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護衛

 九時を知らせる時告げの鐘の重厚な音色で目覚めたスパルナは、二段ベッドの上で何度か身動ぎしつつ億劫げに上体を起こす。周囲を見回せば部屋には誰にもおらず、例の如くスパルナは四人部屋を独占していた。今日は休息日ということもあり稽古はなく、大抵の新兵は実家に帰るため、どの部屋も早くから空室になる。

 スパルナは眠気目を擦りつつベットから降りて部屋を後にすると、隊舎の外にある石造りの井戸で水を組んで顔を洗ってから冷たい井戸水をぐびっと飲んでほっと一息つく。バケツに汲んだ水が日光を反射して鏡面のように煌めき、濡れ顔のスパルナを映す。先週の休日は「中庭」の構造を把握するために一日を探検に費やしたのが、今日はどうしたものかとしばし黙考する。

 王城視察をしたいのだが今の立場ではそもそも入れてもらえない。城門に常駐する門番に門前払いを食らうのがオチであり、つまり現段階でやれることは殆どないと言うことだ。暗殺とは一度きりの殺害行為だ、下手は打てない。

 こつこつ努力して兵士としての立場を向上させていくのが上策ではあるが、如何せん武勲を立てる手立てがない。「朱白戦役」以前は国境線付近で他国とのいざこざが頻発、要は万年戦争状態であったらしいが王女が政治に参加してからはめっきりなくなったそうだ。機能不全に陥っていた宰相辺りが国王が去ったことにより息を吹き返したおかげでもある。

 かと言って何もせず手をこまねくのも時間の浪費だ。そこまで熟考してから一つの考えに至ったスパルナは部屋に戻り板壁に立て掛けてある木剣を佩くと、足早に隊舎から出て西へ向かう。

 四方を巨大な壁に囲まれた中庭は、二つの隊舎と先輩たちの住まう複数の上級隊舎、大修練場と教官宿舎といった多くの建物を収めてもまだ余裕があるほどの広大さを誇り、最西端にある大修練場は小高い丘の上に位置しているため徒歩ではそれなりに時間がかかる。

 道中には小川やら林やらがそこかしこにあり、それらを眺めるたびに流石は王城と感嘆せずにはいられない。中庭と称されるこの一帯がこの規模ということは、巨大な城壁を超えた先にある空間は如何ほどのものかと想像を膨らましている間に深緑の芝生に覆われた丘が見えてきた。曲がりくねった石敷きの歩道を登りつつ大修練場の全体を眺める。

 差し渡し一〇〇メートルはありそうな長方形の大修練場は、白塗りの壁で構築され緑色の丘に上ではかなり目立つ。今日は休息日ということもあって先輩兵士たちも稽古は行っていないはずと踏んだスパルナは、自主練習に一日を消費することに決めた。念のために言えば、あの貴族連中に言われたことを気にしているわけではなく、半分混じる獣人の血が騒いだのだ。

 この場所にくれば強者と相見えるのではないか、と。

 元々獣人という種族は人里離れた山中や森林の奥などに小規模な集落を作り、本能的な部分で人間という種族を嫌悪していることもあり、それこそ生涯で一度も人間と交流を持たない種族だ。しかしそれでも例外と言うものは存在し、ごく稀に人間と愛情を深める者が出没する。

 その延長線上で誕生した半獣人ハーフは稀少な存在であり、白虎帝国の一部の貴族に奴隷として売られてしまうこともしばしばなのだ。そう考えればあの兄妹はまだマシだったとも言える。

 獣人は狩猟本能や闘争本能が強い種族で有名である。それ故に血を半分受け継いだ半獣人ハーフもまたそのような物騒な本能も継承しているわけだが、スパルナのように人間社会に組み込まれてしまった者は強制的にそれらの本能を抑圧されてしまう。そのため彼らは抑止されたことで発生したストレスを他のものに打ち込むことで解消している。スパルナの場合はそれが徒食や睡眠に該当する。

 かすかな期待を胸に大修練場前に辿り着いたスパルナはそこで入り口の扉がわずかに開いていることに気付いた。もしや先客がいたかと顔を顰めたがここまで来て帰るのも癪だったので、遠慮気味に扉を押し開き室内に入ったところでスパルナは息を詰めた。

 大修練場の床は磨き抜かれた白板張りで、窓は天窓が一つあるだけで壁に等間隔でランプの橙色の光が揺らめいており、だがそれでも室内は外の明るさと比して薄暗い。広大な室内には黒い板で構成された正方形の試合場が四面取られており、周囲には階段上の観客席が所狭しと設けられていて、推定三百人ほどの観衆を収容できるほどの広さがある。

