鋼鉄の荊
王暦八九〇年、十二の月。「朱白戦役」の休戦から一ヶ月後。スパルナ・シュバルツは白虎の戦姫であるベルセルク・アルジェントより暗殺任務を通達される。標的は朱雀の戦姫、ローゼ・ゴルト・ラオプフォーゲル。朱雀王国の王女、年齢は十五、朱雀の約九〇〇年における歴史において王族の中から戦姫が出ることは史上初であるそうだ。
戦姫とは――古来から国の守り神とされる神獣に選出された者を指す。その選出基準はベルセルク曰く、『その者の人格云々。その者が持つ愛情の深さが基準の五割を占め、残りはただの気まぐれ』らしい。神様と言うのは、実にいい加減な性格をしているようだ、と当時わずか八才のスパルナはぼんやりと思った。
そんな裁定基準ではあるが、朱雀・白虎・青龍・玄武全ての歴史において戦姫による私利私欲に塗れた残虐な殺戮行為が実行された経歴が皆無なことから、神様も考えなしに戦姫を選んではいないらしい。
ちなみに、栄光ある戦姫に選出された者は類も漏れず全員女性であるらしく、これが戦姫という呼称に繋がっていると思われる。神様は助平な奴なのだろう。
ともあれ、暗殺任務を承ったスパルナは情勢という名の大きな問題に直面していた。時は戦争の休戦からわずか一ヶ月、国境を跨いでの潜入は困難を極める。そこでベルセルクが打ち出した策謀は安直にして堅実的であった。
亡命者に身を扮して潜入する、ただこれだけである。
「朱白戦役」は当初こそ白虎軍の優勢であったが、虎の子の機甲兵部隊が実戦投入されてからは攻守が入れ替わり、朱雀軍に戦況が傾いていった。最終的に国境付近まで白虎軍は戦線を撤退させ、この際に戦場となった国境の集落から少数の亡命者が発生した。
この亡命者の多発は休戦後の今日日に至っても後を絶たない。休戦したからと言って戦場となった村々がすぐに復興するわけもなく、食料不足で食い扶持を養えない住民らが他国に逃亡するのは自明の理だった。朱雀側も亡命者を積極的に受け入れるだけの度量を持ち合わせていたため、尚の事である。
朱雀王国に内諜部隊の下部組織に属する工作員を数人すでに潜入させていたこともあって、準備は万端だった。国境越えと言うのは両国に協力者がいて初めて成立する、以上の事実を踏まえた上で最善の潜入方法であると決定したベルセルクの任により十二の月の後半、スパルナは敵国であった朱雀王国に潜入した。
見窄らしい格好に差別対象である半獣人の身の上などを合わせて同情を誘い、事も無げに潜入を成功させたスパルナは協力者と会合して今後の方針を検討し合った。朱雀王国に数年滞在している協力者の人間から内情を聞かされて、その内容に思わず深いため息を吐いた。
朱雀王国では半獣人に市民権がないらしく、これは白虎帝国と同様である。つまり半獣人・獣人などを含む亜人全般には人権がないということだ。覚悟していたこととは言え、やはり嫌な気分にさせられた。
ただし、軍に入隊して一定期間を軍人として働けば市民権が交付される、という情報を聞いてなんとか溜飲を下げた。つまるところ、軍役に就くのが任務達成のための第一関門ということだ。
だが、ただ軍に入るだけでは何時まで経っても最高権力者である王女の元には辿り着けないという旨を伝えると協力者の男は、待ってましたと言わんばかりに講釈を垂れた。
国境付近にある亡命者を養う施設から西に数十キロ行ったところに士官学校なるものがあるらしい。意味を尋ねるスパルナに男は勉強を教える施設だと伝えた。白虎帝国では勉強、というのは貴族連中が個別で享受できる恩恵であるため、学校は存在しないのだ。
平民であるスパルナは帝国の重鎮である戦姫ベルセルクから勉強を教わった。それ以外で平民が勉学に励む方法は、スパルナが孤児院で実践していたような簡易的な方法しかない。
兎にも角にも、その士官学校の厳しい入学試験を合格して入校しなければならない。そして二年間の修業課程の中で最高の成績を修める。そうすれば王城の仕える兵士という高位な立場に就業できることができる。これが任務達成の一番の近道という結論に至ったスパルナは協力者に師事して二ヶ月間、言語や知識などの生活に必要不可欠な情報を頭にみっちり叩き込んだ。
