にあるのがこの建造物だ。御所も兼ねた王城に余所者を近付けさせないための配慮である。

 内装をきょろきょろと見回すスパルナは前方を行く華奢な背中に目を向ける。今日のローゼの装いはいつもの真紅を基調とし、華麗な装飾が施された瀟洒なドレスではなく、抜けるような純白の礼装だ。

 婚式で着用する服装に似た真っ白の礼装は、肩が大きく露出しており、ほっそりとした肩が覗いている。艶やかな黄金の髪の間から覗く血色の良い薄い桃色の肌と、うっすらと浮き上がる肩胛骨が続き、スパルナは後ろめたい気持ちを覚えてふいっと視線を逸らす。

 あの真っ赤なドレスは臣下に王女としての威厳を示すために着ているため、国外の人間と会う今回は着用しないらしい。

 ――それにしても、妙に大胆じゃないか。それとも王国ではこれが普通なのか?

 ベルセルク相手にそれ以上の露出を見てきたであろうと言われればそれまでだが、しかしだからと言って女性の肌を見慣れていると言うわけではない。目のやり場にこまるスパルナの心境など知る由もなく、ローゼは歩みを止めずに口を開く。

「今日は麒麟共和国の大使との会合よ。国土面積、総人口、軍事力などで朱雀王国に勝っている中立国よ。立場に優劣はないけれど、くれぐれも粗相のないように。あなたを護衛に選んだ私の品格が問われるから」

「は、肝に命じます」

 平素と変わらぬ冷たい声音で釘を刺された。最後はかなり個人的な理由ではあるが、王国の沽券に関わるなんて建前を言われるよりはマシだとスパルナは思った。何故ならスパルナはそういう上っ面な建前を嫌悪しているからだ。

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