 大広間と言っても差し支えないその場所の中心に、一人の少女が悠然と腰を下ろしていた。華奢な両脚を揃えて右に折るという所謂女の子座りでゆったりと座る少女の唇から清流のせせらぎのような歌声が流れた。

 楽器のように澄んだ声音で紡がれるうたが耳に染み入る時、頭の中で瀑布の如く記憶の逆流が起こった。遠い昔、人間である母が歌ってくれた子守唄……有名な吟遊詩人が創った恋の詠だ。身が焦がれるような熱い純愛を綴った歌詞が印象的で、今でも色褪せることなく歌詞が記憶に刻まれている。

 真上の天窓から降り注ぐ柔らかな陽光を浴びながら詠を紡ぐ少女の声は水晶のように透き通り、そしてひどく儚げだった。心音が耳を聾せんばかりに響くにも関わらず、少女の歌声は驚くほど滑らかに耳に滑り込んでくる。

 青龍公国の崇め奉る神の教えに、万物には神が宿るという考え方がある。ならば目の前の少女は太陽の精か、それとも数多の闘士たちを見てきた修練場に宿る戦いの女神か。

 どちらにせよその姿は可憐にして清らかで気高く――

「あ…………」

 スパルナは、自分の口から漏れた虚ろな声を意識できなかった。

 見てはならないと言う禁忌じみた疚しさが脳裏を掠めるが、それでも目を離すことができない。完全にスパルナの目は少女に釘付けとなり、扉を押し開けた姿勢のまま硬直し続ける。瞬時に周囲の景色が霧散するように消え失せ、固定された視界に映るのは麗らかな陽光と太陽に祝福された少女の姿のみだ。

 ――俺は、幻でも見ているのか……?

 その時、声が止まった。少女は小さく肩を震わせると弾かれたように振り向き、こちらを見つめた。金色の長い髪が動きに合わせて残像のように揺れてふわりとたなびき、一筋に纏まって再び小さな背中に流れる。

 こちらに据えられた瞳は海の色とも空の色とも表現できない、純粋な蒼。その瞳から注がれる視線は冷ややかで、瞬時に背筋に怖気が走る。数秒間こちらをひたと見据えた少女の桜色の唇から可憐にして冷徹な声が流れた。

「気配を殺してこの場所に忍び込むなんて、なにか疚しいことでもするつもりだったかしら」

 人間の声とは思えぬ硬質な響きに内心で驚愕する。何故なら先程の歌声とは真逆の感情のない声音だったからだ。目を見開いて硬直していると懐疑的な視線がスパルナの目を射抜き、身の危険を感じつつ慌てて応える。

「い、いえ滅相もございません。お休み中のところ、邪魔をしてしまい申し訳ございません。このような形で御前を拝することをお許しください、ローゼ姫殿下」

 一瞬で片膝を突いて頭を下げつつ立て板に水とばかりに非礼を詫びるスパルナを、ローゼ王女は冷淡に見つめた。作法通りの行動をしたスパルナは内心、冷や汗をだらだらと流していた。

 ほんの五メートルほど離れた場所に、標的がいる。二年前のあの日に暗殺を企てた相手が目の前に無防備に姿を晒している。国境付近で話した協力者から聞かされた事前の情報によれば王女は王城から出ることは殆どなく、出ても精々城壁の内側――つまり中庭にまで外出することはごく稀だと。

 これらの情報を考慮すれば今のこの状況は奇跡にも等しいわけで、これを逃せば当分は暗殺の機会が巡ってこないのは明白だ。しかも見たところ周囲に近衛兵も不在ときた。

 そこまで考えたスパルナはあと一歩のところで踏み留まった。脳裏に昨日のあの貴族連中の言葉が過った。

 ――近々、鋼鉄の荊が我ら新兵の訓練の視察に参られるようです。

 つまりまだチャンスはあると言うことだ。だがそれ以前のこの状況で暗殺を行うこと事態が自殺行為な面もある。

 ローゼ・ゴルト・ラオプフォーゲル王女、またの名を朱雀の戦姫。朱雀の纏う炎は万象一切を灰燼を為す、まさに煉獄の火炎。神獣化していないとは言え、彼女もまたベルセルクと同じ戦姫だ。いくら人間よりも、並みの半獣人ハーフよりも動体視力と瞬発力と反応速度に優れ、それに追随するほどの膂力を持ち合わせるスパルナであろうとも、この距離で尋常ならざる咆哮ブレスを躱すことなど不可能であるし、また自惚れてもいない。

