暗殺任務
市街の高台に設えられた「時告げの鐘」の重厚な音色が少年の耳に届いた。この鐘は三十分おきに時刻を知らせるので、現時刻は五時三十分、天井近くの壁に埋め込まれた窓からは紺色に染まる暮れゆく空が見え、少年は視線を正面に戻す。
差し渡し三十メートル、奥行き四十メートルはある倉庫の入り口付近に、部隊の制服に身を包んだ少年は立っていた。この場所は数年前まで貴族の私領地内の穀倉であったが、今では反体制派の拠点となっている。
その証拠に倉庫内は幾重にもひしめく人波で雑然としており、その数は三十人にも上る。彼らは一様に少年を睨み付け、その頬に軽薄な笑みを刻んでいる。
少年は斉射される刺々しい視線を意に介すこともなく、泰然と奥に進む。ちょうど中間地点に差し掛かったところで少年は止まって、自分を呼び出した彼らの頭領に声を投げかける。
「約束通り一人で来たぞ、アシュルド。さあ、早く人質を解放しろ」
壁際にある木箱に腰掛け、少年を値踏みするように睨むアシュルドという男はくくく、と喉の奥で嗤うと敵意を剝き出しにした口調で言葉を返した。
「その前に武器を全部捨てな。……妙な真似したら、こいつの喉元を搔っ切るぞ」
そう脅迫しつつ抜き身の長剣を隣に座る一人の男の喉元に突き付ける。男は鈍色に光る刀身を前にしてか細い悲鳴を上げて、少年に縋るような視線を送る。男は少年と同じ様式の制服の上から真っ赤な縄で幾重にも縛られて、身動きがとれないようにされている。
少年は小さく頷き腰に付けた革製のホルダーから短剣を抜くと、ゆっくりと地面に置く。そこにアシュルドの声が続く。
「蹴飛ばせ」
冷たい声音で再度命令された少年は素直に愛剣を蹴飛ばす。緊迫感の滲む空間に短剣の地面を滑る硬質な音が大きく響き、蹴りつけられた短剣はアシュルドの仲間の一人に徴収された。
「得物は短剣一本か。噂通りの肉体派か……戦姫の誇る暗殺部隊のトップ様がガキでしかも『半獣人』とはな。まったくお笑いだ」
嘲笑するアシュルドに追従するように少年を取り囲む部下たちも下品な笑い声を響かせる。聞き慣れた常套句なので、少年の心にはさざ波一つ立つことはなく、無表情を貫く。この程度の罵倒は聞き飽きたし、それに少年は自分のことには妙に無頓着な部分があるので尚の事気にしない。
「要求には従ったぞ。人質を返せ、アシュルド」
「そんなに返してほしけりゃ、力づくで取り返すんだな。お前ら、可愛がってやりな」
その言葉を合図に少年をみっちり囲む部下たちはじりじりと包囲網を狭めていく。少年もまた周囲に視線を走らせつつ身構える。長剣、曲剣、細剣、斧、槍などあらゆる武器を手にした子分たちの内の一人が吠える。
「ウラァ!」
猛然と突っ込む長身痩躯の男は長剣を振りかぶると、地面を踏みしめて前斬りを繰り出してくる。少年はその鈍色の刀身を注視しながら滑るように後退して、なおかつ身体を捻る。
鋭利な切っ先は空気を切るだけで終わり、少年は追撃される前に素早く踏み込んで男の懐に潜り込み、斜め下から掌打を打ち込む。
男が空中に吹っ飛ぶ一瞬後に少年は跳躍し、男の真上を取ると容赦なく右脚を振り上げて鉄槌の如き踵落としを打ち下ろす。骨の軋む陰惨な音と男の苦痛げな割れた声の直後に男の身体は地面に叩き付けられ、受け身も取れずに後頭部を打ち付けた男は昏倒した。
この間僅か三秒、再び静寂が倉庫内に満ちてアシュルドとその配下たちは唖然としたように呆けた顔を見せる。しかしそれもほんの数秒、怒号を皮切りに残存勢力およそ三十名が一斉に一人の少年に殺到する。
少年は多対一の状況に怯むどころか、さらに神経を研ぎ澄ませて彼らを冷静に迎撃する。迫り来る切っ先を余裕を持って躱し、突撃を仕掛けてくる敵はいなしてがら空きの腹部に膝蹴りをぶち込む。