二ヶ月後、スパルナは白亜の大理石で造られた高さ五メートルの塀に囲われた高等士官学校の門を叩いた。半獣人の身の上であるため、試験日は内心で戦々恐々としていたが幸いにも身分や種族などで評価を下げられることはなく、定員二百名で倍率が五倍の難関をなんとかクリアした。
王国軍中央基地付属、高等士官学校。王都ランスロネットから東に五十キロ行ったところにある高い塀に囲まれた市都イスカーノにある訓練施設だ。 「朱白戦役」の戦績から反省した王国は、現在志願兵制度を採っており平時から広大な敷地内にはおよそ五千人を超える専業軍人が常駐している。
座学から始まりマラソン、アスレチック、白兵術、射撃術、集団行動などの基礎教練を教官のシゴキの元で二年間に費やす。馬鹿みたいに走らされて、理不尽な理由で罵倒されて叱責されて、耳にタコができるほど説教を聞かされる。一般人から軍人になるための通過儀礼、それらの過程の中で優秀な成績を叩き出した上位の二十人が、王城仕えの衛兵試験の受験資格を得ることができる。
首尾よく高等士官学校に潜り込んだスパルナは元々記憶力が高く、また勉強を好んでいたことも相まって座学で好成績を修め続けた。野外での訓練においても半獣人の膂力と内諜部隊で培われた戦闘経験などを活かして上位に食い込んでいた。
どんな身分だろうと規則の上では扱いに殆ど差異はなかったのだが、やはり有形無形の差別は存在する。白虎帝国からの亡命者という経歴もあって周囲から好奇の目で見られたこともあった。成績優秀ということもあり、スパルナは当然の如く羨望や憧憬、嫉妬などの剝き出しの感情をぶつけられた。元々入学者の半分以上が貴族で、残りは平民で構成されていたのだが、その中でも半獣人は全体の一割にも満たないこともあって、尚の事良くも悪くも注目された。
貴族連中からの悪質な嫌がらせ、幼稚ないたずらなどを意に介さずスパルナは二年間の修業過程を終えた。成績は二十位中の十二位だ。これ以上の注目は任務の弊害と成り得ると判断したスパルナは、卒業試験で敢えて手を抜いてこの可もなく不可もなしの順位に落ち着いた。無闇に目立つ必要性は皆無だった。
こうして二年間はそれこそ光陰矢の如し早さで過ぎ去っていった――――。
王暦八九三年、三の月。王城の衛兵に就職してから一週間が経過した。
茫漠とした広大さを誇る王城の敷地内に春の暖かな日差しが降り注ぎ、白虎帝国にも存在する時告げの鐘が朝の八時を知らせる。スパルナは王宮内の硬く丈の短い芝生を踏み締めながら練兵場へと向かっていた。
麗らかな日光と吹き抜ける微風が眠気を誘い、思わず欠伸を一つ。
振り仰いだ先には抜けるような蒼が広がり、壮観の一言に尽きる。視線を右斜め下に滑らせると、そこには白亜の大理石で構築されたおよそ二十メートルの城壁が聳え立っている。そして左方に視線を転じれば、今度は十メートルの純白の塀が存在感を放つ。
王都の中心でその威容を誇示するシュラウス城は、二段構えで賊の侵入を拒む構造をしている。潜入しようにもまず第一に高さ十メートルのほぼ垂直に聳える塀を越えねばならず、人間では到底登って超えることは不可能である。
ならば亜人、スパルナのような半獣人ならどうか。これもかなり厳しい。石壁の僅かな間隙に爪を突き立てクライミングしたとしても、九メートル付近に鼠返しのような壁がせり出ているため、並みの半獣人では力尽きてそのまま落っこちるかその前に衛兵に発見されて良くて牢獄行き、悪くてその場で射殺されるかのどちらかだ。
仮にこの関門を突破したとしよう。次に立ち塞がるのは高さ二十メートルの城壁だ(もちろん鼠返し付き)。夜間に忍び込み、ぞっとするほどの多数の衛兵の哨戒を搔い潜り城壁にへばり付くことに成功したとする。
しかし今度の相手は高塀の倍の高さを誇り、同様の方法で登ったとしても二十メートルの巨大な壁はスパルナでも相当に厳しい。強烈な横風に煽られながら命綱もなく、城壁のあちこちに空いた一辺一メートル四方の覗き穴から時折顔を覗かせる衛兵の監視を逃れる。