 場に満ちた痛いほどの沈黙をローゼが小さく破り、それにスパルナはびくりと肩を震わせて大げさに反応してしまう。

「その殊勝な態度に免じて今回は許しましょう。……スパルナ・シュバルツ、安息日に剣の稽古をすることは禁じられてはいませんが、過度な鍛錬は控えておきなさい」

「は、ご忠告痛み入ります」 

 冷たい声音と共に教官のような口調で言うローゼに、頭を下げたまま応える。

 ローゼの言う通り、休息日に稽古を行うことは禁じられていない。だが、過剰な練習までも認めてしまえば休日の意味がなくなるので、こうして忠告してきたのだろう。自分の名を知っていることに少々驚いたスパルナとローゼの間に再び沈黙が降りた。

 このまま去る、という選択肢も浮かんだがそれでは大修練場に来た意味がない。妙に気まずい沈黙に耐え切れなくなったスパルナは遠慮気味かつ強引に問いを投げた。

「ローゼ殿下、宜しければ発言の許可を頂ければ……」

「いいでしょう、申してみなさい」

 スパルナが言い終わるより早く返答してきたローゼの声音は無機質で、聞きようによっては怒っているようにも聞こえる。ゆっくり頭を上げたスパルナはまっすぐな視線に戸惑いつつ発言する。

「ローゼ殿下、その……歌がお上手なのですね、思わず聞き入ってしまいました」

 心底どうでもいいことだった。

 少なくともわざわざ許しを請うてまで進言するような内容ではないとスパルナ自身も承知していたが、それでも賞賛を送らずにはおれなかった。それほどまでにローゼの歌声は音程が合って抑揚も豊かで、かつ生の感情が込められたものだった。

「……………………」

 スパルナの台詞が予想外だったのか、ローゼは呆然と声を失った。また抑揚のない声が返ってくるものだと予想していたスパルナもまた目を丸くして呆然とする。数秒の視線の交錯という奇妙な間を断ち切ったのはローゼの方だった。ローゼは不意にふいっと視線を横に流すと、手櫛で癖のない髪を払う。間を繫ぐための言葉を探しているが、見つからないといった風情だった。

 依然と表情に変化はなく無表情なままだが、それでもローゼの心情を何となく理解したスパルナは思わず小さな笑みを零した。

 ――鋼鉄の荊と聞いて不本意とはいえ相対してみれば。なんだ、普通の女の子じゃないか。

 詳細不明な感慨が胸の底から広がっていくのを感じるスパルナが漏らした笑みを嘲笑と解釈したのか、ローゼは研ぎ澄まされた刃のような視線を向けてくる。

「何がおかしいのかしら、シュバルツ」

 冷徹な声で放たれるその言葉も、今ではただ拗ねているようにしか聞こえない。その間にもどんどん視線の温度が下がっていくので、沸き起こる笑いを噛み殺しつつ答える。

「姫殿下は荘厳なお方だと勝手ながらに思っていましたが……。雲上人様も同じ人間なのだと知り、納得致しました」

「納得?」

「はい。この国がたった二年と少しでここまで復興できたことに納得致しました」

 王女と言えど、戦姫と言えど人の子であり、それ故に普通の情緒を持ち合わせている。例えば臣下を労り慈しみ、彼らのために身を粉にして復興作業を指揮したりなど。

 その旨を伝えるとローゼはこちらの心を見透かすようにじっと見つめてきた。造形の整った顔立ちに凝視されて居心地が悪いことこの上ない。

「賛辞、ありがたく受け取っておくわ」

 そう言うとローゼは目を逸して虚空を見つめる。いったい何を考えているのか検討もつかないが、また会話が途切れてしまった。このまま無遠慮に剣の稽古をしてはならないのだろうと思いつつ、間を持たせることも含めて先程から気になってことを訊いてみる。

「護衛の姿が見受けられないのですが……。確か、王家の方は十六歳になったら一名、直属の護衛を付けられる筈ですが……」

 成人するその時までは外の公務に一切関わらない、つまり王宮から出ることがないので護衛を付ける必要がない。しかしローゼの年齢は十七歳、近衛兵とは違う専属の武官を傍付きとする仕来りがある。護衛がいるのならその人物が如何ほどの技量を持っているか、目測でも推し量りたいという打算が根底にある質問だ。