叫声や咆哮が飛び交い、乱戦の様相を呈する戦場の中心にいる少年はひたすらに敵の斬撃を回避して、その度にカウンターの一撃で着実に相手を沈めていく。
刺突を矢継ぎ早に放つ敵の剣先を体勢を低くして躱し、半円を描く足払いで敵の体勢を崩すとそこに肩口からの体当たりを仕掛けて、相手が怯んだその瞬間に急所である股間に拳打を捻じ込んで戦闘不能にする。
その時背後から斬りかかってきた敵を振り向きざまの裏拳で顎を強打して黙らせ、気合を迸らせて壁となって迫る敵を巧みに弧を描くステップで回避し、瞬時に敵の死界に回り込むとそのがら空きの背中を蹴り飛ばして転倒させ、起き上がる前に側頭部を蹴り飛ばして気絶させる。
少年はその身一つで武器を持つ敵勢を圧倒し、確実に戦力を削り取っていく。ものの数分で敵の数はその半分以下まで減り、敵方が息を切らせる中で少年は殆ど息を乱すことなく組み合う大柄の男の鳩尾に拳を放つ。
そこに体軀が二メートルを超える巨漢が小柄な少年に向けて渾身の右を放つ。気絶した男を放り捨てた少年は素早く身体を翻すと、迫り来る拳打に合わせるように自分の右拳を繰り出す。重心を落としてかつ足を踏み締めて放たれた少年の拳が浅黒く無骨な拳と正面から衝突する。
空気が弾け、衝撃波じみたものが周囲に拡散して少年の前髪を揺らす。数瞬、硬直状態になった二人は真っ直ぐに拳を突き合わせたまま睨み合い、そして少年の薄い唇が言葉を刻む。
「半獣人を舐めるな」
巨漢が左手の曲刀を斬り下ろした。その挙動を予測していた少年は容易くその刃を躱すと、流れるように懐に飛び込んでそのでかい腹部に飛び膝蹴りを打ち込む。言葉を詰まらせる巨漢を気にせず追撃としてその顔面に右フックをお見舞いした。
吹っ飛ぶ巨漢に巻き込まれて転倒する敵方を冷淡に見詰めて少年は駆ける。どちらが劣勢なのかは自明の理であった。
「あとはアシュルド、貴様一人だ」
淡々と宣告する少年の周囲には地面に仰臥もしくは伏臥する連中。一様に意識はなく完全に無力化されており、数秒前の喧騒が嘘のように倉庫内は水を打ったような静寂に支配されている。
三メートルほどの距離を置いて相対した少年は、抑揚の薄い声で忠告した。この程度の距離は少年の間合いであるのを先程までの戦闘もとい殲滅戦で思い知らされていたアシュルドは口元を微かに戦慄かせた。だが、はっと正気を取り戻したように目を見開くと、右手に握る長剣を人質の首元に突き付けて喚く。
「動くなよ。こいつがどうなっても――」
「愚かな」
一瞬で間合いを詰めた少年は裏拳でアシュルドの顎を殴り払う。脳震盪を引き起こされたアシュルドは糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちて、沈黙した。その様子を唖然と見守っていた人質に少年は近付くと、縄を解いてやって無理矢理立たせる。
立ち眩みがしたのか人質の男は一瞬たたらを踏むが、すぐに持ち直してその緊張した表情を安堵したように弛緩させる。
「助かった。ありが――」
少年の鋭い拳打が若年の男の腹部に突き刺さった。悲痛げに顔を歪めた男は膝を折って激しく喘ぐ。その姿を冷淡に見下ろす少年は打って変わって芯の通った声を響かせる。
「制圧完了だ。もう出てきていいぞ」
倉庫の外まで漏れる声が反響してから数秒後、倉庫の入り口から怖ず怖ずと二人の子供が入ってきた。幼い少女は兄である少年の影に隠れておっかなびっくりした足取り、兄である少年は怯える妹を庇うように慎重に歩を進め時折周囲に視線を飛ばす。倒れる男連中が不意打ちをかけてこないか懸念しているようだ。
「……スパルナ……。これは、どういうことだ……?」
片膝を突いて嗄れた声を漏らす男を、スパルナは冷酷に見詰める。