想像しただけで背筋に悪寒が走ると言うものだ。正直言ってほぼ不可能と言わざる負えない。とにかく現実的な作戦ではないことは確かだ。スパルナ自身それを見越した上で、二年の歳月を費やすという建設的な案を採用したわけだが。
畏怖すら感じさせる高塀と城壁を見上げていると、遂にここまで来たのだと言う感慨が胸中でじんわりと広がる。改めて考えてみても今回の任務は実に大掛かり極まりない。だがそれも致し方ない、今回の標的は王国の最高権力者にして最強の戦姫なのだ。
――未だに王女の姿を肉眼で認めたことはないが、それも時間の問題だろう。彼女の暗殺……これを果たせば俺はあの辛く苦しい鬱積に苛まれることもなくなり、それと同時に我が主の野望の達成に尽力するという恩返しもできる。まさに一石二鳥ではないか。
仄暗い笑みを口の端に浮かべて、漆黒の瞳をかすかに輝かせた。珍しく醜悪な傲慢さを発露させるスパルナの背後から、刺々しい声が響いた。
「……いやはやまったく羨ましい限りでありますなぁ、レーヴェ殿!」
暗い感情を滲ませる耳障りな声音に思わずげんなりとした顔つきになる。
「剣の腕がからっきしの平民出が栄光ある王城内を闊歩できる時世になるとは。これはエドワード殿と王女殿下に永遠の忠誠を誓わねばなりませんなぁ。それなのに安息日にやることと言えば徒食と昼寝、剣の稽古に時間を費やす気は皆無なのでしょうな!」
聞こえよがしに放たれる台詞に、これまた横柄さを滲ませる別の声が応じる。
「ふっ、そう言ってやるなクライト。誇り高き半獣人の白民のその生活スタイルは今に始まったことではない、故にそう喧しく言うことではないよ。怠惰に過ごしているように見えるが、もしやすれば我々が知らぬ青龍の鍛錬方法なのかもしれないぞ」
わざとらしい悪意に満ちた応酬に軽蔑を通り越して呆れてしまう。よくもまあ、すらすらと批判の言葉が出てくるものだ。彼らの修辞の効いた嫌味は今に始まったことではないので、怒りも湧いてこない。
安息日、とは週に一度ある休息日のことでこの日は平民や貴族、人間や亜人を問わず皆があらゆる仕事を休むことのできる日、というより休むことを強制させられる日なのだ。元々は白虎帝国の信仰する神々が人間を創りたもうた日とされ、帝国でもこの日ばかりは種族や身分に関係なく皆に休息が与えられていた。
つまりこの安息日という制度は帝国独自の文化であり、王国がこれを模倣して法律化したのだ。敵国の制度を倣って実施する、ということで内閣に非難が集中したがそれもすぐに沈静化した。
理由は二つあり、一つは平民や一部の貴族から圧倒的な支持を受けた政策であったからだ。平民は日夜農場の刈り入れ、家畜の世話に畑の耕作などに従事し、一部の貴族も私領地の統治に追われて文字通り休む暇もなかったからだ。休憩もなく作業に従事して効率を落とすくらいなら、週に一度休息のための日を設けて効率向上を図るべきだと言うことは誰もが思慮するところだった。
もう一つの理由は、政治体制にある。「朱白戦役」の折に戦姫ベルセルク・アルジェントは第十七代国王ウルフサルク・I・クップファーに対し、二つの条件を要求したわけだが実はこの時、名指しで要求を迫られた当人は王城はおろか王国領内に存在しなかったのだ。
敵前逃亡、他国に亡命。それが前国王の最大にして最悪の戦犯だった。彼は凄まじい速さで進軍する白虎南方軍に恐れをなして国外に逃亡、全ての民と国土を捨てたのだ。
「朱白戦役」以前の政治体制は専横政治、つまり国王の鶴の一声で行政の大部分が決定しまう。前国王は傍若無人、唯我独尊、傲岸不遜の三拍子が揃う男で行政を検討する貴族議会も有名無実化し、政治そのものが私物化に近い状態にあったと座学で学んだ。
現在の政治は有力貴族で構成される貴族議会の元、王女や宰相が中心となって随分とまともになっている。皮肉にも戦争のおかげで腐敗した政治を立て直すことができたのだった。
背後でぐちぐちと嫌味たらしく続く口上を聞き流しつつ、スパルナは気を紛らわすように髪を撫で付ける。黒い髪というのは青龍公国出身者によく見られ、先程の悪口もこれから起因しているわけだが、故郷が風評被害を受けるのはさすがに苛立つ。しかしここで反論してしまえば奴らの思う壺であるため、拳に力を込めるまでに留める。