 突飛な質問に気分を害した風もなく、ローゼは再びこちらに顔を向けた。しかし返答はスパルナの思惑を見事に裏切るものだった。

「……私には必要ない」

 一瞬の間があった後に呟かれた言葉には頑固とした意志が浮かんでいた。澄んだ蒼の双眸には確固たる自負が漲り、思わず気圧される。

 現在の王家には世継ぎはそれこそローゼただ一人、しかも王権が王妃にあると言えども実質、政治を執っているのはローゼなのだ。それらを見越した上で現にこうしてスパルナという帝国の刺客が王宮に紛れ込んでいるわけだ。

 戦姫という身の上、強烈な自負があるのかもしれないが時にそれが命取りになる。正面からの戦闘では敵なしであろうとも、背後からの奇襲や毒殺、スパルナの十八番である撲殺などの全てを凌げるほどの力量が、戦闘経験絶無の王女様に果たしてあるのだろうか。

 ――自信と慢心は紙一重だ。まあ俺にとっては好都合だがな。

 残虐な胸の内を吐露することなく沈黙を貫くスパルナをローゼは不信がることもなく、ついでとばかりに付け加えた。

「それに、信用ならない他人を傍におけば其奴に寝首を搔かれるかもしれないし、ね。搔かせるつもりは微塵もないけれど。たとえ白虎の戦姫が相手だろうと私の勝利は揺るぎない」

 朱雀王国出身のローゼが青龍公国独特の言い回しを識っているのは意外ではあったが、その後に台詞につい一対の獣耳が鋭敏に反応した。瞬時に眦が鋭くなるのをスパルナは意識することなく、自ずと口から低い声が漏れる。

「それは、勝機を見出している、ということですか?」

「ええ。彼女の咆哮ブレスは確かに強力よ。直撃すれば私でも耐えることは困難ね、けどどんなに高速かつ強烈な攻撃でも当たらなければ意味がない」

 その言葉の裏には自分なら超速の咆哮ブレスを躱して反撃に転じれるという圧倒的な自負と、とにかく滅法強いベルセルクと互角以上に戦えるという慢心じみた自信。

 戦姫と言う存在は味方とて震え上がらぬ兵はいないほどだ。まさに正真正銘の怪物、いくら兵士が束になろうと傷一つ付けられない化け物。神獣化した戦姫に対抗できるのは同じく神獣化した戦姫のみ。

 その知識を頭の隅で反芻するスパルナの感情は沸騰寸前だった。言い方はどうあれ、たった今ローズはベルセルクを見下したのだ。足掛け九年、ベルセルクの部下であり続けているスパルナにとって今の言葉は、発言した当人にその気がなかろうと最大級の売り言葉であった。

 ここはぐっと堪えるべきだと理性が叫ぶ。ここでの反論は自分が帝国の、引いてはベルセルクの回し者だと明かすようなものだ。亡命者という経歴を考慮すれば、ベルセルクを擁護するなど支離滅裂もいいところだ。国を捨てた者が何故戦姫を庇う、と訝しまれてもおかしくはない。

 ――そんなことは百も承知だ。けどな……主君を見くびられて憤りを感じない家臣なんていないんだよ……!

 ここに至り、ついにスパルナの口からボリュームの抑えられた怒鳴り声が迸った。

「……戦闘に携わる者から言わせて頂ければ、姫殿下の今の発言は慢心と言わざるおえません」

「……なに?」

 訝しげな視線を鮮烈に注いでくる蒼の双眸を正面から半ば睨み返す。かすかに犬歯を口から覗かせ、眉根を顰めつつ漆黒の瞳に剣呑な光を宿すスパルナに気圧された様子もなく、ローズは平然とした態度を崩さない。

「単なる力量差で勝敗が決するほど、戦というものは甘くはありません。刹那の判断ミス、先読みや不測の事態に対する適応力、何より自身の力を過信しないことが勝利への第一歩です。油断なくして確実に敵を仕留めるその時まで戦闘の帰趨が決することはありません。朱白戦役の際は帝国のその浅ましき慢心に付け込んだおかげで、王国は息を吹き返した。慢心が戦況を左右することを姫殿下は身を持って体験している筈です」

「…………」

 スパルナの憤激混じりの反論をローズは口を挟むことなく、そして片時も目を逸らすことなく傾聴していた。片や膝を突いて跪き、片や両足を揃えて折って座る二人の間に重苦しく張り詰めた険悪な空気が流れ、ローズの深い青の瞳の色がふっと深まり、広い修練場を照らすライプの光が緊張にたえかねたかのように小さく揺らめく。