「どういうこと、だと? 白を切るなよ、カーペント」
その漆黒の双眸には深い軽蔑の色が滲み、憤怒を抑止された低い声音は悍ましく、スパルナの背後にいる兄妹がびくりと身体を竦ませる。対してカーペントは肩を震わせてぎこちなく首を傾げる。
「何のことか、分からないな。お前は俺を助けに来たのではなかったのか?」
「俺の任務はここを根城にした反体制派組織の壊滅及び……裏切り者の処分だ」
表情を凍り付かせたカーペントを強引に立ち上がらせて勢い良く突き放す。後方の石壁にしたたかに背中を打ち付けたカーペントは驚愕したように両目を剝いていたが、すぐに回避行動に移ろうとしたのは流石の一言だ。しかしその動きは半獣人であるスパルナには余りにも遅すぎた。
何の気負いもなく踏み込まれた左足は地面を甲高く叩き、予備動作なしに繰り出された掌打は、カーペントの胸部に触れた瞬間に陰惨な音と共に胸部を陥没させる。人体を破壊することを目的としたこの技は、強烈な衝撃を伴って最適角で胸筋を経由して肋骨をへし折り、折れた肋骨が心臓に突き刺さり、即死に至る。
カーペントは一度電撃に打たれたように肢体を大きく震わせると、千鳥足となって足をもつれさせ、さらにその歪んだ口元から一筋の鮮血を零しつつ前のめりに倒れ伏した。
背後の兄妹が自分の身体に阻害されて惨劇を見ずに済んだのが唯一の救いか、と思いつつもいくら激情に駆られていたとは言え、配慮が足りなかったと内心で後悔と反省をするスパルナは、倒れ込んできたカーペントを抱き留めることを考えもしなかった。
何故ならば眼下にあるのは仲間ではなく、ただの肉塊であることをスパルナは理解していたからだ。処分を終えたスパルナは踵を返して何が起きたか理解できていない様子の兄妹を連れて倉庫を後にした――――。
絨毯の敷かれた廊下は足音を吸収することで、夜の静謐を守る役割を果たしていた。時刻は夜の十二時を回った頃で、漆黒の制服を着たスパルナは薄暗い廊下を歩いている。硝子の大窓が白塗りの壁に等間隔に設えられた廊下は、窓から差し込む月明かりのおかげで歩くのには苦労しない。
悠然と歩むスパルナはふと一枚の窓で立ち止まる。窓の方に顔を向けて視線を上げれば、そこには澄んだ夜空と青白い月が浮かんでおり、思わず目を奪われて魅入ってしまう。数十秒ひたすらに夜天を見上げたスパルナは、綺麗に磨かれた窓に映る自分の顔を凝視した。
頭頂部から肩甲骨まで流れる漆黒の髪に縁取られた顔貌は、一見では女に見えないこともないほど線が細い。長めの前髪の下には柔弱そうな双眸、そこに小さめな鼻と色の薄い唇が続く。そして何よりも目を引くのは、髪の間からピンと飛び出る同色の一対の獣の耳だ。
そこまで見て取ったところで胸の内から忌避が湧いてきて、思わず顔を歪めてしまう。スパルナが理想とする精悍な顔立ちには程遠く、現在進行形で忌避して止まない顔がそこにはあった。
幼少の頃から「女男」「卑しい半獣人」と周囲の人間から軽蔑されてきたスパルナは生まれはともかく、自分のこの顔だけはどうしても好きになれなかった。幾度目かも分からぬ自己嫌悪に細長い息を吐きつつ、艶のある長髪を撫で付ける。
この髪もまた差別の対象となり、何度かばっさり切ってしまおうと考えもしたが、結局今まで実行できずにいる。別段、髪に愛着があるというわけではない。ただ、幼い頃に今は亡き母が綺麗だと褒めてくれたから。あと、主君である彼女が好きだと言ってくれたからだ。
スパルナはもう一度美しい夜空を見上げてから、歩みを再開した。何度と
なく角を曲がり、階段を上って数分した頃、スパルナは最上階の目的地へと到着した。目の前の分厚い扉は無表情に固く閉ざされ、その純白の表面には威容を示すかのような幾何学模様が彫り込まれている。