貴族が全て背後の彼らのように下賤な輩ばかりというわけではなく、中には人品高潔な人間もいるのは承知している。とは言え、むかむか来るのまでは止められない。
わずかに眉根を寄せるスパルナの背後で、品のない忍び笑いが漏れ出る。
「レーヴェ殿、とある話を小耳に挟みましてな。近々『鋼鉄の荊』が我ら新兵の訓練の視察に参られるようです」
「その話なら私も聞いたよ、クライト。成り上がりの王女様に我らの練度が如何ほどか分かるとは思えないが……」
小声で会話をしている二人だが、スパルナの獣耳にははっきりと聞こえていた。現在の王国の実権を握っているのは王妃であるのだが、彼女が政治を執れるような状態ではないため、代理として王女が政治の中心に鎮座している。
大国からの国土侵略行為に国王の逃亡、こうも悪いことが重なれば精神が病んでしまうのも宜なるかな。愛する夫に捨てられれば王妃でなかろうと悲しみに暮れることだろう。
崩壊しかけた王国を救い、二年という短い間である程度まで復興させた王女には不名誉な異名が付けられ、これは王宮の外にまで浸透しているらしかった。
鋼鉄のような鉄仮面と荊の如く刺々しい雰囲気を纏う王女を揶揄する二つ名である。そんな呼び名をあろうことか下臣が口にしている、この事実をスパルナは理解できなかった。云わばベルセルクの悪口を本人の居城で発言するようなものである。
――下郎が。
内心で吐き捨てるように呟いたスパルナの歩調は自然と速まり、胸くそ悪さを振り払うように頭を左右に振る。そして足早に練兵場に向かった。
「スパルナぁッ!! 腰を入れろ、腰を! 貴様ぁ、よくその程度で名誉ある王宮衛士になれたものだなぁ!! 剣もまともに振れん奴は軍に必要ないのだ! 半獣人の意地を見せてみろぉ!!」
細く短い下草が密に生え揃った練兵場で総勢十五名の新兵たちが木剣を用いた白兵戦術の訓練に励んでいる。練兵場は高塀と城壁の間にある空間、通称「中庭」と呼ばれる場所にあり、ここで毎日のように新兵たちの訓練が行われている。
無精ひげを生やした大柄の男は、平時は上役の護衛を勤めているのだが今日はいつも新兵の教官役を担当している近衛兵隊の隊長が別件で外しているため、彼が代理で教練に当たっている。
大男にどやされたスパルナは腹の底から声を出して応え、再び木剣を正中線に構える。五メートルほどの距離を置いて相対する長身痩躯の男は、卒業試験の成績は十五位だった。だがしかし優勢は痩躯の男の方である。
普通に考えれば膂力で勝るスパルナが劣勢になるなど有り得ないことなのだが、現に今スパルナは後方に飛び退って相手の間合いからなんとか外れたところだった。
元々剣の扱いを不得手としていると言うこともあるが、理由はもう一つある。力の入れ加減が難しいのだ、剣という武器は特に。なまじ剣なんて学校に入るまで使ったことがなかったし、力加減を違えて在学中の白兵訓練で何度も相手の腕やら手首やらの骨を折ったりしていた。
スパルナにとって戦闘とは拳や脚で一撃の元に敵を沈めるのが基本であり、刃物は精々相手を牽制したり一瞬だけ相手の気を逸してその瞬間に間合いを詰める、といった程度でしか使用しない。
それでも二年間、木剣を扱ってきているので慣れてはいるのだが、それでも上手く扱えずにいる。これはひとえに剣術の適性が低いということになるのだが、戦闘面に関しての自負がそれなりにあるスパルナはその事実に納得できない。かと言って本気を出したら卒業試験の結果や受験時の試験結果との差異が看過できないほどに大きすぎて怪しまれる可能性がある。
そういった葛藤があるせいで尚の事、ここ一週間の戦績は芳しくなかった。必要以上に目立っては行動が制限されてしまう、だが不本意な罵倒や同期からの嘲弄の視線は不愉快で今すぐにでも払拭したいという歯痒さを抱えながら、スパルナは相手の剣先を体を捻って躱しつつ、木剣の剣尖を痩身の男の腹部に叩き込んでなんとか一本を取るのだった――――。