 数十秒視線をかち合わせる二人を水を打ったような静寂が包み込む。金髪の王女がその薄い色の唇を小さく動かし、緊迫した空気を破ろうとしたまさにその時。

「頼もーーう!!」

 唐突に野太い声が響き渡り、張り詰めた空気を裂いた。視線を揺るぎなく交錯させた二人は同時にびくりと体を震わせて、ほぼ同時に声の方向に視線を転じる。スパルナが入ってきた正面入口とは正反対の位置にある裏口にその声の主がいた。

 逆光を背負う男は影の塊のようになっており、人を遙かに超える視力を持つスパルナでも顔貌は朧気にしか視認できない。四面の試合場を十字に貫く白板張りの通路を男は大股かつ堂々した足取りで歩いてくる。十字の中心にいたローズの手前で立ち止まると、あろうことかそのまま立ったまま声をかけた。

「よぉ、ローズの嬢ちゃん。稽古場にいるとは珍しいな、嬢ちゃんも鍛錬しに来たのか?」

 飾り気のないぞんざいな言葉遣いで問いを落とした男は、持ち上げた右手で逞しい顎を撫でた。作法もなしに見下されてかつ無遠慮に質問され、挙句にはローズの嬢ちゃんときた。蚊帳の外であるスパルナでもこれには戦慄を禁じ得ない。

 王宮の内部にいるということは、兵士か文官か武官か、それとも宰相か。いずれにせよ無礼極まりない行為であり、首を切り落とされても文句は言えない。あまりに突拍子もない事が突如として起ったため、さしものスパルナも間抜けに口を半開きにして唖然とする。

 突然この場に乱入してきた男を見上げたローズの表情は、スパルナからは見えない。冷徹な雷がいつ落ちるのかと戦々恐々とするスパルナを尻目に、男は泰然と突っ立ったままだ。

「……エドワード」

「なんだ嬢ちゃん? 手合わせなら何時でも大歓迎だぜ」

 相も変わらずローズの声は平坦で喜怒哀楽の区別がつかず、それがさらに恐怖を駆り立てる。一区切りしてからローズは冷淡と続きを口にした。

「汗臭い。井戸で汗を流してきなさい、あと服をきなさい。英雄が半裸で王宮内を彷徨いているなんて知れたら、部下や民に示しがつかないわ」

「固えこと言うなよ、嬢ちゃん。この方が素振りをし易いのよ、まあ剣を振らねぇ嬢ちゃんには理解できねぇ話だけどよ」

 低く錆びているが、よく通る声で飄々と言葉を返した男の胆力は如何ほどのものか。意地の悪い返しにローズは言い返すこともなく押し黙った。その様を愉しそうに、そして何処か物悲しげな顔で見下ろす男は踵を返すと裏口から出て行った。

 常識を覆すようなやり取りを呆然と眺めるスパルナが正気を取り戻したのは、男が言い付け通りに冷たい井戸水で汗を流してちゃんと上半身に衣を羽織り、再びこの場に戻ってきた時だった。



「嬢ちゃんに面と向かってそのようなことを申すとは。坊主、生娘のようだと言って悪かった。お前、なかなか肝の座った男だな。気に入った!」

 十字の中心には錚々たる面子が出揃っている。朱雀王国の王女にして戦姫のローズと、朱白戦役での活躍から英雄と讃えられる機甲兵の一人であるエドワード・グラウ。そして白虎帝国の戦姫ベルセルク配下の内諜部隊に属して、帝国内で暗躍を続け、二年前から王国に潜伏し王女の首を狙う暗殺者であるスパルナ・シュバルツ。

 この三名の内情を知る者がこの三者面談の場面を目撃したら、一体どのような反応を示すのか、とスパルナは頭の片隅でぼんやりと考えつつ目の前の大男を見やる。

 剛毅な相好を崩して呵々大笑するこの男こそ、《阿修羅》・陸戦のエドワードである。朱白戦役の際に陥落寸前だった首都ランスロネットを救済した英雄であり、白虎軍に大打撃を与えた機甲兵。

 青みを帯びた鉄灰色の髪は短く刈り込まれ、その隙間からちょこんと無骨な鹿の角がそそり立っている。口許に刻まれた深い皺は彼らが四十歳を越えている証左であり、そう考えればローゼのことを「嬢ちゃん」と呼ぶのも納得できるが理解はできない。

 ローゼに隣にどっしりと胡座をかいて座るその姿は巌の如き存在感を放ち、ただ相対しているだけなのに気圧されそうになる。そんな大柄の男の隣に平然と座するローゼもまた尋常なる胆力の持ち主と言えよう。