スパルナは居住まいを正すと一度静かに深呼吸してから、握り締めた拳の甲で扉を叩く。
「……………………」
いくら待っても返事はこなかった。この沈黙が入室許可の証だと言うことを知っているスパルナは、ゆっくりと扉を押し広げた。作法通りに頭を垂れたまま入室したスパルナの視界にまず入ったのは、精密な模様が編み込まれて毛足が異様に長い深紅の絨毯だった。
視線を僅かに上向けると、少し離れたところに人影を認めた。スパルナとそう年も変わらない一人の少年は、床に片膝を突いて跪いて頭を下げている。スパルナはその少年の隣に倣って跪く。
部屋の壁には金色の柱が等間隔に並び、その間に巨大な硝子板が嵌め込まれており、壁と言うよりも連続した窓と表現するべきだろう。透明な硝子の先には満天の星空と白く冴えた月がぽっかりと浮かんでいる。帝室でさえ貴重で高価な硝子をこれほどふんだんに使ってはいなかろう。
静寂の中に自分と右隣の少年の息遣いだけが響く。その静けさを唐突に軽い音が破った。それは敷布を払い退ける音であり、人間の耳ではぎりぎり聞こえるくらいの音量であったが、スパルナの獣耳は明敏に聞き取った。
続いてごくかすかな息遣い、おそらくあくびの音が聞こえてこの部屋の主が眠りから目覚めたことを悟る。またしばらく沈黙が続くかと思いきや、予想より早く部屋の主は第一声を発した。
「……ルナ。帰ってきたら頭を下げるより先にすることがあるんじゃないの」
ルナ、というのはスパルナの愛称であり、現在から過去に至るまで母親と主君だけがそう呼ぶ。それが親愛の証かと思われるのは当然と言えるわけで、右隣から嫉妬を滲ませたごく小音の舌打ちが聞こえた。スパルナはそれを受け流しつつ、返答をする。
「……今、戻りました。ベルセルク様」
「よろしい。次にまた、私から催促させるようなことがあったら……お仕置きよ」
密やかな笑いを滲ませる声に、本気の色合いは薄い。冗談であることは明白であるが、スパルナの隣に跪く少年が緊張に体を張り詰めたことが雰囲気で伝わった。隣の彼は本気の意味で解釈したらしい。
「では、任務の報告をお願い」
「は、御心のままに。端的に申し上げますと、頭領であるアシュルドを殺害。他の戦闘員は気絶または失神させてから事後処理班の方々に一任致しました。組織は壊滅、残存勢力は僅かながらまだ白虎領内に潜伏しているでしょうが、少なくとも報復に打って出る余力はないと思われます。また処理目標の男も処分致しました。以上です」
「ご苦労様。相も変わらず仕事が早くて助かるわ。頑張ったご褒美に何かをあげないとね…………ルナ、何か望みはある?」
少々黙考するように黙り込んだベルセルクは、優しく問いかけてきた。鷹揚さを滲ませる声色にスパルナは思わず恐縮してしまう。
「い、いえ。そんな恐れ多い。望むことなど何も――――」
「ヘルシング様。無礼を承知で、発言をお許し頂きたいのですが……」
少々慌てるスパルナの隣で跪く男、シエサルがやや切迫した声色で許しを請う。スパルナの反応を面白がるように漏れていた忍び笑いが不意に止まる。再び訪れた沈黙は重く、シエサルが生唾を呑み込む音がやけに大きく耳に届いた。
「……特別に許可する。申してみよ」
先ほどとは打って変わって硬質で事務的な声音を発するヘルシングが、少々機嫌を損ねたことを長年付き従っているスパルナは察知して、少しひやひやする。
「は、我ら内諜部隊の規則の中に『身寄りのない半獣人は性別問わず手厚く保護すべし』とあります」
そこでわざとらしく区切ったシエサルが、こちらをちらりと見た。その瞳には残忍な色が浮かんでおり、スパルナは心臓をびくつかせた。冷や汗が勢いよく背中から噴き出し、心拍数が上がるのを自覚する。
「ええ、そのとおりよ。それが、どうかしたか」
「は、先ほどスパルナが報告した任務の標的である反体制派組織は、我ら内諜部隊の情報と引き換えに、内通者に半獣人の兄妹を差し出しておりました。組織を壊滅し裏切り者を排除した時点で、その兄妹は身寄りをなくす……。しかし我らにはその兄妹を保護したという情報が入ってきておりません。これはつまり、スパルナが規則に違反したという証左に他なりません」
スパルナは目を見開いて驚愕した。何故あの兄妹の存在を知っているのか、思わず横目でシエサルを睨む。こちらの眼光に気付いたシエサルはその端正な顔に怯えの色を浮かべるが、すぐにその口元に嗜虐的な笑みを刻む。お互い顔を伏せているため、ベルセルクに二人の応酬を見えていないだろう。
痛いほどの沈黙のせいでスパルナの心拍数が更に上昇し、額にうっすらと脂汗が滲む。
シエサルの疑念は的を得ていた。スパルナは任務を終えてからあの幼い兄妹を市街の一角にある知り合いが運営する孤児院に連れて行った。兄の方から聞いた話だが、彼ら兄妹はすでに親を亡くしており、反体制派組織に拉致されてしまう前から天涯孤独の身であったらしい。
その話を孤児院を経営する壮年の夫妻は、快く兄妹を歓迎してくれた。貧困の差が激しくストリートチルドレンも珍しくはなくて、さらに差別主義の蔓延する白虎国内において孤児院は数あれど、半獣人を受け入れてくれる施設は稀少だ。
その稀な孤児院の院長を勤める壮年の男性は純粋な人間ではあるが、寛容な性格と妻が半獣人であることもあり被差別主義者なのだ。数年前からお付き合いをしているスパルナは、以前から身寄りのない子供を保護したり、莫大な給与の大半を孤児院に寄付したり、暇があれば顔を出して子供たちに文字を教えたりしている。
識字率の低いこの国では、文字を教わることができるのは貴族の子供くらいのもので、平民でしかも親のいない子供が文字を識る機会は絶無に等しい。
「……シエサルの言うことは真実なの、ルナ?」
柔らかい口調で真偽を問うてくるベルセルクの言葉には、その裏に抑制された憤激があるような気がして、スパルナにとっては恐怖でしかなかった。冷や汗が頬を垂れて、一滴がぽとりと落ちて絨毯に染み込む。
曲げた右膝の上に乗せた拳をぎゅっと強く握り締め、重苦しい沈黙が広がる中でスパルナは意を決して白状する。
「……はい。シエサルが述べたことは紛れもなく事実でございます。規則は絶対である、それは重々承知しております。しかし、彼らはまだ幼く――――」
「規則は絶対、よ」
抗弁しようとするスパルナに冷徹な声音が降り注ぐ。その声は温度を失い、冷酷極まりない。刃物の如く鋭い視線を頭頂部に感じて全身が総毛立つ。その様子を盗み見るシエサルの頬に隠しきれない狂喜の笑みが浮かぶのを見た。
消される、と本能で直感したスパルナが反射的にその場から飛び退ろうとしたまさにその瞬間。
「その兄妹の年はいくつ?」
あっけらかんとした口調でそんな予想外の質問をしてきたベルセルクに、スパルナとシエサルは愕然と目を見開いた。スパルナは数秒に渡り頭の中が真っ白になり、ロクに思考をすることができずに呆然とする。
「ルナ、無視は駄目よ」
少しトーンの下がった声音を聞いて正気に戻ったスパルナは内心で慌てふためきながら早口で答える。
「兄の方は七つで、妹の方は五つでございます」
「そう。七つ、ね……。出会った頃のルナも七才だったわね、懐かしい……。もうあれから七年、時の早さは……なんだったかしら?」
「光陰矢の如し、でしょうか」
「そう、それよ。青龍の四字熟語? という言葉、便利ね。ねぇ、ルナ。今度また四字熟語、を教えてくれない? あなたの授業、すごく楽しいから」「ベルセルク様……!」