 ローゼは豪快に大笑いにするエドワードをちらりと見やり、諌めるように口を開く。

「エドワード、もう少し口を慎みなさい。見た目で相手の性別を決め付けるなんて愚の骨頂よ。まあ、あなたのその良くも悪くも正直なところは嫌いではないけれど」

「すまんすまん、これがおれの性分なんでなぁ。そこんところは大目に見てやってくれ。それとそんなに褒めても何もでんぞ」

「別に褒めてはいないけれど」

「相変わらず意地っ張りの見栄っ張りだな嬢ちゃんは。まぁ、そこんところも嫌いではないけれど」

 エドワードは横目でローゼを見やりにやりと意地の悪い笑みを頬に刻む。下手くそな声真似をされたローゼは怒りを露わにすることもなく、無表情なままフンと鼻を鳴らしてぷいっと顔を背ける。まるで親子のようなやり取りだった。和やかな空気が先程までの険悪さを霧散させ、穏やかな時間がこの場に流れ始めた。

 確かベルセルク配下の工作員が調べ上げた情報によれば、エドワード・グラウは平民出の兵士だった筈。おまけに半獣人ハーフという身の上を考慮した時、眼前の二人の関係性はかなり親密であるということが判る。身分や人種の差を消し飛ばすほどの関係とはどれほどの月日を費やせば構築できるものなのか、と思索に入り込もうとするスパルナの意識を芯の通った声が引き戻した。

「スパルナ・シュバルツ、と言ったか坊主」

「あ、はい」

「見たところウルフとの混血のようだが、如何に?」

 スパルナの漆黒の長髪を搔き分けて高く尖る獣耳と、白い板張りの床に流れる真っ黒な尻尾をじろりと検分したエドワードが唸るように問う。真剣味を帯びた眼光に気圧されぬようこちらも同様にみつめ返しつつ答える。

「はい、そうですが……」

「母方が人間か?」

「はい……」

「なんと!?」 

 スパルナの覇気のない応答にエドワードは驚愕したように目を剝いた。スパルナは何を驚くことがあるというのかと怪訝な視線をエドワードに飛ばす。当人は一瞬だけ斟酌するように逞しい顎を小さく動かし、くわっと見開かれた両目を細めた後に朗らかな笑みを見せる。

おれもおふくろが人間でな。生まれてこの方、自分と同じ出自の奴と会ったのは初めてでなぁ……。これも何かの縁だ、仲良くしようや」

 嬉々としてそう言うとずいっと目の前に大きな手を差し出して握手を求めてきた。少々面食らったが拒否する理由もないので握り返す。一度がっしりと組み合わせた後に手を離したエドワードは、今度は神妙な顔つきでこちらを見つめる。

 すると如何な逡巡があったのか、エドワードは突然立ち上がるとスパルナを厳然と見下ろした。ローゼとスパルナの訝しげな視線を受けるエドワードは右手に握った長めの木剣を肩に担ぐと、おもむろに口を開く。

「坊主、おれと手合わせをしないか」

「えっ?」

 ローゼが戸惑うような声を小さく漏らした。当のスパルナは真剣さを帯びた顔つきでエドワードを――正確には淡い水色の双眸――をまっすぐに見上げて、その魂胆を見抜こうとする。

「それともおれが怖いか、坊主」

 泰然と立つエドワードはにやっと笑い、担いだ木剣でわざとらしく肩を数回軽く叩く。落とされる視線に込められているのは、これから斬り結ぶであろう相手に対する純粋な興味と、人間社会の中で抑制された闘争を求める獣の本能が湛える熱だ。

 ――ここまで虚仮にされて黙っているとしたら、そいつはもう半獣人ハーフじゃないよな。

 スパルナは傍らに置いた木剣を手に取り立ち上がると、明らかな挑発に微笑で答えた。揶揄でも苦笑でも嘲笑でもない、賛同を意味する本心からの笑み、その真意を悟ったかのようにエドワードも無邪気な微笑を浮かべた。

 男たちの無言の応酬を理解できなかったのだろう、蚊帳の外のローゼは小首を傾げる。それでも立ち合いの気配を呑んだようで、そそくさと壁際の方へ離れていった。一言苦言でも呈してくるかと思っていたスパルナは意外の感に打たれたが、すぐに意識を切り替える。