楽しげな声で他愛もない会話をする二人の間に、憤慨を御しきれていない声が割り込む。シエサルは憤懣やるかたないといった形相をしつつ肩を震わせ、そして我慢ならんといった体で頭を上げた。上げてしまった。
「まさか不問にするおつもりですか……! こ奴は規則を破るどころか、独断で孤児院に兄妹の身柄を預ける始末であります。今回のことは厳正に対処せねば部隊内の秩序を乱す危険性があり、このままでは部下に示しがつかないものかと存じます! 故に――」
「誰の許しを得て、面を上げた。誰の許しを得て、私を視界に収めた。貴様、いつから私に意見できるほどの存在になった。頭が高いぞ、下民」
背筋が凍るほどの超低温の声に内包された熾烈な激情に、心臓がきつく絞られる錯覚を感じた。ベルセルクが一体どのような表情をしているのか想像をしたくない。シエサルの血の気のない青褪めた顔は、悍ましいであろう表情を如実に表現していた。
静寂の空気が一気に帯電したかのように張り詰め、息苦しさを覚えるほどだ。恐怖すら感じさせる緊迫した雰囲気を凍てついた声が破った。
「貴様はただの家畜だ、消えろ」
空気が振動した次の瞬間、この世の終わりとばかりの表情をしたシエサルが白光の激烈な奔流に呑み込まれた。副次的に発生した衝撃波と肌を炙るような高熱に耐え切れず、スパルナは吹き飛ばされるような形で真横に飛び退った。真っ赤な絨毯を四回転ほど転げた後に、両手で制動をかけてなんとか停止する。
仰臥したスパルナは弾かれるように跳ね起きて、視線を元いた位置に転じる。しかしそこにはもうシエサルの姿は跡形もなく、白煙を上げながら焼け焦げて漆黒に変貌した絨毯だけが残っていた。これが万物を消滅せしめる白虎の咆哮、恐ろしいことに出力は神獣化した際の十分の一程度である。背筋に寒気が走るのを抑え切れない。
ゆっくりと視線を泳がせると視界の端に、端正な口許から細く白い一筋の煙をたなびかせるベルセルクの姿が映った。氷の結晶のような無表情と剣呑に輝く瞳、唇から覗く鋭利な犬歯がさらに恐怖を駆り立てる。果てしない畏怖で半ば硬直するスパルナは、ただ己の主が内包する破滅的な戦闘能力に気圧されていた。
気を静めるように細長い息を吐いたベルセルクは、ちらりとこちらに視線を向ける。思わず全身を強張らせるスパルナに対して何を思ったのか、ベルセルクは慈愛に満ちた双眸を優しげに細める。
「ルナ、ごめんなさい。少し取り乱してしまったわ。…………ねぇ、こっちに来て。頑張ったご褒美をあげるわ。いらないなんて言わないでよね、それだと私の気が収まらないから」
唇を尖らせて拗ねたように言うベルセルクは、少女のような可憐な雰囲気を漂わせていた。罪悪感を微塵も感じさせないその態度が尚の事スパルナを戦慄させたが、それも一瞬のこと。すぐに平常心に戻ったスパルナは立ち上がり、粛々と彼女の聖域である差し渡しおよそ十メートルはある部屋と同じく円形のベッドに近付く。
彼女の性格なんてものはとうの昔から熟知していたからこそ、冷静になることができた。並みの者なら恐慌状態に陥った挙句に部屋から飛び出すか、或いは悄然と萎縮するかのどちらかである。そういう意味では、スパルナは並みの感性を持ち合わせていない異質な存在ということになる。
ベルセルクにとって内諜部隊は自身の手足であり、目であり、耳であると同時にその存在は家畜と同等なのだ。一人消えたところで痛くも痒くもない。それはスパルナも例外では、ない。
それを理解した上でスパルナはベルセルクに忠誠を誓っていた。彼女は衣食住、地位や金、何よりも過不足ない生活を与えてくれている。一生かかっても返しきれぬ大恩があり、彼女のためならば身命を賭せるほどの揺るぎなき覚悟を胸の内に秘めているのだ。