 両者は南東の試合場まで移動し、黒い板で形作られた正方形の枠線前で立ち止まるとほぼ同時に右拳の手の甲を真上に向けた状態で左胸を軽く叩くという略式礼を行う。そして一歩足を踏み出して枠線を越え、白い横板が埋め込まれた開始線で静止する。

 瞼を下ろして静かに息を吸い、吐いて精神を研ぎ澄ませる。集中の糸がピンと張り詰める久々の心地よさを味わいつつ、ゆっくりと開眼する。相対するエドワードは空いた左手で濃い水色の着物の前で合わせた幅広の帯を無造作に解き、帯を投げ捨てる。そして薄手の衣を脱ぎ、上半身を露わにした途端に試合場から少し距離を置いたローゼが重いため息を吐いた。

 露出した上半身は幾重にもうねる筋肉に包まれ、凄まじく鍛え上げられている。剛健な肉体には無数の傷が走り、それらは全て矢傷や刀傷であることが判る。齢四十を越えている筈なのに、全く弛んでいない腰回りは圧巻の一言だ。

 数多の戦場を駆け抜けた偉丈夫の古の戦神もかくやという立ち姿に、スパルナは目を奪われた。隙だらけのようでいて、一分の隙も見出だせない見事な構えである。迂闊な打ち込みでは一瞬で一本を取られてしまうだろう。

 太い猪首を軽く鳴らしたエドワードは担いだ木剣をゆったりした動作で正中線に構え、こちらをひたと見据える。高い鼻梁に削げた頬、顔立ちを構成する全ての要素に緩みは全くなく、鍛錬の証が如実に表れている。

 スパルナも倣うように基本の中段に木剣を構える。空気が帯電したように張り詰めていく。開いた出入口から吹き抜けた風がランプの炎を揺らす。

 審判はいなかったが、繰り返される互いの呼吸がぴたりと一致した時、双方は同時に床を蹴った。尋常ならざる脚力は風を唸らせつつ刹那の間に彼我の距離を消し飛ばし、最上級素材の白金樫を磨き上げた木剣が空を切り裂く。スパルナのやや突き気味に放たれた縦斬りをエドワードはいとも容易く受け、スパルナは訪れるであろう衝撃に備えた。

 しかし衝撃は殆ど来ることなく、スパルナは愕然と瞠目した。

 エドワード・グラウという巨漢から受ける印象は、豪勇や雄建と言った、とにかく荒々しく猛々しい屈強さだ。それ故に丸太のような上腕から打ち下ろされる剣筋は、剛剣の一言に尽きるものだと思い込んでいたのだ。

 それは誤りだった。

 スパルナの一撃は彼の手首から肩、腰に至るまでが柔らかくしなり、打ち込みを刀身で絶妙に滑らせつつ受け流した。完全に不意を突かれたスパルナは反射的に両足で床を噛み、崩れかけた体勢を安定させようとした。

 しかしそれが仇となった。

 崩しに逆らったが故に、そこに刹那の間が生まれた。この「刹那の間」が致命的だと本能が悟ったが、体は即座に反応してくれない。

 肉薄していた二人の間に、崩しに抗ったことにより次の斬撃を確実に直撃させられるほどの絶妙な間合いが発生した。眼前で水色の双眸が獰猛な光を湛えたとスパルナが意識した瞬間、腹部を途轍もない衝撃が襲った。

「ぐぁっ……!」

 見事な胴抜きを決められたと把握したと同時に、スパルナは苦痛げに掠れた呻き声を漏らして膝から崩れ落ちた――――。



 翌日、ベットから起き上がったスパルナは、腹部の疼痛に思わず顔を苦々しく顰めた。昨日、一本を取られたスパルナはエドワードに渾身のしたり顔を見せつけられ、意固地になって愚直にも再戦を申し出た。

 あの時のスパルナの頭の中には「任務」の文字は存在せず、ただ無性で純粋な悔恨だけが刻まれていた。獣人の血を分けた者の性とも言えるが、スパルナは基本的に私情で動くことのない男であり、唯一の例外は半獣人ハーフの差別や迫害が絡む時のみ。

 今回はその例外に該当しておらず、にも関わらず頭を下げてまで再戦を望んだのは一重にスパルナ・シュバルツという少年が極度の負けず嫌いだったことに他ならない。ここ二年間、出し惜しみをし続け尚且つ苦手な白兵戦を余儀なくされたスパルナの溜まりに溜まった鬱積が、エドワードとの立ち合いをきっかけに爆発したのだった。

 懇願されたエドワードは快諾し、一応ローゼにも承諾を取った。彼女は無表情なまま首肯で同意を示した以降、何度も繰り返される立ち合いをまるで観察するように凝視していた。その瞳に浮かんでいるのは純粋な好奇心ではなく、冷たさを帯びた学術的興味なのではないかと推測したが、真実は分からずじまいである。

 汗水垂らして息を荒らげながら幾度となく取り行われた非公式の立ち合いの結果は、スパルナの完敗だった。一度たりともエドワードから一本を取ることができず、ひたすらに腹などに剛剣を打ち込まれ、時に木剣を弾かれ一度は叩き折られもした。

 久々に全身の疼痛やらに苛まれることとなったスパルナの心境は実に清々しかった。あれほどまで血沸き肉踊る戦闘など、帝国にいた頃でも経験したことはない。血が滾るような戦闘の余韻のせいで、スパルナは珍しく寝付きが悪く布団に潜り込んでからも輾転反側し続けた。

 おかげで寝不足気味なのだが、今だに気持ちが高揚しているため眠気など吹っ飛んでいる。例の如く相部屋に同居人たちの姿が見えない中、スパルナは高く尖る漆黒の獣耳をぴくぴくと震わせながら意気揚々と隊舎を後にしたのだった。



 今日も今日とて木剣での立ち合いである。艶のある銀色の総髪を固めたクライト・ザリエルや緩く波打つ金髪を背中まで長く垂らしたレーヴェ・ヘッセンと言った貴族連中が貼り付けた底意地の悪い笑みは、今日はさほど気にも留めなかった。

 むしろレーヴェの金髪を見て、頭の中でローゼの潤いと光沢のある金色の髪を想起させていた。同じ金色でも雲泥の差があり、歌声のみならず髪にも賛辞を送れば良かったと残念がる余裕があるほどだ。

 恍惚さを滲ませる思考に耽るスパルナの意識を、八時半を知らせる時告げの鐘の音が引き戻す。相当に広くて細く短い下草に覆われた練兵場に集合する多数の新兵たちは二人一組になり、十メートルほどの距離を置くと無言で相対する。

 いつもは惰性で木剣を抜くスパルナであるが、今日は昨日の戦闘に感化されて気合十分に左腰のホルスターから木剣を引き抜く。深い呼吸を繰り返すことで集中を高めていき、教官役の壮年兵士の号令と同時に踏み込もうとしたその時。

「スパルナ・シュバルツはおるか!! いたら返事をせい!!」

 空気を鳴動させるほどの胴間声が広い練兵場に響き渡り、緊張感を内包した静寂が瞬く間にぶち壊された。思わずつんのめってしまったスパルナは、聞き覚えのある声に弾かれたように振り向く。その視線の先には案の定あの男の姿があり、スパルナを除く教官を含めた新兵全員が呆気に取られたように目を丸くしている。

 一瞬の奇妙な間があった。再び別の意味で静まり返る練兵場をエドワードの芯の通った大声が貫く。

「おらんのか、スパルナぁ!! おれは王女の勅命でこの場に参った、故に力づくでも貴様を連れてゆくぞ! 我が剣の元に沈みたくなければさっさと出てこんかッ!!」

 子供を叱りつける親のような口調で怒鳴るエドワードに、さしものスパルナも恐れをなして爆発的な踏み込みで一気に彼我の距離を詰めて、かすかに怒り心頭と言った様子のエドワードの前方で地面を踏み締め急制動をかけて停止し、直立不動になる。「は、参りまし――」

「呼ばれたらすぐにこんかい!」

 近距離で怒号を放つエドワードは、猛烈な勢いでバシンとスパルナの背中を叩いた。少々油断していたスパルナは軽く飛び上がり、かすかに獣耳を畳んでしゅんとする。

 そんなスパルナの挙動を意に介した風もなく、ふんと鼻息を吹くエドワードは大きな掌に収まる羊皮紙を差し出してきた。訳がわからないスパルナであったが、怖ず怖ずと受け取って内容を確認し――驚愕に見舞われて両目をこれでもかと見開いた。

 上質な紙面に記されていたのは、王室からの勅令。

 今日を持ってスパルナ・シュバルツを王宮広場の守護する衛士から解任、ローゼ・ゴルト・ラオプフォーゲルの護衛役に任じる。そのような旨の内容が端正な文字で書かれていた。

 驚き冷めやらぬ状態のスパルナはぎこちなく紙面から顔を上げ、それにエドワードが陽気な笑みで応じた。

「坊主、王女をよろしく頼むぞ」

「は……はい……」

 気の抜けた返事をなんとか絞り出すスパルナであった。

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