四本ある黄金の柱が豪奢な金張りの天蓋を支え、そこから皺一つなく清潔な純白の薄布が垂れ下がり、ベルセルクの輪郭を朧げにしている。スパルナはゆっくりと薄布を持ち上げて、片膝を白絹の敷布に静かに乗せる。瞬間、淡雪のように布地が深く沈み込み、素材の上質さを物語る。
両膝を乗せ、わずかに俯かせていた顔をおもむろに上向けると、その先に凄絶な美貌を持つ少女がいる。
部屋の窓から降り注ぐ星明かりを受けて仄かに輝く敷布、そこに清流のように流れる髪は純銀を鋳溶かしたような艶やかな銀色であり、月光と星明かりを映して冷たく煌めいている。
髪と同色の気品を漂わせる眉の下の大きな瞳は純粋な銀色で、美しい虹彩を七色の輝きが水面のように揺蕩いながら彩りを添える。優美な線を描く鼻筋、真珠色の艶のある唇が不可視の色香を滲ませる。
その美貌に思わず息を詰めるスパルナの態度をどう解釈したのか、ベルセルクは小さく眉を寄せる。花弁の如く流麗な曲線を描く唇が小さく動き、誘惑的な声がスパルナの耳にとろりと流れ込んだ。
「少数を犠牲にして、多数を救う。仮初めの平和であったとしても、それが最善の方法なのよ」
その言葉はスペルナの深層心理を鷲掴みにした。虚を突かれて絶句するスパルナをベルセルクはじっとまっすぐ見詰めながらゆっくり両手を上げると、身に纏う純白の薄物の胸元を留める銀糸を編んだリボンの端をゆっくり、ゆっくりと引っ張っていく。
しなやかな白い指先で解かれたリボンの先にあるのは、広い襟ぐりから覗くぞっとするほど白い肌だ。はだけた襟ぐりから半ば以上露わになったしっとりと白く豊かな二つの膨らみが蠱惑的に揺れ、かすかに甘い匂いが漂う。
半ば正座の体勢で硬直するスパルナの膝に置かれた右手を、白く華奢な掌が優しく包み込む。そして柔らかく握られたスパルナの右手は誘導され、指先がひんやりとした白い肌に触れた。
「あなたは悪くない。悪いのは浅ましい優越感に浸る人間たち、半獣人は誇り高き種族よ」
「しかし、私が夥しい量の血を啜ったのは紛れもない事実です。たとえ如何なる事情があろうとも、殺しが正当化されることなど有り得ません」
スパルナは冷酷な暗殺者であったが、他者の悲喜に共感できる正常な感性を持ち合わせていた。それ故に、何度も果てしない自己嫌悪と罪悪感がスパルナを苛む。そんな内面を彼の主はしかと見極めていたのだ。
蕩けるような微笑を浮かべる彼女は焦らすように胸元を覆う片腕を外していき、支えを失った双丘は熟れた果実のように柔らかく弾んだ。女神の如く超然とした微笑を浮かべる彼女はスパルナを優しく受け止め、柔らかく包み込む。
蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香のような声音が、甘い吐息と共に耳許で囁かれる。
「あなたの今までの行いは全て半獣人の救済のためよ。私はルナが笑って暮らせる世界を作りたい。積み上げてきた屍はそのための致し方ない犠牲なのよ。…………ルナ、あなたに重大な任務を与えるわ。これが最後の任務、もう誰も殺さなくていいの。だから、ね……朱雀の戦姫を殺して。これで最後だから……返事は?」
それが虚偽妄言なのか、スパルナには判断しきれなかった。スパルナの心情を見透かすように繰り返し最後、と強調する彼女の声に思考が鈍麻していく。飽くなき嫌悪と罪悪感のループも今回で終焉を迎えることができる。
暗殺、殺戮、壊滅、殲滅。殺害、殺害、殺害、殺害、殺害。
残忍な彼女に忠義を誓うスパルナの精神は、決して鋼のような頑強さではない。繰り返される暗澹たる日常に、スパルナの心は酷く疲弊していた。
この任務を遂行すれば大恩による忠誠も果たせ、かつ負の感情に苛まれることもなくなる。まさに一石二鳥である。
スパルナは首肯と共に返答した――――。